◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第9章 1809年−1811年 

アデルの病気 / 21才の誕生日
学校と慈善事業 / 服装と慎み



クリスマスが近づいた頃、長引いていたアデルの病気は、少しづつ快方に向いはじめた。しかし、死に瀕するほどの病気の重さと、当時おこなわれていた治療法が災いして、アデルの身体は衰弱しきっていた。長風呂に入ったり、ひるに血を吸わせたり、切傷をつくって血を流したり、灸をすえたり、強力な下剤をかけるなどした。これらは当時の医学では、悪い体液を体外に追い出す有効な治療法とみなされていたのである(1N58)。

しかし、アデルは徐々に体力をとりもどし、手紙を書くことができるまでに回復した。最初の手紙は、1809年12月21日付けのアガタに宛てた手紙である。アデルはこの手紙の中で、自分が長いあいだの病気で返事を書くこともできなかったが、そのあいだ、手紙を書きつづけてくれたアガタに礼を述べ、もうすぐ、二ヶ月ぶりで聖体を拝領することができる、と述べている(2)。

瀕死の病を体験したアデルにとって、話題は自然に人生のはかなさに向かって行く。

「親愛なるお友よ。ひとときも時間を無駄にしないでおきましょう。ひょっとして、わたしたちには、もうこれ以上の時間が与えられていないのかも知れません。死は年齢と関係なくやってきます。ご覧なさい、わたしはまだ20才です。それなのに、まさに死なんばかりの経験をしました」(3)。

生命のか弱さを自分の肌で感じとったアデルは、この数カ月間、幾度かこれと同じ考えを口にしている。たとえば、この手紙から数週間のちに出された手紙の中では、次のように述べている。

「一瞬たりとも無駄に時間を費やすことのないようにしましょう。時間は容易にわたしたちの手から滑り落ちて、あっという間に過ぎ去ってしまいます。すべてを神のために行うようにいたしましょう...そうすれば、死の瞬間において、また、永遠にわたって、悔悟の念に悩まされることはないでしょう」(4)。

アデルは手紙を書くことができるようになると、直ちに今まで中断を余儀なくされていた仕事に着手した。ある種の基金の支払にかんする男爵からのメッセージをディシェ氏に伝えたり、シャミナード神父からの手紙をアジャンのアソシエイツに送ったり、神父から依頼された簡単な調査をおこなうようにベロック夫人に依頼したりなどした(5)。

11月の初旬、アミンタの訃報をアデルから受けとったボルドーのソダリストは(6)集会を開き、キリスト者が神を愛する友人を喪ったとき、どのような気持ちでこれに臨まねばならないかについて話し合った。結論は、その友情が真実であればあるほど、このような今生の別れを喜ぶことになるだろう、ということになった。

シャミナード神父は、第三部会もこの見解に賛同できるかどうかと問い合わせ、アデルに、他のオフィサーたちと相談して、全員の答えをその理由とともに纏めて送り返してほしいと依頼している。当然のことながら、自分でこの仕事をすることができなかったアデルは、ベロック夫人に頼んでアンケートを配布してもらい、答えを纏めて送り返すようにしてもらった(7)。

ナポレオンと教皇の関係が険悪になるにつけ、このようなアンケートに答えをだすことは実質的な意義を持っているとアデルは考えた。フランスは、ひょっとして、ソダリティの弾圧にとどまらず、ぶたたび宗教そのものを弾圧する道を歩んでいるのかも知れない(8)。

昨年、ナポレオンは妻ジョセフィーヌを離婚し、聖職者の中で自分の立場を擁護できないような「くだらない神学者」は、容赦なくその地位から引きずり下ろした。このとき処分された聖職者の中に、シャミナード神父の友人であるラクロア神父(LaCriox)がいた。かれはボルドーの神学校の校長であり、教区の司教総代理を勤め、大司教の秘書をした人である(9)。

3月になると、ナポレオンは男子の世継ぎを得ようとしてオーストリアのマリア・ルイサと結婚する(10)。アガタと「おん孕りの分会」に宛てた手紙で、アデルは次のように記している。

「信仰の火がまだわたしたちのあいだで燃え続け、宗教の自由がまだ残されているあいだに、永遠の生命にふさわしい実を結ぼうではありませんか。そして、わたしたちにたいする神の怒りを鎮めようではありませんか」(11)。

アデルは、種々の病気をフランスに降り掛かる神の怒りとみなし、祈りと信者たちの模範的な生活によって遠ざけることができると考えていた(12N59)。

この世のはかなさに目覚めていたアデルは、この世のものから、より完全に離脱することを熱望し、生活のすべてを神にささげ尽くすことができるように、意向を清める必要性を認めていた(13)。そして、これにつづく数カ月のあいだに、自分の召命は「この世に留まる」ことではない、との確信を持つにいたった。この世の仕事に没頭しながら自分の救霊をまっとうすることができる人もいるだろう。しかし、自分にはそれはできない、と思うのだった。なんらかの形で自分自身を全面的に神に奉献しなければならない。「自分のこころも、身体も、たましいも、自分のすべてを残すことなく、いつまでも」(14)。そして、ナポレオンがスペイン侵略のために南フランスに軍隊を結集するにつけ、アデルは、ますます、今はこの世のものごとを追い求めるときではない、と確信するのだった(15)。

3月になると、アデルの健康は快復し、伯母とアソシエイツを訪問するためにコンドムへ出かけることができるほどになった。聖週間と復活祭をコンドムで過ごしたアデルは(16)、そのあいだに謙遜と忍耐を黙想し、今までに受けた数多くの恩寵を感謝するのだった。 

アデルは約一ヶ月ほどコンドムに滞在してトランケレオンに帰ったが、5月になるとディシェレットがやって来た(17)。昇天祭の一週前には、ラリボー神父とマドモアゼル・ド・ポミエもやって来た。集まった人たちは、グループ・ディスカッションをしたり、個別の話し合いなどをしたが、いずれも、アソシエイツとしての問題点や「慈悲深い神のため」(18)の話し合いであった。ラリボー神父は、神の愛と謙遜の二つのテーマに基づいて、二回の黙想を指導し、定期的におこなわれている金曜日の集会にも出席してくれた(19)。

昇天祭の木曜日、5月31日の手紙で、アデルは、軍隊が不安な状況にあるので期待されていたロンピアンへの旅行は数日間延期しなければならなくなったと述べ、残念だ、と記している(20)。

とは云いながらも、実際には、この旅行は同じ週に実現した。6月2日の土曜日、アデルとディシェレットはトランケレオンを出発し、午後7時にロンピアンへ到着した(21)。その日の夕方、その地の小さな小教区の聖堂で念祷をおこなったのち、夜の11時までラリボー神父と会談した。

翌日曜日、朝5時に起きて教会へ行き、告白をした。ミサの始まるのが午前7時であったため、その地のアソシエイツであるジャンヌ・ラルベス(JEANNE LARBES)と話し合いの機会を持つことができた。ミサに与り説教を聞き、それぞれ感謝の祈りをささげたのち、皆といっしょに昼食に出かけた。

かねてから一行の来訪を知らされていたアソシエイツたちは、食事が終わると、訪問客に会いに来た。来たのはモミュス(MOMUS)の二人姉妹とマダム・ファーブル(MADAME FABRE)、ならびにポアトバン(POITEVIN)の姉妹二人であった。

ポアトバン姉妹の一人はすでにアソシアシオンの会員であったが、15才になるマリ・スレット(MARIE SEURETTE)は、この日、新しく会員として受け入れられた。こうして、ポアトバンの姉妹3人が「ご訪問の分会」に属することになったのである。

晩課ののち、8人のアソシエイツは戸外に出た。モミュスの二人姉妹、ポアトバンの二人姉妹、ファーブル、ラルベス、アデル、そして、ディシェレットの8人であった。かの女たちはアソシアシオンの事業について意見を交わし、愛し仕えている神について語り合った(22)。

こののち、もう一度教会に帰って祈りをとなえ、マリ・スレットがマリアへの奉献を行った。この教会はラリボー神父の努力によって再建され、再び神の息吹をとりもどしていた、とアデルは述べている(23)。

アガタはアジャンに留まっていたため、この「有益な体験」については、アデルの手紙とディシェレットの口から聞くにとどまった(24)。それでもアガタは、この旅行の実際面で皆と協力している。アデルはかの女に、ラリボー神父の教会のために買った装飾用のふさを取り替えて来てくれるように依頼し(25)、その苦労にたいして礼を云っている。また、帰省したディシェレットを通じてお金を送ったりもした(26)。これらは、向こう数年間にアデルがアガタにする種々の依頼事項の一例である。アガタは都会に住んでおり、市場の開かれる中心地にいたので、アデルが田舎や小さなフガロールの町で求めることができない品物を、代わりに調達してもらったのだった。

5月には、サイズの違う金色のスパンコールを送ってくれるように依頼しており(27)、6月になると、今の仕事に足りなくなったので、もっと送ってくれるようにと依頼している(28)。アデルはまた、自分に代わって本をアメリに返却してほしいとも頼んでいる(29)。また、もし伯母のサン・ジュリアンがコンドムの市場で気に入ったシーツを手に入れることができない場合には、アガタの方で買ってくれるように、とも頼んでいる(30)。

今年の誕生日でアデルは21才になり、革命後の法律に従って、法律上の成人になった。この誕生日はちょうど聖霊降臨祭の日曜日にあたっていた。アデルはいつもアガタへの手紙を週のなかばに書いていたが、この日はいつものリズムを破って祝日当日に書いた。その手紙のなかで、アデルは、この日に聖体拝領をすることができたことを喜び、次のように記している。

弱く臆病な使徒を強く勇気のある宣教師に変えた聖霊の賜は、わたしたちにたいしても同じようにはたらいて下さいます。もはや他人の意見を恐れているときではありません。世間の人のあざ笑いと意見に耳を傾けることなく、自己の信仰を告白するときが来ました。「神さまだけをお喜ばせするように努力しようではありませんか。神さまはご自分のすべてをわたくしどもに下さいました。神さまのためにのみ生きましょう」(31)、と。

アデルは、この手紙を急いで手短に書いたことを詫び(32)、ディシェレットの最近の訪問でも分かってもらえるように、いま自分は大変忙しいのだ、と述べている。

当時の若者にたいする宗教教育と一般教養の欠如ははなはだしいものがあった。革命はそれまで教会が行っていた教育システムを崩壊し、空白のまま残してしまった。フランスの国家政府が地方レベルでの初等教育に着手し始めたのは、やっと1833年になってからのことである(33)。そのようなことから、アデルは今までのように、慈善事業をおこなっているときや教会への行き帰りにしていた即興的な宗教教育では満足できなくなり(34)、シャトーに「学校」を設置しようと考えたはじめた(35)。

アデルは小さな女の子や男の子を集めて公教要理を教えたり、読み書きを教えたりした。しかし、この子どもたちは遠く離れた場所に三々五々住んでいたために、交通の便を確保することができなかったり、親のする家事や畑仕事の手伝いをしなければならないことが多かった。そのため、標準化したプログラムを作ったり、学校のように授業の時間割を設定することができなかった。子どもたちは、来ることができるときに、一人で来たり、小さなグループで来たりした。子どもたちが来ると、祈りをしているときでも一家団らんのときでも、アデルはすべてを差し置いて子どもたちを受け入れ、その世話をするのだった(36)。

また、日中に時間の取れない近所の農家の召使たちは、しばしば夜、勉強にやってきた。シャトーの召使、とりわけ少女の召使の教育の責任は、先ず第一に男爵夫人が引き受けた。しかし、アデルもかの女たちを無視することはなかった。冬のあいだは毎晩アデルの母親がかの女たちを集めて宗教書を読み聞かせたり黙想をしたりした。アデルはそのあとを引き受けて、召使の中で能力のありそうな子どもを選び、特別な教育をほどこした(37)。

アデル自身、このような授業のあり方や自分なりの教育法に満足していたわけではなかった。アデルはもっと進んだ教育をおこない、とくに少女たちには、その将来の身の振り方が明確になるまで、労働を通して利益をえることができるような仕事を探し、これにつけてやった。もちろん、ものごとはいつも順調にすすんだわけではなく、よくできた計画もときには失敗に終わることがあった。

今年、アデルは、このような少女の一人をロンピアンの良家に就職させた。しかし、この少女は病気にかかり、咳をして血を吐くようになったため、住み込みの仕事ができなくなってしまった(38)。

アデルはまた、恵まれない人たちの慈善事業に精をだした。母親のように、そして、しばしば母親といっしょに、貧しい人たちを訪問し、困っている人たちに心身両面の世話をした。また、数多くの子どもたちを「養子」にとり、子どもたち、とくに赤ん坊のために衣類を作ってやった(39)。当時のフランスにおいては、多数の母親が手にあまる赤ん坊を水に沈めたり、生き埋めにしたり、捨てたりしたと考えられている。

革命以来、貧困と飢えは亡霊のように人びとの生活につきまとい(40)、ナポレオンによる大胆な軍隊組織は、さらにこれに拍車をかけた。徴兵人口の減少を恐れたナポレオンは、孤児院に回転台を取り付けるように命令し(1811年)、人目を忍びながらも安心して赤ん坊を捨てることができるようにした(41)。

アデルは、もっと年かさの子どもでも「養子」にした。そして、その子どもたちが新婚生活を始めるとき、嫁入り道具を準備してやった(42)。父親男爵は、召使の子女に持参金をもたせたいと望んでいた。しかし、まだそれだけの資力を回復していなかった(43)。だからアデルが自分の手で作る嫁入り道具は、ある意味で、それを補っていたといえる。

アデルは1809年以来、会計簿を記入しているが、それを見れば、アデルが養子にしていた何人かの子どもの名前を知ることができる。帳簿には子どもの名前と、その子のために使ったお金の額が記入されている。トリクレット(TRICOULETTE)とカデット(CADETTE)、ボンヌフォン(BONNEFOND)とラミ(LAMI)、ユルシュール(URSULE)、ペラケート(PERAQUETE)、そしてジャネトン(JANNETON)の名前を読み取ることができる。また、施しを受けた人の中で、名前が明記されず、単に「貧しい人」とか、「スペイン人」とか、「小さな女の子」、「大工の手伝い」などと記入されているケースもある(45)。

また記載事項の中には、靴の代金とか、靴の修繕費、ハンカチーフ、ドレス、ストッキング、シーツ、サンダル、公教要理、ロザリオ、布地、などが見出される。これらの支出のあるものはアデル自身のためのものであるが、大半は他の人たちのためのものであった(46)。

アデルは伯母の一人から遺産として6000フランを相続していた(47)。アデルの父親は、この遺産にたいして年5%、すなわち300フランをアデルにあたえ、それに父親自身からのお金として100フランを付け加えてアデルに与えていた(48)。

400フランと云えば、当時の貧しい社会においては相当の金額であった。アデルはこのお金の大半を、自分が世話をしている貧しい人、教えている生徒、「自分の子ども」のために使っていたのである(49)。アデルがこのお金をほとんど自分のために使うことがなかったので、アデル自身が本当に窮乏するのではないかと心配した父親は、ときどきかの女のためにリンネルやドレスを買いあたえていた(50)。

施しのお金が不足すると、アデルは母親に助けを求めた。そして、もし母親にお金がないときは、400フランまでの借金をして貧しい人たちを助けた(51)。乞食が来ると、自分の靴を脱いであたえることさえあった(52)。父親が死んだときには、その下僕ブリベル(BRIVEL)にハンカーチーフを作り、ウールのソックスを編んであたえ、普段着用として自分が使っていたストッキングをあたえている(53)。施しに十分なお金が無くなるのを心配したアデルは、貴族の習慣として自分の年頃の婦人たちに贈物を送る風習があったが、それを取りやめた(54)。

時間の使い方にかんして、アガタが、アデルにその素晴らしさをほめたことがある。そのときアデルは、大切なのは自分がどれだけ没頭してどれだけの仕事をしたかであるよりも、仕事をするときの精神と動機付けの意向にある、と述べている。

「もし今までにわたしがしたことが全て神さまのためであったなら、少しは功徳を積めたかも知れません。しかし、わたしは何ごとをするにも、一種の本性的な行動への衝動、ある種の生来的な嗜好性に基づいておこなっています。そして、しばしば、他人からよく思われようとする欲望に駆られています。いままでわたしがしてきたことは、すべてある意味で無意味なことなのです!」(55)とも記している。

そしてアデルは、アガタに、聖パウロの言葉を思い出させ、何ごとをなすにも主イエス・キリストの名においておこないなさい、と述べ、お互いに競争してこの言葉を実践しよう、とアガタにうながしている。そして、そのために神の恵みを祈り求め、次の告解のときまで、毎日、朝晩、天使祝詞をとなえることを提案している。

アデルは、また、アガタに、愛に反する過ちを克服するように励まし、神のように隣人を愛し、マリアのように隣人に仕え、助けを必要とする人たちにたいしては心身両面で奉仕するようにしよう、と述べている(56)。

多忙であることについては、アガタも例外ではなかった。忙しすぎてトランケレオンに行くことができません、と述べているほどである(57)。しかし、アデルはこのようなアガタにたいして、縫物や刺繍など今あなたがしている大半のことはシャトーに来てもできるでしょう、と小言を述べている(58)。これは7月頃のことで、この前のアガタの訪問から、すでに一年が経とうとしている時のことだった(59)。

当時のアデルは、何人かのアソシエイツの病気に大変心をいためていた。アデルの非常に親しい友人で、コンドムの「ご託身の分会」のオフィサーをしていたロロットは、病気の快復のためにルルドの東にあるバネェール(BAGNERES)の温泉に行かねばならなかった。もう一人、これもやはりコンドムのアソシエイツであるフェレトン(FERETONE)も、ルルドの南西約16キロのコートレ(CAUTERETS)の温泉へ湯治に出かけた。アデルはこの二人について、どちらもそれほど長くは生きて行けないだろうとの情報を受け取っていた。アデルは、立派な死を遂げようとしているこの二人のためよりも、むしろ、この二人の死によって良き模範を失う自分と他のアソシエイツのために大いに悲しんだ(60)。

8月、マリアの被昇天の祝日に、すべてのアソシエイツはフランス国民として全贖宥を受けることができることになっていた。この全贖宥は、皇帝の保護の聖人、聖ナポレオンの祝日のために教皇が布告したものである。アデルはこの日、少なくとも霊的に、アガタといっしょにご聖体を拝領し、この贖宥の恵みにあずかることを望んでいる(61N60)。

また、アデルはこの祝日を機会にマリアの謙遜と純潔について触れ、聖母が自分たちにとってどれほど素晴らしい模範であるかを述べている。謙遜については、「無益な見栄から身をひきましょう。知られざる存在であることを望み、無視されることを愛そうではありませんか」(62)と述べている。また、マリアの純潔について語るときは、アデルはラリボー神父が力説する(63)ように、服装にかんする慎みについての注意を喚起している。服装の慎みかんしては、アデル自身も自分のライフスタイルを徐々に変えようとしていた。

3年前のアデルは、アガタに宛てた手紙の中で、身体のラインをきわだたせるような服装はいけないと主張するラリボー神父を、「柔軟性に欠ける」と記したものだった(64)。当時のファッションでは、カールのかかったなで上げ型の髪を、リボンかボンネットで際立たせていた。チョーカーや、目だつネックレスも流行していた。

細いウエストラインと、持ち上げたバスト、それに、大胆なデコルテで、ときには乳房もあらわなドレスを着ることが流行した。フレアが多く、布を幾重にも重ね、口紅や白粉や香水もふんだんに使用した(65)。だからアデルも、身体の曲線をある程度まで隠すために、新しいスタイルの洋服を着るときはショールやネッカチーフを纏うことが慎みのある人のすることだと主張するラリボー神父の意見に同意していたのである。

しかし、この8月20日の手紙では、アデルはきっぱりと最近流行のガウンを拒否している。この流行によると、ヒップと股のラインを誇張するためにウエストから膝までをきつく引っ張り、ときには腰を広く見せる腰当てを着けることになっていた(66)。

アガタの親しい友人で、最近アソシアシオンに入会したアジャンの女性エリザは、この点で弱さをもっていたようである。いずれにせよ、エリザについて述べている文章の中で、アデルは昨年話し合われた服装にかんする慎みについて言及している。すなわち、昨年ラリボー神父がトランケレオンに来た際、師は「朝から晩まで」アソシエイツの服装についてアデルに質問を投げかけたこと、そしてアデルに、もっとこの点にかんして頻繁に意見を述べるように要求したこと、また、アガタもよく知っているように(68)、アデルは師のこの点にかんする勧告を実践していること、などである。

そして、いま、アデルはおとめマリアの慎み深い服装を模範としてさし示し、マリアの服装がどれほど自分たちのものとは異なっていただろうか、と述べている。マリアの子は、この点にかんして明白に他の人たちと区別され、とりわけ、ぴったりと身に着くガウンを着るのを避けねばならない、と述べている。そして、このようなスタイルは他人の目には誘惑となり得るものであり、そのことは単に自分ひとりの意見ではない、とも付け加えている。アデルはアガタにたいして、この点にかんする自分の無遠慮な言い方を詫び、これからも自分たち二人は、おたがいに、自分たちの霊生を守る上で、率直な意見を出し合うことを提案している(69)。

シャミナード神父は、アソシエイツが集会において服装や髪型、慎みのない服装について話し合うことに賛同の意を表している。しかし、そのような話合いは率直なものでなければならない、とアデルに警告をあたえている。また、この種の話題は、新しい会員が来たときなどは、かなり自然な形で話し合うことができるだろう、とも述べている(70)。

後日、これにぴったりした機会がやってきた。アデルはマリ・スレット・ポアトバンに宛てて次のように書き送っている。

「わたしたちが世を捨てた者であることを他人の目にもはっきりさせようではありませんか。服装においては質素であり、言葉使いにおいては謙虚であり、容貌と振舞いにおいては慎み深くありたいものです」(71)。

1810年、四旬節前に行われるカーニバルの季節が来ると、ラリボー神父は手紙を書いて、次のように述べている。

「わたしたちアソシエイツのあいだには、慎みを危険に曝さねばならないようなダンスや舞踏会やパーティにしばしば出入りする人はいないと思います。わたしたちは、これらすべてのことを洗礼のときに放棄しました・・・イエス・キリストにおける姉妹たちが、服装において、もっと質素でありますように。それは、なにごとにおいても、どこにいても、皆さんがこの世とその虚栄を捨てた者であることを世に宣言し、そうすることにおいて、欲に溺れるものを打ち砕き、弱い者を励まし、罪人を呼び戻し、こころの正しい人を慰めることにあります。これがわたしたち全員にあたえられた召命であり、会の規則によって表明したわたしたちのつとめです」(72)。

アデルのいとこの証言によれば、アデルは他のアソシエイツに説いたことを自分でも実践していたことが分かる(73)。フガロールがファッションの中心地でなかったことは確かである。しかし、比較的ボルドーに近い場所に位置していたことから、少なくとも最新の情報を手に入れることができた。しかしながら、アデルはこれらにかんして、いっさい関心を示していない。

アデルのドレスはたんに質素であったばかりでなく、明らかに時代の流からおくれていた。髪の毛も当世風にカールをつけるよりは、むしろ、短くカットしていた。衣類と化粧道具は、亡くなった祖母の身の周りの世話をしていた召使が管理していたが、明らかにこの召使の趣向は当世の流行からかけ離れていた。アデルの自愛心と虚栄心は苦しんだ。しかし、かの女は強い意思をもって自分の願望を目標に合わせたていたのである。

男爵も男爵夫人も、自分たちが誇りとする21才の娘が、貴族の娘らしい装いをすることを望んでいたにちがいない(74)。しかし、二人とも、娘の生き方を受け入れた。革命と亡命はかれらのこころに何かを残していた。二人にとって、ある種のことは、もはやそれほど重要ではなくなっていたのである。事実、男爵夫人自身も非常に質素な服装をしていた。そして、他の多くの点でそうであったように、男爵夫人はこの点においても、アデルと一つであったのである(75)。

若いころの男爵は、どこかよその地へ行ったときは、アデルへの土産として、なにか目新しく、目を引くような衣服類を買って帰るのが常だった。しかし今ではその父親も、自分に感謝の気持ちを表すために美しく着飾ることはあっても(76)、それはアデルにとって涙が出るほどかの女の価値観にそぐわないものである(77)ことに気付いていた。

アデルはときとして、わざとおかしな風に不釣合いなものを身に着けることがあった。お友だちといっしょに家族連れで外出するとき、アデルは父親から買ってもらった色鮮やかな高価なドレスを着た。しかしそのとき履いたストッキングは、普段着のものであった。アデルはまるで、自分がそそっかしくてそのような顛末になったかのように振舞ったが、誰もかの女を笑うものはいなかった(78)。

だから、今では、父親は土産を買うとき、かの女が世話をしている貧しい人たちに必要なものとか、かの女の祈祷所に必要なものを買うようにしている(79)。アデルは、このような父親の心使いを大変嬉しく思うのであった。

おとめマリアは、アデルにとって良き模範であるだけでなく(80N61)、「優しい母親でもあり、特別な保護者であると同時に、神への強力な代弁者」(81)でもあった。

早くからアデルはその手紙の中で、熱心なカトリック信者がそうするように、ごく自然にマリアについて語っていた(82)。しばしばマリアの祝日について触れ、それについて語り、そこから実行的な結論を導きだしている(83)。自分の祈祷所には、マリアのご絵を飾っていた(84)。また、アデルは、マリアのこころの内にはいり込み(85)、自分の功徳を聖なる乙女のみ手に委せ(89)、ロザリオをとなえ(87)、スカピラリオを身につけていた(88)。

また、アソシアシオンは各々のメンバーをマリアの特別な庇護のもとにおいていた(89)。そして、アソシアシオンが急速に発展すると、アデルはそれをマリアの特別な保護のおかげであると公言してやまなかった(90)。

ボルドーのソダリティと提携してからのアデルは、マリアへの見方が広がった。そして、そのなかから、その後のかの女の生活を支配するような新しい洞察をくみ出すようになった。シャミナード神父はアデルに宛てたはじめての手紙の中で、神の母に特別な方法で所属していることの幸福について語り、その家族の一員であることの喜びについて記している(91)。

「マリアの召使の手引」の中に豊かで力強いマリア論を見いだしたアデルは、これにたいして大きな熱意をもって応えた(92)。また、アソシエイツがまだ公式にソダリティのメンバーとして受け入れられていなかったにもかかわらず、マリアへの奉献をおこなうようにかの女たちを激励した(93)。これはちょうどシャミナード神父が、ソダリストに奉献をしばしば更新するように薦めていたのとよく似ている(94)。また、このマリアへの奉献文は、マリ・スレットがアソシアシオンに受け入れられたときにロンピアンの教会でおこなった奉献文と同じである(95)。

ボルドーのソダリティにおけるマリアへの奉献は、一般の信心業やマリアへの祈りの範ちゅうをはるかに超えたものであった。シャミナード神父は、「第三部会」もこれと同じように育つだろうか、と気にしていた。

手引書(MANUAL)には次のように記されている。

「いとも純潔な聖マリアを敬う真心からの奉献というものは、奉献する者と、その奉献を受ける汚れなき乙女とのあいだで、真の契約を結ぶことである。いとも尊い聖マリアは、母親としての慈悲のこころに自己の全てを委ねる人を、力強い保護のもとにおき、自分の子どもとして受け入れる。これにたいして、この新しいマリアの子は、いとも尊い御母と、もっとも魅力あり、かつ、望ましいいくつかの義務を、契約の名のもとに受けいれる」(96)。

シャミナード神父は、少しづつ、アデルに奉献の本当の意味を分からせるように指導した。

さて、1810年の8月、ボルドーでのトラブルを機に、シャミナード神父は長い沈黙を破った(97)。師は、投獄され祈りを必要としているラフォンについて簡単に述べたのち、約束どおり分会の各オフィサーに与えられた職務についての説明を書き送った。

各オフィサーは、自分にまかせられた分会のすべてのメンバーにたいして責任をもつ。そして、主たるオフィサー(第三部会の長としてのアデル)は、すべてのオフィサーにたいして責任をもつ。

良きオフィサーは、すべてのメンバーがソダリティの行事や習慣を正確に遵守するように熱意を鼓舞し、支援するものである。また、メンバー全員に、頻繁に秘跡を受けるようにすすめ、祝日や集合聖体拝領(GENERAL COMMUNIONS)の機会を告知しなければならない。

シャミナード神父によれば、一般的に女子青年のソダリティは非常に模範的であり、今では弾圧を受けているが、そのあいだもマリアへの奉献を忘れた者はほとんどいなかった。

シャミナード神父は、アデルとアソシアシオンの会員たちに、もしこの手紙が間にあうならば、マリアの誕生の祝日に心からマリアへの奉献の祈りを唱えるように、とすすめている。それは、心からこのマリアへの奉献をおこなう人にあたえられる祝福と恩寵には目を見張るものがあるからだ、と述べている。イエスの母は、奉献する人たちにとって、本当の母親となる、ともシャミナード神父は云っている。では、なぜそのようなことが可能なのであろうか。この問いにたいする答としてシャミナード神父は、マリアがイエスを肉体的に身ごもる前に、どのように信仰をもってイエスを身ごもったかを手短に説明し、もし望むなら後日もっと詳しく説明しよう、と述べている(98)。

9月になると、アデルは再びアガタにトランケレオンへ来るようにと誘いかけた。たとえ一週間なりとも泊まって行くようにと声を掛けている。そうすれば、二人でロンピアンへ巡礼に行くことができるだろうし、しかも、それはアガタに大変有益な結果をもたらすだろう、とも述べている(99)。

だが、このとき旅に出たのは、アガタよりもむしろアデルの方で、9月24日、アデルはマダム・サン・ジュリアンといっしょにアジャンを訪れた。ディシェレットはその時、4人目の子どもを身ごもり、すでに5カ月目であった。帰省のときが近づくと、アデルはアガタを仕事から引き離してシャトーに連れ帰ろうとしたが失敗に終わった。いつものようにアデルはこの落胆を通して神の摂理のみ手を見いだし、快くこれを受け入れた(100)。

しかし結局アガタは、10月になって、トランケレオンへ来たのではないかと推測される。なぜかと言えば、10月22日と28日のアガタに宛てたアデルの手紙の中には、いとこエリザとマダム・パシャンから宜しくとの伝言が書かれており、この文脈からすると、二人はさほど遠くない時期にアガタに会ったことを意味しているからである(101)。もっとも、ひょっとして、この二人はアデルがアジャンへ行ったとき、アデルについて行ったのかも知れない。

エリザと叔母は、この時シャトーに留まり(102)、12才のエリザは10月21日に初聖体を受けた(102)。11月の中旬にはエリザと叔母は寄宿舎に帰ったが、かの女たちが出発したあとのアデルは、寂しさを隠すことができなかった(104)。

この間、アガタは、また、失望と落胆に沈んでいた。アデルはそのようなアガタを支え励ましている。神にお願いができなくなるほど心を落ち込ませていたアガタを叱り、「アガタさん、正にあなたがそれほどに貧しく惨めだからこそ、神にもっとお願いする必要があるのです。救い主にお助けを願い、叫び声を上げましょう。神のお助けなくしては、わたしたちには何もできません。でも、助けていただけば、不可能なことはありません」(105)と述べている。そして、もしわたしたちの過ちがわたしたちを失望に導くものであるならば、「わたし以上にこの失望にふさわしい人は他にいないでしょう。わたしはこんなに沢山の恩寵をいただきながら、この慈悲深いみ主に、いまだに背いています。わたしの高慢さで、私の軽率さで、私の悪い猜疑心で・・・」。

このころのアデルは、しばしばこの点に立ち返り、自分の弱点と自己愛、そして、軽率さについて語っている。聖体を拝領した直後においてさえも、アデルはすぐにもとの習慣におちいってしまう。だから、落胆しようと思えば、容易に落胆できたはずである。しかし、かの女は落胆しなかった。悔い改めと赦しの恵みをあたえて下さる神の慈悲に依り頼んだ(106)。「一日に百回過ちを犯すならば、百回こころを新たにして立ち上がろうではありませんか」(107)と述べている。

アガタの落胆は、一つには、かの女の聴罪司祭が頻繁に留守をしたことに起因している。時には、かなり長いあいだ留守をすることがあった。そのため、例えば、11月1日、諸聖人の祝日に聖体拝領をすることができなかった(108)。

しかし、アデルにしてもこの点にかんしては同じであった。ドゥッセ神父はよく病気にかかり、そのために一ヶ月、あるいはそれ以上、聖体拝領ができないことがあった(109)。アデルは、時には、朝5時に起きてフガロールまで歩いて行きながら、師に会うことができず、秘跡を受けないまま帰らねばならないこともあった(110)。

アデルは、また、十分に心を集中することができず、自分のためにならないと判断して、ときどき自分の方から聖体拝領を遠慮したこともあった(111)。

セレン・ド・サンタマン(SERENE DE SAINT-AMANS)が病気であることを知ったのは12月に入ってからのことである。アデルはアガタにもっと詳しい情報を知らせるように依頼している。それと同時に、セレンを訪ねるように勧め、病める会員を訪問することはアソシエイツの義務の一つである、と述べている(112)。しかし、それから数日して、かの女が死んだことを知った。目的地に到達した会員は、かの女で二人目となった(113)。

かの女の死が頭にあったアデルは、一年の終わりに当たって、思いをアガタと分かち合っている。年末は神のみ前で自己を反省し、過ちを悔い、頂いた数々の恩寵を考え、より大きな忠誠と、堅い決意を持たなければならない。

「新しい年とともに、新しい生活を始めようではありませんか」(114)と述べている。

新しい年が新しい生活をもたらすと云う言葉は、また、別の意味でも当たっていた。それは、1月26日にディシェレットが第4子アメデ(AMEDEE)を産んだからである(115)。

1811年1月29日の会計帳簿をみると、アデルがもう一つの活動を開始したことが分かる。これにかんしては、アデルのいとこの方が詳しい情報を残している。貧しい人のためにもう少しお金を手に入れようとして、アデルは豚を育てて売ることにしたのである。かの女は自分の金で豚を一匹買い求め、餌を与え、召使に世話をさせ、それを売って利益を上げた(117)。

このプロジェクトは、トランケレオンと永遠の別れを告げる1816年5月まで続けられた。もちろん、このもくろみはいつも成功したわけではない。ある時アデルが市場で買った豚を、召使の女の子が、鼠とりを仕掛けてあった小屋に閉じ込めた。豚はこの毒を飲み、すぐに死んでしまった。この災難を耳にした男爵は、死んだ豚の代金をアデルに返してやった(118)。

もちろん、この冬、この他にもアデルの心を悩ませる出来事がなかったわけではない。かねてからアデルはコンドムのアソシエイツ、フェレトン(FERETONE)の健康を気にかけていたが(119)、そのフェレトンの身の上に、いま一つの心配事がくわわった。それは、かの女がアソシエイツと過ごす時間が長すぎる、と非難されるようになったからだ。フェレトンの保護者は、かの女が集会に出席することを禁じた。フェレトンはこの命令を「賞賛すべき従順と謙遜をもって」受け入れた、とアデルは述べ、この従順の行為により、かの女は神の偉大な計画のなかに包まれていることを確信する(120N62)とも述べている。

アデルは、ラリボー神父が再びトランケレオンを訪問してくれるだろうとの期待に胸を膨らませていた(121)。しかし残念なことに、2月になると、また、ガロンヌ川が氾濫し、旅行も文通も途絶えてしまった(122)。陰気な季節で、なんとなく死を思い起こさせる気配があった。

2月5日、アガタの祝日に当たって、アデルは、ほんのちょっとした誘惑にも負けてしもう自分たちであるが、アガタの保護の聖人である聖女アガタのように、独裁者の前で命を賭して信仰を告白しなければならないとしたら、果して聖女のような勇気をもってこれに立ち向かうことができるであろうか、と問いかけている。そして、ひょっとすれば自分たちも、現実にこのような状況に立たされるかも知れない!と付け加えている(123)。自分たちは神に信頼をおかなければならない。そして、小さなことに打ち勝つことによって、神の望みにかなったより大きなことに打ち勝つことができるように心の準備をしておかなければならいと述べている。そして、聖体拝領をするときは、いつもそれが最後であるかのような気持ちで受けるようにしよう、と提案している。また、可愛そうなセレンは、11月1日の聖体拝領が、かの女にとって最後の聖体拝領になるとは思ってもいなかったであろう、とも述べている(124)。

3月、アデルは、自分が出した手紙の一つにたいするシャミナード神父からの返信を受け取った。師は、司牧にたいするアデルの心使いを誉め、アソシアシオンの人びととつき合うに際しては賢明な熱意をもっておこなうようにと勧めている。しかしながら師は、アデルの手紙に書かれている内容から見て、果して、その中のある人たちは本当に友人と呼ぶに値する人たちだろうか、との疑問を投げかけている。それは、全く異なる価値観を持った人がいるように見受けられたからである。しかし、そのような人たちと関係を断ち切る前に、先ずその人たちの過ちを正し、その服装の不謹慎さと虚栄心をたしなめる必要がある、そうすれば、ひょっとして心を改めるかも知れない、とも述べている(125)。

アデルは、また、結婚したアソシアシオンのメンバーにたいしてどのような態度をとるべきか、このような人たちとお付き合いを深めていくべきか、について師のアドバイスを求めた。

この質問にたいしてシャミナード神父は次のように答えている。まず、一般的に云うならば、友好関係を深めて行くべき相手は未婚の人たちである。それは、既婚の婦人というものは、取り立てて独身の婦人に興味を示すものではないからだ。しかし、今まで仲良くしていた人が結婚したからといって、その人との関係を断ち切る必要はない(126)と述べている。アデルとディシェレットの関係は、正にその好例と云うべきであろう。この他にもアソシエイツのあいだで、結婚した人がいた(127)。おそらくアデルがこのような質問をしたのは、アソシエイツの間で結婚する人がいたからであろうと思われる。

結婚したのはギャブリエル・ド・フォルティソン(GABRIELLE DE FORTISSON)で、マダム・オクシオン(MADAME OCCION)と呼ばれることになった。ポルテの5人姉妹の母親マダム・ド・ポルテは(MADAMEDE PORTETS)、その娘たちとおなじようにアソシアシオンのメンバーであったが、アデルはこの母親にマダム・オクシオンを紹介し、近々かの女が新婚生活に入るので特別な配慮を示してくれるようにと依頼している(128)

春になってアデルは例年の通りコンドムの伯母を訪問した。このとき、アデルは、コンドムのアソシエイツの熱心さに心を打たれた(129)。

さて、このコンドムへの旅行を終えたアデルは、母に連れ添って、フィジャックの祖母を訪問することになった。そして、その途中、アジャンに立ち寄り、ディシェ家を訪問することになた。もう2年以上もアガタと会っていなかったアデルの喜びは大きかった(130)。この旅行には、13才になるエリザが同行していた。おそらくエリザにとって、このフィジャックへの旅は、母親と死に別れてから初めての訪問であったろうと思われる。

フィジャックでの滞在中、アデルは前回の失敗とは異なり(132)、今度は新しいアソシエイツを募ることに成功した(131)。この新しい会員は、その翌年、更に新しい会員を募ったとアデルは報告している(133)。

しかしこのころ、祖母伯爵夫人には、なにか暗い陰が近寄っていた。アデルは、弱い自分の姿に当惑し、簡単にこの世のものごとに愛着する自分の姿を反省している。そして、アガタと他のアソシエイツに祈りを依頼し、自分が一生の宝として選んだイエスに自分のこころを全面的に捧げ続けることができるように、と望んでいる。

アデルは、また、自分の聴罪司祭が重い病気に罹っており、会うことも難しいと述べ、「あまり面白いことではありません」と記している(134)。

今年の誕生日は、フィジャックで祝った。6月の手紙で次のように述べている。

「月曜日でわたしは22才になります。今年こそは立派に過ごし、少しでも天国に近づきたいと、どれほど強く望んでいることでしょう。これほどまでに恩寵を受けていながら、いまだにほとんど進歩することができない自分を恥ずかしく思っております」(135)。

また、かの女はつづけて、「わたしたちに怒っておられる最高の裁判官の怒りを和らげるために、今こそ真にこころを改めるべき時が来ていると思います」とも述べている。この言葉は、フランスに降りかかった流行病について言及した際に述べたものである(136N59)。

ヨーロッパでは、あいかわらずナポレオンの侵略と遠征が続いていた。フランス軍がスペインへ侵略すると、イギリス軍はポルトガルに上陸し、一路イベリア半島を横断した。5月になって、イギリス軍は初めてフランス軍に敗北をもたらした(137) 。戦いによる災いの波は再び南フランスに接近し、市民は危険なしに旅行をすることができなくなってしまった。

7月。2カ月以上の留守をしたのち、男爵夫人はアデルとエリザをともなって帰途についた。帰り道、一行はふたたびアジャンに立ち寄った。そのときアデルは、アガタに自分たちといっしょにトランケレオンへ来るように誘ったが失敗に終わった。そしてその代わり、マダム・ベロックが一行に加わり、トランケレオンへ向かった(138)。

数週間の長い留守をしてトランケレオンに帰ったアデルは、自分の部屋に入って驚いた。アデルがいちばんほしがっていた書籍をいれた本棚と、新しい机、それに文通に必要な品々が取り揃えてあったのだ。そして、小さなカードに、「大切に育てられるにふさわしい大切な娘へ 愛する父親から」と記されていたのである(139)。

一行が帰省して間もなく、ラリボー神父がトランケレオンにやって来た。師は、7月16日火曜日の午前中に到着し、水曜日の夕刻まで滞在した。火曜日の夜はアソシエイツたちのために「信仰」についての黙想をしてくれた。次の日、アデルは師にアソシエイツの義務について講話をするように依頼した。アデルはその話の内容を要約してアガタに送り、他のアソシエイツにも回覧するように依頼している。

ラリボー神父はマリアについて語り、良く生きることによって良き死を迎える準備をすることについて語り、会則の忠実な実行について語り、人の面前でも怖気ず祈りをすることについて語った。また、とりわけお告げの祈りを忠実に唱え、食事の祈りを注意深くとなえ、十字の印を尊敬の念をもっておこなうように、と教えた。

これと同じ日、ラリボー神父はその後の会話の中で、友人同士でたがいに熱誠をかきたて、引続きこの世的な物事への執着心や世俗的な集会にたいする用心を怠らないように、との話しをした(140)。

さて、これに続く15カ月のあいだアデルが書いたであろうと思われるアガタへの手紙は存在しない。しかし、この間の情報は、トナンの新会員スレット・ポアトバンに宛てた手紙や、シャミナード神父への手紙で知ることができる。

10月の初頭、スレットとその他のトナンのアソシエイツは、ボルドーを訪問した。そこでかの女たちはシャミナード神父に会い、マダム・ラコンブとも会った。アデルもいっしょに行きたかった。しかし、「わたしはそれに値しません」と述べている(141)。

このときシャミナード神父はアソシエイツからよそよそしく扱われたので、少々残念に思った。師がいつもかの女たちのことを気遣っているのをまるで理解してくれていないようだ、と師は述べている。そして、もしこれが、最近、あまり手紙を出していないことに起因するのなら、自分はまだ警察の監視のもとにおかれていて、ほとんど手紙を出せない(142)状態にあること、そして、書いたとしても非常に用心して書かなければならないことをアソシエイツに伝えて欲しい、とアデルに述べている。

事実、アデルが会員の一人にことづけたシャミナード神父宛の手紙が紛失してしまったことがる。このような時にそなえて、手紙を書くときは非常に用心して書くように、とシャミナード神父はアデルに伝えている。シャミナード神父は、それ以降、この手紙をなくした会員に連絡をとろうとしたが、まだかの女に会うことができない。それは、おそらく、この会員の母親が反対しているからであろう、と述べている。

10月6日、アデルは例年通りロンピアンへの巡礼に出かけた。おそらくディシェレットとアガタも同行したのではないかと思われる(143)。アデルは、ボルドーを訪れていたトナンのアソシエイツがこの巡礼に参加できないことを残念がっている。しかし、プーシュのマドモアゼル・アンヌ・モミュスをふくめて(144)、トナンの「ご訪問の分会」に属する他の会員たちはこれに参加した。

スレットに宛てた手紙の中で、アデルは、結婚を考えている会員のために祈るように、そして、特別なノベナに参加するように、とも薦めている(145)。このノベナは、自信を喪失しそうになった会員が強固な決意をもってこの世を放棄することができるように祈るものであった。

ロンピアンでの滞在中、アソシエイツは特定の徳目を実践すべく、くじを引いた。アデルは「生きた信仰」を引き当てた。かの女はこの徳目が非常に適切なものであることを知るのだが、それは、シャルルに会うためにパリへ行った男爵が、パリに着いて熱を出したというニュースを、ロンピアンの帰りみちに入手したからであった。800キロも離れた土地でこのようなニュースを受け取るとは、なんと心騒がせなことでしょう、とアデルは述べている(146)。

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