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 私の受けとめた召命(1)・・・ 召命についてのひと言
マリアニスト修道者  ヨゼフ 池田紀行  
自分の召命について述懐し披瀝することは、差し出がましい気もしますが、私自身のためにもそうしたいと思います。ひとりの人間が遭遇することは、すべての人間に起こり得ることでもありますから、他の人の参考になることだと思います。

私は中学1年からマリア会の学校に入り、高校1年の時に、洗礼を受けました。
受洗前からかどうか定かではありませんが、
「行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。
それから、私に従いなさい。」
という聖書の言葉が気になっていました。

誓願50周年記念ミサ
自分と関係のないこととして素通りしていいのかという気持ちがありました。
「従いなさい。」で結ばれた聖書の言葉ですが、深刻に受けとめていたわけはありません。最後にはそうする方がいいに決まっているという予感めいたものがありました。

後に、八木重吉の「わたしはキリストをしんじる。しかしながら、わたし自らが、乞食のようになって、それでも、うれしい日がくるまでは、たからかに、さけべない。」という句と出会いました。
この句は、聖書の言葉とドッキングして私に訴えるものがあります。
乞食のようになってもという言葉にはぎょっとしますが、福音をほんとうに生きるとはどういうことか、愛すること、平和とは、等、考えさせられます。

こまごまとしたことはともかくとして、このように聖書の言葉に導かれ、なにやら予感めいたもの、あるいは、志みたいなものに促され、後押しされて、やはり、清貧・貞潔・従順の修道生活、具体的にはマリア会に入りました。

これが私の受けとめた召命、また、受けとめようとしている召命でもあります。

私の家族は信者ではありませんでした。
高校3年の時にマリア会に入りましたが、家では私の出家について親族会議を開いたようでした。父は、私の志を聞いて、お前たちの生き方からするなら、それが本当の道なんだろうな、と言ってくれました。
父もうすうすわかっていたのではないかと思います。

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