◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第8章 1807年−1809年 

ラフォンとボルドーのソダリティ
シャミナード神父との出会い / ソダリティとの連携
アデルの結婚問題 / アデルの病気



つづく18カ月の間、アデルがライフ・スタイルの確立に努力したであろうことは疑いのない事実である。しかし、この間の情報を詳細に伝える資料は存在しない。

1807年も秋になると、例年の通りコンドムの伯母が9才になるエリザと8才になるデジレを連れてトランケレオンに帰省したと思われる。そして、ディシェレットもトランケレオンを訪問したであろうし、アガタもトランケレオンを訪問したにちがいない。
また、アデルはひきつづきアソシアシオンの会員と文通を続け、母親といっしょに種々の慈善事業を行ったと思われる。
アソシアシオンは成長しつづけた。

1808年2月には、フランス軍によるローマの占拠が報道された。ナポレオンと教皇ピオ7世との間のぎくしゃくした関係は、やがて両者の敵対関係にまで発展した(1)。これらのことは遠方で起きていたとは云え、やがてトランケレオンにも影響をおよぼさぬわけにはいかなかった。

春になると、また、ディシェレットが訪ねて来たであろうし、おそらく、アデルもアジャンを訪れたにちがいない。アデルは毎年5月ごろには、コンドムを訪問することになっていたからである。
 
おそらく6月か7月のことであったと思われる。この夏、一つの事件が起こった。それはアデルの手紙に記録されていないが、よく知られた事実であり、アデル個人の、そして、アソシアシオンのリーダーとしてのアデルの生涯を左右する分岐点となった。しかも、このできごとは、きわめて偶発的に起こったのである。

例年のように、母方の祖母ペイロンネンク伯爵夫人を訪問するため、母親につれそってフィジャックへ旅だった(2)。フィジャックでの滞在中、アデルはアソシアシオンの新しいメンバーを募るべく努力したが、結果はあまり芳しくなかった。アデルは落胆しながら帰省の準備を始めていた(3)。しかし、町を離れるまえに、男爵夫人は家族の友人でフィジャックの病院の院長を勤めていた一人の修道女を訪問することになった(4)。

この修道女、シスター・ジェルトルード・デュ・トレジェ(SISTER GERTRUDE DU TREJET)は、今年、84才になる。かの女は貧しい人びとを大いに愛した。1816年、かの女が死んだときには、「76年間、貧しい人たちに仕えた人」として、その業績をたたえられている(5)。男爵夫人はこの友人に、アデルのアソシアシオンについて説明した。この会がどのようにして出来上がったか、なんのために出来たのか、どのように成長してきたか、これを広めるためにアデルはどのような仕事をしているか、などである。
 
この話をしているときに、同じ応接間に、ジャン・バプティスト・ヒヤシンタ・ラフォン(MONSIEUR JEAN-BAPTISTE-HYACINTHE LAFON)という人物が居合わせた(6)。この人は42才で、この地方の学校(COLLEGE)の先生をしていた。フランス大革命が勃発した当時、かれは助祭であったが、その後、何回か家庭教師をつとめ、ナポレオンが台頭した当時はボルドーにいた。1807年、フィジャックへ来ていたが、その年の学年が終り次第、ボルドーへ帰るつもりでいた。従って、ラフォンが男爵夫人に会い、アデルとアデルのアソシアシオンについて聞いたとき、かれはちょうどボルドーへ旅たとうとしているときだった。

ラフォン自身、1801年、ボルドーの汚れなきおん孕りのソダリティに入会し(7)、青年部の総監(PREFECT)を三回つとめたことがある(8)活発な会員であった。フィジャックでの滞在は短期間であったが、そのあいだも、かれはコレージュ(COLLEGE)を舞台にソダリティの仲間を集めていた(9)。

二つのグループの類似性に心うたれたラフォンは、男爵夫人にボルドーのソダリティについて説明をした(10)。しかもこのソダリティは、革命以前、イエズス会の支援するソダリティに付与されていた霊的特典を継承するものである、とも付け加えた。

1762年、フランスにおいてイエズス会が弾圧されたとき、ボルドーではカプチン会がこれを受け継ぎ、その霊的特典を継承した(11)。そして、この同じ特典は、革命ののち、1801年にウイリアム・ジョセフ・シャミナード神父によって編成された新しいソダリティによって受け継がれたのである(12)。

1761年に生まれたシャミナードは、アジャンの北方約80マイルにあるペリゴール(PERIGORD)地方のムシダン(MUSSIDAN)で教鞭を執り、事務長を勤めた。1790年、宣誓を拒否したが、それにつづく数年間、ボルドーで聖職活動をつづけ、恐怖時代には地下に潜伏して活動をおこなった。1795から97年、一時的に弾圧が緩和された際、おっぴらに司牧活動を行ったことが災いして、1797年9月4日の革命で男爵夫人と同じ罠に落とされてしまった。あやまって亡命者のリストに載せられた(14)シャミナード神父は、男爵夫人と同じようにスペインへ亡命せざるを得なかったのである。二人がたどった道はベイヨンヌ(BAYONNE)で交わっているが、そこで二人が出会った証拠は残されていない(15)。

3年間サラゴサ(ZARAGOZA)で亡命生活を送ったシャミナード神父は、ボルドーへ帰ると、ただちに祖国フランスのキリスト教復興に着手し、おもに汚れなきおん孕りのソダリティを中心に活動を展開した。

男爵夫人とラフォン氏は、お互いに意見を交わした。明らかに、アデルのアソシアシオンはアジャンの司教の許可を得ていたとは云え、教会における「おおやけ」の地位を持っていたわけではなかった。それに反して、ボルドーのソダリティは教皇庁からの認可を得ており、それゆえに、メンバーにたいしてある種の霊的特典を付与することができた。

ボルドーのソダリティには婦人部もあった(16)。それでアデルのアソシアシオンも、このソダリティとなんらかの関係を結び、同じ霊的特典を得るようにしてはどうか、と云うのがラフォン氏の考えであった。そこでかれは、男爵夫人にその可能性を説明し、自分がボルドーに帰り次第、この話をシャミナード神父に持ちかけようと提案した(17)。

アデルは男爵夫人とともに帰省すると、早速、ラリボー神父に手紙を送り、この新しい局面への展開を報告した。ひょっとして、アデルは手紙を書く代わりに、毎年おこなっているロンピアンへの訪問の際に、師と会って、直接話したのかも知れない。
すでにボルドーのソダリティのメンバーであったラリボー神父は、このラフォン氏とシャミナード神父への摂理的な出会いを十分に活用するように、とアデルを励ました(18)。

アデルがボルドーに手紙を書いたのは、おそらく9月のことであったと思われる(19)。ちょうどその頃、ラフォン氏はシャミナード神父に会って直接に話をしていた(20)。アデルは書簡の中でボルドーのグループへの合流を希望するアソシアシオンのメンバーズリストを同封していた(21)。55名の若い婦人に加えて(22)、アソシアシオンの指導者であるラリボー神父の名前が付け加えられていた。また、その他にも、デュクルノ氏と、他の5名の神父の名前が記されていた。この5名の神父は、ミクエル神父(MIQUEL)、グルニエ神父(GRENIER)、デステラック神父(DESTERAC)、フィジャックのニール神父(NEIL)ならびにアジャンの助任司祭マルル神父(MALROU)であった。この他に、ビルヌーブ・ド・マルサンの二人の修道女と、男爵夫人をふくめる3名の信徒婦人の名前も揚げられていた。

一方、ラフォン氏は、男爵夫人の説明だけではこの若い女性たちで構成するアデルのグループを的確に把握することはできなかった。しかし、このラフォン氏の提供する不明瞭な情報をもとにして、シャミナード神父は、アデルあてにソダリティの「黙想の婦人部」にかんする纏め書きを記し、これをラフォン氏に託したのであった。ソダリティの「黙想の婦人部」は、既婚の女性または30才以上の独身女性のグループであった。

まちがって理解していたことに気づいたシャミナード神父は、さっそくアデルに、アソシアシオンの会則を送るように依頼した(23)。アデルのアソシアシオンは、ボルドーの女子青年部と提携すべきものである。シャミナード神父は手紙の中で、ソダリティの女子青年部の総会の席上で提携にかんするアデルの希望を発表し、アソシアシオンのメンバーズリストを読み上げたところ、女子青年部は喜んでこの提携案を受け入れ、直ちに実行に移すことを決定した、とアデルに書き伝えている。この提携によってアソシアシオンのメンバーはソダリティのメンバーになり、片や、ソダリティのメンバーたちは、毎日の祈りの中で、アソシエイツのためにも祈りを捧げることになったのである。

しかも、ボルドーの習慣にならって、アソシアシオンのメンバーズリストは、毎日曜日ソダリティのミサのあいだ祭壇の上に置かれる特別な台帳に記入されることになった(24)。こうして、かの女たちの名前は女子青年部の部門長(メールMERE)をつとめるマドモアゼル・ド・ラムルース(MADEMOISELLE DE LAMOUROUS)の手で台帳に記入されたのであった(25)。
 また、シャミナード神父はアデルにボルドーのソダリティの組織について説明した(26)。それによれば、ソダリティは五つの部門(SECTIONS)に分かれており、男子青年の部門、父親の部門、女子青年の部門、母親の部門、そして、司祭の部門になっていた。

父親の部門は既婚者と35才以上の未婚者で構成されており、母親の部門には既婚婦人と30才以上の婦人がふくまれていた。そして、この母親の部門は「黙想の婦人部」(LADIES OF THE RETREAT)とも呼ばれていた。それは、シャミナード神父の説明によると「毎月第一水曜日を黙想にささげることを主な習慣としていた」からである。そして、この五つの部門は、それぞれ、さらに小さなグループに分割されていた。

女子青年の部門には、会員台帳(REGISTER)に登録されている者だけで250名を数えた。これには、まだ登録されていない志願者(POSTULANTS)や会友(AFFILIATES)の数はふくまれていなかった。この250名の会員は、二つの「部会」(DIVISIONS)に分かれていた。これら二つの部会は、単に、「第一部会」、「第二部会」と呼ばれていた。

この「部会」は、さらに分化して四つの「分会」(FRACTIONS)に分けられ、「その四つの分会には、聖母マリアの秘義にあやかる名前がつけられていた」。そして、各部会(DIVISION)と分会(FRACTION)には、それぞれ一名の職員(オフィサーOFFICER)が配属され、各部門には部門長がいた。女子青年の部門長は「メール」(MERE)と呼ばれ、当時この職をつとめていたのはマドモアゼル・ド・ラムルースであった。
 
さて、アデルのアソシアシオンは、その主たる目的を良き死の準備においていたため、そのかぎりでは「黙想の婦人部」と類似していたが、アデルの年齢を考えたならば、むしろ女子青年部の行動に合わせるべきである。シャミナード神父はそのように手紙のなかで述べている(27)。

かくして、アソシアシオンは「第三の部会(THIRD DIVISION)」を形成することになり、その部会は独自の部会長をもち、その下の各分会にはオフィサー(OFFICER)を置くことになった。しかし、「メール」という呼称は、いましばらくのあいだ、マドモアゼル・ド・ラムルースにかぎられていた。
 
マドモアゼル・ド・ラムルースは病気がちで、このときも病気であったが、アデルと文通することを望み、シャミナード神父を通じて、かの女に挨拶文を送った(29)。

数多くの仕事を抱えていたボルドーのシャミナード神父は、ボルドーとトランケレオンを結ぶ「公式の通信係」を任命した。マドモアゼル・マリテレーズ・ラコンブ・ド・ピゲロ(MADEMOISELLE MARIE-THERESE LACOMBE DE PUIGUERAUD)である(30N51)。アソシアシオンのメンバーにとって、このマドモアゼル・ラコンブはすでに知己のあいだがらであり、アデルから来るソダリティについての質問は、どんなものでも的確に回答することができた。

ラコンブは、今年27才になる女性で、ソダリティに加盟してからわずか一年たらずであった(31)。聖母マリアの栄光に大いなる熱意をもっていたかの女は、この新しい任務を喜んで受けいれた、とシャミナード神父は記している。そして、ラコンブの連絡先をアデルに知らせているが、その住所は、実は、シャミナード神父の連絡先と、まったく同じであった(32)。

1804年、シャミナード神父はボルドーで「イエスの母にして最も純潔なる乙女マリアの召使の手引」(MANUAL OF THE SERVANT OF THE MOST PURE VIRGIN MARY,MOTHER OF JESUS)を出版した(33)。この手引には、ソダリティの儀式、祈祷、信心業が記されており、そのほかに、主だった教会の典礼の祈りなども記されていた。シャミナード神父は、望むなら、一冊3フランで、50冊から60冊を送ることができる、と知らせている(34)。この本は、実際に送られ、最初の荷物は船便でアジャンのベロック夫人宛に送られている(35)。

女子青年の部門が実践していたことがらの中には、マリアの聖心の聖務日祷を毎日となえることと、死んだメンバーのために詩編130「深き淵より」(DE PROFUNDIS)をとなえることがあった。この聖務日祷は短いが美しく印象的なものである、とシャミナード神父は書き送っている(36)。

これらの推賞された祈りを毎日となえることが重荷になるメンバーは、ただ「元后あわれみ深きおん母」(MEMORARE)の祈りをとなえることでこれに置き換えることができた。また、すべてのメンバーは、ソダリティに入会したとき皆の前でとなえた「マリアへの奉献文」を、私的にも公的にも、できるだけ頻繁にとなえるようにすすめられていた(37)。

ボルドーのソダリティのメンバーは、全員、年に二回、会衆の前で奉献を更新することになっており、女子青年部門のメンバーは、マリアのおん孕りの祝日とお告げの祝日に、これを行った(38)。

このようなわけで、地理的には約100キロ離れ、都会と田舎の違いはあったが、この二つのグループは、短期間のうちに緊密な関係を育て上げていった。シャミナード神父、ド・ラムルース、ベロック夫人、アデル、そして、ラコンブは、おたがいに連絡をとりあい、そこで取り交わされる書簡は二つのグループのメンバーに回覧された(39)。アデルに宛てた手紙は、しばしば、ベロック夫人を通じて配達された。それは、その方が便利であったからである(40)。

このような活動が行われ、文通が交わされていたとき、アデルは非常に厳しい内的葛藤の時代を過ごさねばならなかった。6月で19才になったアデルは、貴族の娘として、結婚の適齢期にあった。母親とともにフィジャックを訪問した際、友人や親戚関係のあいだでアデルに心を引かれた家族が少なからずあったであろうことは疑う余地もない(41)。アジャンでもコンドムでも同じであった。おそらくアデルがしばしば訪問していた伯父フランソワが住んでいるガジャン(GAJEAN)でもそうであっただろう(42)。チャーミングな容貌、しとやかな振舞い(43N52)、生き生きとした性格、これらに加えて高貴な生まれと裕福な家柄をかねそなえていたアデルは、それ以上に素晴らしい心と精神をもっていた。だから、かの女に結婚の話が持ち込まれても、きわめて当然のことと云わざるをえない(44)。

そのようなわけで、ちょうどアデルがシャミナード神父とコミュニケーションをもち、ボルドーのソダリティと連絡をとり始めたころ、両親の口から、かの女に縁談のあることが知らされた(45)。その相手がだれであり、どのような家柄の人物であったかは不明である。わかっていることは、その人がアデルの知人であったこと、そして、その人柄からみても、家庭の背景をみても、申し分のない相手であったことである(46)。

両親はアデルにこのことを伝え、決定はアデルに任せられた。アデルのこころは乱れた。これはすばらしい縁談であり、アデルにとっても、相手にとっても、また、両家族にとっても、まったく遜色の無いものであった。

明らかに父親男爵はこの縁談に賛成していた。3年前ジャンヌが両親の考えを神の意向と考えてこれに従ったように、アデルも父親の考えを神の聖旨とみなすべきではないのだろうか。ジャンヌの話を聞いていただけに、アデルもこれに承諾せねばならないのではないかと心が動いた(47)。しかし、もしそうすれば、カルメル会への召命はどうなるのか。そして、もっと具体的に云って、いままでの慈善事業、地域の貧しい人や子どもたちの世話はどうなるのであろうか。また、自分のこころに一番密接に感じているアソシアシオンの仕事はどうなるのだろうか。

アデルは悩んだ。しかし、母親の手本が目のまえにある。母親は結婚して子どもを育てながらも、多くの慈善事業をおこなっている。しかも、かの女は、祈りや、深い霊的生活が、いささかも自分の身分と矛盾するものでないと考えている。親友であるディシェレット、ベロック夫人もそうである。かの女も、つい最近、三人目の子どもを出産した。それは、10月4日のことであった(48)。かの女は結婚し、しかも、幸せな結婚生活を送っている。その上、かの女はアソシアシオンの仕事を活発におこなっている。アデルにも、それができないことはない。母親男爵夫人も、親友のディシェレットも、立派に結婚生活を送っているだけではなく、母親としての生活をもこなしている。しかも、深く神を愛し、子どもたちを愛している。アデルにもそれができないはずはない。

にもかかわらず、アデルはこの考えに心安らかではいられなかった。心のもっと奥深いところに、何かがうごめいているようであった(49)。祈り、黙想していると、そこから光がみえてくる(50)。ひょっとして神がなにか他のことをアデルにお望みになっているのではないだろうか。まだ、カルメル会への召命があるのかも知れない。あるいは、全身全霊をアソシアシオンに捧げ尽くすように召されているのかも知れない。

1807年6月、アデルは次のように書き記している。
「わたしたちのアソシアシオンが、自然に生まれ出たものでないことは、確かです。。。。。。見えない手が、わたしたちにはまだ見えていない目的のために、わたしたちを一つにまとめ上げたのです」。

アデルのこころの葛藤はつづいた。しかし、生活を停止させることはできない。数週間のあいだ問題は未解決のまま過ぎて行った。こころはちぢに乱れ、休むことを知らなかった。

アデルは、この内心の葛藤をアガタに打ち明けたのだろうか。二人の友情が結ばれたその初めから、おたがいにまったくオープンであった。打ち明けないことこそ、不自然である。しかしその反面、容易に気を落し、落胆する傾向のあるアガタに、あえてこのようなことを打ち明けて苦しめたくないと考えたかもしれない。ディシェレットと意見を交わし、かの女の意見を求めたであろうことは疑いない。しかし、それを裏付ける文書は存在しない。

アデルがアドバイスを求めたことは間違いがない。母親はアデルが状況を読みちがえないように(52)、決定は自分自身で下すように主張した。娘の将来を有利な方向にすすめようと望んでいた父親の立場は明白であった。しかし、父親も、自分の考えを押し付けることはしなかった。
 
アデルは、霊的指導者ラリボー神父の意見を求めた。神父は、はっきりした返事をあたえなかった。「神はあなたに、異なる道を歩むように望んでおられると、わたしは思っていました」(53)と、自信なさげに述べているに過ぎない。そこでアデルは、他の神父の意見を聞いた。その司祭がだれであったか分からない。この司祭は、次のように書き送っている。

「結婚の提案を断りなさい。いまのあなたの混乱したこころの状態でお受けすることは賢明ではありません。もし、後日、あなたが神から結婚生活に招かれているとの確信を得たならば、そのときは、かならず自分に合った相手がみつかるでしょう」(54)。

明らかに、アデルはこの言葉でこころの平安をとりもどしたようである(55)。父親に、この話を断わってくれるようにと依頼した。それは、1808年11月20日、マリアの奉献の祝日の前夜のことであった(56N53)。

アデルのこころに平安をもたらすほどに効果的なアドバイスをあたえたこの神父は、いったいだれであったのか。これにかんしては、いくつかの可能性がある。まず、ラリボー神父でないことだけは明白である。主任司祭であり聴罪司祭であったドゥッセ神父の可能性がある。しかし、答えが文書であたえられていることから考えれば、その可能性は低い。確証こそ存在しないが、主任司祭ならば、口頭で答えをあたえたであろうと考えられるからである。

デュクルノ氏であろうか。氏はパリにいた。非常にありそうな話である。年齢からみても経験からみても、デュクルノの可能性が高い。氏はトランケレオンの人びとを熟知していた。とくにアデルのことはよく知っており、このような決定的な意見をアデルにあたえる人物としては、だれよりも、かれをおいては、他にいないと思われる。しかし、当時のデュクルノ氏は、まだ、司祭ではなかった。ただ、アデルのいとこがメモワールにこのできごとを記したときは、氏はすでに司祭に叙されていた(57)。

シャミナード神父であろうか。神父は霊的指導に熟達していた。しかし、シャミナード神父の可能性は薄い。アデルと知り合ってまだ日が浅く、アデル本人や、その家族を、まだそれほどよく熟知していなかったからである。当時記されたシャミナード神父の手紙をみると、神父がアデルの苦悩を知り、アデルのとった最終決定を知っていたらしい形跡は見あたらない(59N54)。

アデルにアドバイスを与えたのが誰であったにせよ、この言葉によってアデルは心の平安をとりもどし、生活の方向付けを新たにした。後日アデルはこの日を思い起こし、それがかの女の生涯を方向付けた決定的な瞬間であったと述べている(60)。

この重大な決定を下してから二ヶ月後、アデルのアガタにたいする手紙は、既にいつもの調子をとりもどしている。1809年1月(61)、ビルジニという女性の生と死についての見解を述べている。明らかにこの若い女性は、自分自身の家族の手で多くの苦しみを受け、誘惑にさらされた。そして、かの女はまだ歳若いにもかかわらず、最終的に、癌におかされたのである。アデルはこの女性を賞賛し、かの女を手本とする。おそらく、かの女のなかに、自分自身の内的葛藤と共鳴するものを見出していたのかもしれない。

アガタは、乱読の習癖をもっていたらしい。この同じ手紙の中でアデルは、ただ読み急ぐのではなく、読書の内容を生活にあてはめるように熟読すべきだと述べている。そして、「マリアの召使の手引」(MANUAL OF THE SERVANT OF MARY)に掲載された書籍と読書の項目を一読するようにすすめている。

当時、アデルは、ディシェレットを通して、この「マリアの召使の手引」を手にいれたばかりのころで、かの女はこれを大切にしていた。なんと美しい祈りと教訓、なんと素晴らしいマリアさまへの賛歌が盛り込まれていることでしょう、と述べている。

アガタは、アデルのすすめに従ってこの手引書を読んだ。だが、かの女はそれほど大きな感銘を受けなかった。アガタには消極的で拘束的なものとしか受け取れなかったようである(62)。アデルはアガタの意見に賛同していない。「小説」というものは、たとえどれほど素晴らしいものであったとしても、いと清き乙女の子どもであるわたしたちにとっては危険性をはらんでいる。むつかしいこととは云え、小説から遠ざかるべきだと指摘している。もちろん、そうだからと言って、アデルは自分の判断を押し付けることはなく、賢明で啓発的な霊的指導者に相談すべきだと説いている。しかしアデルは、気晴らしのために読む気軽な読書を否定していたわけではなかった。それは有益なことである、とも指摘している。

シャミナード神父(63)とボルドーのソダリティに深い感銘を受け、ソダリティの熱烈な歓迎に印象づけられたアデルは、同時にまた、マドモアゼル・ド・ラムルースやマドモアゼル・ラコンブが(64)アデルやジャンヌやロロットに送って来る(65)文通にも感銘を受けて、この二つのグループの関係をより緊密なものにしようと考えた。

アデルはシャミナード神父に、ボルドーのメンバーズリストを送ってくれるように依頼した(66)。そして、アソシアシオンのメンバーにたいしては、日曜日と祝祭日にボルドーのソダリティのセンターであるマドレーヌ聖堂で行われるミサに精神的に参加するように呼びかけ、月の第一金曜日には、ラリボー神父によって捧げられるロンピアンでのミサに、精神的に参加するように呼びかけた。
 
アデルはまた、この頃から、マリアへの献身とマリアの保護について頻繁に語るようになった(67)。自分たちがマリアの子であること、そして、マリアの家族であることを口にするようになった(68)。アガタがなにかのことで屈辱を受け、打ちひしがれていた時などは、聖母マリアの元に寄りすがって希望をもち、力と慰めをえるように諭している(69)。

一方、シャミナード神父は、当時健康をがいしていたにもかかわらず(70)、アソシアシオンをソダリティの「女子青年の部門」の「第三部会」("THIRD DIVISION" OF THE YOUNG WOMEN'S SODALAITY)として統合するための行動を開始した。師はアジャンとボルドーを文通で結び、ベロック夫人に「手引書」(MANUAL)のコピーを送ってアソシエイツに配分するように依頼した(71N55)。またアデルには、アソシアシオンのメンバーを分会(FRACTION)に分けて組織し、各分会にはオフィサーをおき、そのオフィサーの名前を提出するように依頼した。また、各々のグループが歌う賛美歌のメロディーについての情報も交換した(73)。
 
シャミナード神父はアソシアシオンのメンバーを一人づつ個人的に受け入れることができるように、敏速にことを運んだ。公式に、かつ、実効的にソダリティのメンバーになるためには、一人ひとりが、個人として、受け入れられる必要があったのである。そして、そのために、シャミナード神父はアジャンへ出かける計画をしていた(74)。旅行に先だって、シャミナード神父はアデルにたいして、この旅行に必要な事項を取り揃え、障害がれば、それを取り除いておくように依頼した。また、アソシアシオンの人びとが集まりやすい場所で集会が開けるように手配するように、とも依頼した。師は、また、三カ所か四カ所に足をのばすことはできるが、時間的に余裕がないので、旅行全体はかなり短いものになるだろう、とも連絡してきた(75)。

一方、アソシアシオンでは組織の再編成にとりかかった。アデルが属していたアジャンの分会(FRACTION)は「マリアのおん孕り」と命名され、コンドムのグループは「ご託身の分会」(FRACTION OF THE INCARNATION)と命名された。そして、ロロット(LOLOTTE)が「ご託身の分会」のオフィサーになった。ロンピアン(LOMPIAN)、プーシュ(PUCH)、トナン(TONNEINS)でのグループは「ご訪問の分会」(FRACTION OFTHE VISITATION)と命名され、ビルヌーブ・シュール・ロットのグループは「ご聖誕の分会」(FRACTION OF THE NATIVITY)と命名された。ビルヌーブ・ド・マルサン並びにサン・セベール(SAINT-SEVER)を含む(ボルドーの南岸)ランド(LANDES)のグループは「被昇天の分会」(FRACTION OF THE ASSUMPTION)、ポール・セント・マリから約10キロ川下に下ったロット川とガロンヌ川の合流地点にあるエグイヨン(AIGUILLON)のグループは「マリアのみ名の分会」(FRACTIONOF THE HOLY  NAME OF MARY)と命名された。

これらの分会(FRACTION)には、それぞれ独自のオフィサーが任命された(76)。シャミナード神父はこのオフィサーたちに、手紙で相互の連絡を保つように提案し、この提案は受け入れられた(77)。アデルは満場一致で「第三部会」(THIRD DIVISION)のセントラル・オフィサー(CENTRAL OFFICER)として選ばれた。 ラリボー神父はこの部会の副部会長(SUBDIRECTOR)になり、全権が委譲されるまでは、シャミナード神父の直接の指導のもとにおかれることになった(78N56)。

シャミナード神父は、各オフィサーの義務についての説明書を郵送するか、または、もし旅程が早まれば、自分の手で持って行く、と約束した(79)。

既婚婦人や年輩の女性は「第三部会」(THIRD DIVISION)から切り離され、ボルドーの「黙想の婦人部」(LADIES OF THE RETREAT IN BORDEAUX)に直結されることになった。最初に受け入れられたのは男爵夫人であった(80)。シャミナード神父の話によると、ボルドーの黙想の婦人はかの女を大きな喜びの内に迎え入れたそうである。それは、一つには男爵夫人の人柄によるものであり、また、もう一つには、アデルの母親であったからでもある。ボルドーの婦人部のメンバーたちは、アデルがシャミナード神父と文通していることを知っていた(81)。

シャミナード神父は、ボルドーの婦人部のメンバーの意向に従って男爵夫人に挨拶文を送った(82)。男爵夫人とその善業についてラフォン氏から伝え聞いていたシャミナード神父は、少なからず好感を抱いていたようである。

ボルドーのグループが実行していた事柄の中で、特に「第三部会」に伝達されたものが二つあった。その一つは、「今もいつも変わらぬマリアの愛」の信心である。シャミナード神父はこのことをアデルとそのグループに説明している。そのような事実からも分かるように、アデルはこの時までに、「マリアへの献身の意義」(MOTIFS DE CONFIANCE ENVERS MARIE)の小冊子を読んだことがなかったように見受けられる。この小冊子は、イエズス会司祭ルクレルク(P. LECLERC)によって著されたものであり、1712年にリモージュ(LIMOGES)で初版が発行されたものだった(83)。
アデルへの返信の中で、シャミナード神父はこの信心業を次のように説明している。

この信心業は何人かの人たちが一日の一定の時刻に、特別な思いをこめて自己をマリアに奉献することである。しかし、もしその時刻に、この奉献の行為を忘れたり、実行できなかったとしても、それは心配や不安の種となるべき性質のものではない。他の時間にそれを補えばよいのだ、と述べている(84)。

そして、この信心業に参加する希望者は、名前と選んだ時刻を知らせるように、とアデルに依頼している。そして、アデルからその返事が来るまでは、ソダリティ全体のリストを作らないで待っている、とも述べている(85)。

明らかに、かなりの数のアソシエイツ(アソシアシオンの会員)がこれに参加したようである。アデルもこれに参加したが、自分が決めた時間に、ほかのことに気をとられている場合が多いことを認めている。だが、これは良心上の責任を問うものではないので、こころを乱すことはなく、ただ、日中ときどきマリアに思いを馳せるように努力さえすれば良いのだった。

これに反して、アガタは、かなりの抵抗を感じていたようである。この取り決めを誠実に実行する自信がなかったからである。しかし、アデルはアガタを安心させ、名前を送るように励ました(86)。

もう一つ第三部会に課せられたことは、「会費(DUES)」である。ボルドーのソダリティでは、支払い可能な人は本部会計に「会費」を支払っていた(87)。集められた会費はソダリティとその各部会の全般的な支出にあてられるとともに、マドレーヌ聖堂の維持費、病人と貧者の援助費にあてられた。アソシアシオンがこの会費の支払に参加するかどうかは、アデルの裁決に一任された。

アデルは、アソシアシオンもすでに経済的な負担をかかえていること、また、プロテスタントの母親を喪った貧乏な二人の子女に教育費を援助していることを伝えた。

アデルがこの子どもたちの状況を最初に知ったのは、ビルヌーブ・ダジャン(VILLENEUVE-D'AGEN) のアソシエイツで、27才になるクロチルダ・デルペック (CLOTILDE DELPECH)からの情報だった(88)。この二人の子どもの父親はカトリック信者であったが、母親がプロテスタントであったため、カトリック教育をまったく受けずに育てられていた。
 
母親が死ぬと、子どもたちの伯母に当たる母親の姉妹は、この子どもたちをプロテスタントとして養育することに決定した(当時、この子どもたちは10才と12才であった)。しかし、父親はこれに賛成できなかった。そこで、デルペックは、子どもたちをカトリックの寄宿学校に入れるように提案した。学校を経営する修道女は授業料の値引きを承諾し、残りの費用は父親からの出資と善意の人びとの援助によってまかなわれることになった。しかし、それでもすべての経費をまかなうには十分とは言えなかった。そこでデルペックは、アデルとアソシエイツに援助をもとめ、その献金に頼ったのである。

この慈善事業にこころから賛同したシャミナード神父は、折衷案として、アソシエイツ(アソシアシオンの会員)から寄せられた基金の三分の二をこの慈善事業にあて、残りの三分の一をソダリティの会費として拠出してはどうか、と提案した。アソシアシオンには新しいメンバーが増えていることだし、今までのメンバーの中で、献金をしていなかった人もいるわけだから、このようにすれば、少女の教育費を十分にまかなえるだろうと考えた(89)。しかし、献金を強制することはなかった。み主に励まされて節約をし、お金を貯めることができた人だけが献金をすればよい、と神父は云った(90)。
 
ところでその頃、アソシエイツはソダリティのメンバーとともに、短い人生を終えてこの世を去った5人の死者を悼んでいた。その中の2人は高徳な若者で、1人はボルドーで、もう1人はパリで逝去した、とシャミナード神父は記している(91)。またその他に、徳の高い2人の婦人が他界した。1人はボルドーの郊外で、もう1人はポアティエで死んだ。残るもう1人の死者は、「黙想の婦人部」のメンバーであった。この人は聖なる生涯を送り、それにふさわしい死を遂げた。

シャミナード神父の説明によれば、ソダリティでは、メンバーの訃報を受けると、ただちにマドレーヌで荘厳な追悼式を行い、また、五つの部門では、毎年、その各々の部門の死者を記念することになっていた。女子青年部の追悼式は、教会の典礼暦で、お告げの祝日の後にくる最初の平日に行い、黙想の婦人部では、ご訪問の祝日の後にくる最初の平日をこれに当てた。後日、アソシエイツであるアミンタ・モティエ (AMINTHE MOTIER)の訃報がボルドーにもたらされたとき、ボルドーのソダリティでは、かの女の永福のために、三日間の祈りをささげている(92)。

シャミナード神父が述べているように(93)、「第三部会」であるアソシアシオンは、その後も発展しつづけた。アデルはこれを喜び、神に感謝している。アデルがとくに感謝したのは、会員を通して教えられる聖なる模範であった(94)。
 
「妹たちは」聖徳の道で「わたしたちを追い越そうとしています」、とアデルはアガタに書き送っている。「少なくともかの女たちの模範にならいましょう。そして、祈りのうちにかの女たちに助けられ、いつの日にか、かの女たちと同じような人間になれる喜びを味わいたいものです」。

アデルはかの女たちの証す善徳からほど遠い自己の姿をかえりみて、この選ばれた霊魂たちに助言や忠告を与えねばならない自分を深く恥じる、と告白している(95)。しかし、そのように云ったすぐ後に、もし、わたくしたちもかの女たちと同じような決意をもって立ち向かうならば、かの女たちを助けておられるその同じ神が、わたくしたちをも助けて下さるに違いない、と勇気付けの言葉を添えている。

アデルは、1809年の前半に、これと同じ考えを数回にわたって述べている(96)。そして、恒例のコンドムへの旅行のあいだに記した手紙の中では、「ご託身の分会」(FRACTION OF THE INCARNATION)は自分の属している「おん孕りの分会」よりもはるかに熱心である、と述べている(97)。

一方、ラリボー神父はアデルにたいし、メンバーを慰め助言する努力を今後もつづけるように励ますとともに、書き送る助言をだれよりも先に実行しなければならないのはその本人である、とも述べている(98)。
 
この間、シャミナード神父とアデルとのあいだに、いままで以上にパーソナルな人間関係が築き上げられていった(99)。シャミナード神父の初期の手紙の冒頭では「マドモアゼル(お嬢さま)」と呼びかけているが、このような呼掛けで書き出された手紙は、1809年3月28日を最後に終わっている(100)。その後の手紙では、「マ・シェール・フィーユ(わたしの親愛なる娘)」とか「マ・シェール・アンファン(わたしの親愛なる子)」と呼びかけている。
 
5月(101)、アソシアシオンのメンバーは、いまだに正式なソダリティへの入会手続きを終えていなかった。しかし、シャミナード神父は、自分に賦与されたフランスの教会への教皇派遣宣教師としての資格をもって、すでに全員を自分の子供として受け入れているのだ、と述べている(102N56)。また、師は付け加えて、「熟考の結果というよりは自然に出てきた結果でしょう。すでにあなたを<わたしの親愛なる娘>とお呼びしておりましたね?」とも述べている(103)。
 
1804年以来、シャミナード神父はマドレーヌ聖堂を借りて、ここをソダリティの活動の場として使用していた。その聖堂から火が出たときは、師は、それをアデルに手紙で知らせている(104)。それは、聖木曜日、典礼が終わった30分後のことであった。ちょうどシャミナード神父がアデルに手紙を書いていたとき、聖体を安置していた場所から火の手が上がったのだ。

火の手は急速に燃えひろがり、多数の聖器具を焼失した。しかし、このようなときにもシャミナード神父の信仰はくじけなかった。「与えたお方は、取り去りたまいます。取り去りたもうお方は、また与えることがおできになります。聖名はとこしへに賛美されますように」と述べている(105)。
 
あるときシャミナード神父は、ぶどう酒の買い手がないかとアデルに尋ねている。ボルドー市の郊外でとれるこのぶどう酒は良質で評判が良く、オー・ブリオン・サン・ローラン(HAUT-BRION SAINT-LAURENT)の銘柄で売りに出されていた(106)。この年は、フィジャックやカホール(CAHORS)ならびにパリにまで出荷され、客は例外なく満足していた。シャミナード神父は、まだ、その五年物をいくらか持っていた。折りからの不景気を考慮して、1バレル当り、出荷値段500フランで売却しようと考えた。もちろん、ガロンヌ川の流域であれば、どこにでも配送する用意があった(107)。

一方、アデルはシャミナード神父の健康を気遣っていた(108)。また、シャミナード神父の略歴について質問し、フランスのペリゴール地方(PERIGORD)にあるコレージュ・ド・マフィ(COLLEGE DE MAFFI)で教鞭をとったことがあるか、と問い合わせている(109)。これにたいしてシャミナード神父は、自分がペリゴール地方で教鞭をとっていたのは確かであるが、マフィという名の学校は聞いたことがない、と答えている。これはおそらく、シャミナード神父が20年近く教えていた神学校(COLLEGE-SEMINAIRE)、ミュッシダン(MUSSIDAN)、の間違いかもしれない(110)。
 
アデルは、また、シャミナード神父を紹介してくれたラフォンに挨拶をおくり(111)、ラフォンもアデルに挨拶をおくった(112)。
 
アガタに宛てた手紙をみると、教会の典礼暦は、アデルに黙想の題材を豊富に提供していた。カーニバルの季節がくると節制と禁欲の必要性を説き、単に自分自身を高潔に保つためだけではなく、カーニバルにおける多くの不謹慎を償うためにも必要なことだ、と述べている。この考えは、ほとんど毎年のように、アデルの手紙に取り上げられている(113)。盲目的に快楽を追い求めている世俗の人びとは、まちがった幸福を追い求めている。これにたいしてアデルとアソシエイツは、世間の人びとが快楽を追求すると同じ情熱をもって、真の幸福を追い求める努力をしたのである。
 
アデルは、いつもより少し早く起床することを勧め、美味しい食物のもう一口と、好きな飲物のあと一口を慎むようにさとした。確かにこれは些細なことかもしれない。しかし、もしそれをみ主のために行うならば、それはみ主の目には大きく映るにちがいない(114)。アデルは、いつも、もっとも口に合わない食物を選ぶように努力していた(115)。我欲を抑制することのむつかしさを認めながらも、これが誘惑に打ち勝つための唯一の方法であると力説する。なぜなら、誘惑というものは油断のならないもので、「ほんのちょっと優しい」一言をあたえただけで、人のこころに毒素と誘惑をひき起こすことができるからである(116)、と述べている。
 
四旬節には、カルワリオの教室で、そして、十字架の足元で、どうすればより良く生きることができるかを学んだ(117)。そして、復活祭が来ると、復活と刷新、世のものごとからの離脱とみ主への愛着を学んだ。しかし、ここでは自分を正当化している余裕はなかった。表面的に有徳な生活を送り自己満足におちいっている人よりは、むしろ、自己の過ちを認めた罪人の方がみ主に近い、と考えられたからである(118)。外的なものごとからの離脱が強調された。しかしそれ以上に、こころにおける離脱が大切にされた。それは、イエス・キリストと世の中のどちらを選ぶかの問題であった(119)。

聖霊降臨祭には、聖霊の賜の一つひとつについて述べ(120)、喜び、寛容、慎み、貞淑、忍耐、心棒強さ、愛、平和など、これら聖霊の現存をとおしてわたくしたちがいただく賜を、アソシエイツ全員が、十分に享受できるように祈っている(121)。アガタがくじ引きで賢明の徳を引き当てたとき、この賜がアガタにこの世の無意味なものごとに愛着することなく、神ご自身である真実と不動の善に心を寄せる力となるように、と希望している(122)。弱さと過ちに打ち勝つためには、剛毅の賜が必要である。堅信の秘跡によって「キリストの兵士」となったわたしたちは、利己的な傾向にこころを譲ることなく、神のご意思を実行しよう、とも述べている(123)。

このように一般的な考えを述べたのち、アデルは自分自身の人間形成に戦いを挑みかけている。アデルの「規則」の第6条は、生来の激しい性格を統御することを教えていた(124)。アデルは、自分たちと同年輩の若い女性に特有の危険と誘惑があることを知っていた。同時にまた、もし神を信頼してすすむならば、危険も誘惑も害をあたえることはないということも知っていた。しかし、それが常に自分の周囲をつきまとう「煩わしさ」であることをも認めている。誘惑を受けたイエスの手本にならい、誘惑の機会を避け、祈り、規律を身につけることが必要である。アデルはアガタに、「すべてにおいて慎みを守ろうではありませんか」と述べている。ラリボー神父も、また、デュクルノ氏にかわって、たとえどのように些細なことでも、例えば歩き方ひとつにしても、慎みを身につけて軽率なふるまいを抑えるようにと力説している(125)。

四月になると、アデルは例年のように、コンドムの叔母を訪問した。コンドムでは「ご託身の分会」のメンバーに会い、集会の座長をつとめ、会員たちの行動や容貌に啓発された(126)。アデルは、また、この分会の長であるロロットに、マドモアゼル・ラコンブと文通
するようにすすめている(127)。

アデルはシャミナード神父に手紙を書いてこの時の訪問について報告しているが、その同じ手紙のなかで、会員として正式にソダリティに受け入れらるのは何時ごろになるだろうか、と問い合わせている。これにたいしてシャミナード神父は急いで返事を送り、決して忘却しているのではないと述べ、しかし、今は非常に忙しくて訪問する機会がない。だからといって教皇の許可なく代理人を送ることもできない。しばらく忍耐して待っていてほしい、と述べている(128N56)。

コンドムから帰省したアデルは、アガタのトランケレオン訪問に胸をはずませていた(129)。アデルのアガタにたいする友情の深さは、その手紙にしばしば表現される訪問への期待感によってじゅうぶんに理解することができるが、手紙に用いられている表現からも、さらによく知ることができる。
  
「み主イエス・キリストの中において、どれ程あなたさまをお愛し申し上げているかをお話しすることが出来る日が、一日も早く来ますように」     (130)。「わたくしは、まだ、あなたさまにお会いできる希望を失っておりません。あなたさまも、そして、ディシェレットも、できるかぎりの努  力をして下さい。ラリボー神父さまもおいでになると思います」(131)。「イエス・マリアの聖心においてどれ程あなたさまをお愛し申し上げてい  るか。このことをお伝えるするまでは、お別れのご挨拶を申し上げるわけには参りません。もしあなたさまがおいでになるならば、ラリボー神父さ  まにもお越しいただけるようにお願いするつもりです。きっとおいで下さると思います」(132)。「親愛なるアガタさま、それではわたしたちは、  まだしばらくの間お目に掛かれない苦しみをお捧げしなければなりませんね」(133)。

アデルは、また、アガタに宛てて、こんどコンドムの叔母がアジャンへ行くときは、わたしを連れて行くように頼んでほしい、と述べ、「わたしは、自分から思い切ってなにも言えないのです」と付け加えている(134)。

1809年6月、皇帝ナポレオンは、教皇領ローマ市をフランスに合併し、教皇を事実上、幽閉してしまった(135)。ちょうどこのとき、アデルは誕生と授洗の記念日を祝うために行う数日間の黙想の準備にとりかかっていた。アデルはこれで20才になるのだった。

この日、アデルは、20年前に神の子として教会に受け入れられたことを、こころから祝った(136)。洗礼のときにおこなった約束を喜びのうちに更新し、主に仕えることに大きな喜びを見いだした。

アデルはラリボー神父の勧めに従い、聖フランシスコ・ド・サールの著書「献身的生活への入門書」(INTRODUCTION TO A DEVOUT LIFE)で説明されている方法を用いて、毎年決心を新たにしていたが、このときもまたかの女は、自分が他のメンバーに書き送る勧めを自分自身にも適応することができるように、決心を新たにした。そして、たとえばアガタに書き送ったように、この時期にアジャンで催されている博覧会のような興奮と騒ぎの中にいたとしても、こころの中に自分一人の静かな場所を確保することができるように、と決心している。

ちょうどそのころ、アデルはまた母親に連れだってフィジャックを訪問していた。そこでアデルは、母親の家系で22才になる婦人の話を耳にした。かの女は非常に聖なる人で、行動的な(137)人物であり、男爵夫人の実家ペイロンネンク家の集中する(138)ビルフランシュ・ド・ルーエルグ地方の出身であった。アデルはこの女性にコンタクトし、アソシアシオンに誘い入れたいと思った。しかし、ついにかの女に会う機会に恵まれることなく、アデルがこの女性エミリ・ド・ローダ (EMILIE DE RODAT)と連絡をとることができたのは、それから10年も経ってからのことであった(139)。

アデルは帰郷すると、熱心なド・ポミエ姉妹が来ていることを知り(140)、前後して四回、かの女たちに会った(141)。アデルはド・ポミエ姉妹が帰省するまえに、かの女たちが滞在していたネラックから、もう一度トランケレオンに足を運んでくれるように、と依頼している。そして、かの女たちがトランケレオンに居るあいだに、アガタにもトランケレオンへ来るように、と誘っている。

また、このころ、トランケレオンに、ソフィ・ド・ポルテッツ(SOPHIE DE PORTETS)が来ることになっていた。以前、アガタはソフィの姉妹のデジレに会ったことがあるが、ソフィ自身にはまだ会ったことがなかった。アデルはアガタにこのことを指摘して、だから急いでトランケレオンにいらっしゃい、と述べている。

7月の初旬、アデルはアガタに手紙を書き、過去2年のあいだ7月になると第一金曜日から、ミクエル神父とフェレ神父(FERRET)がアソシアシオンの意向に沿ってミサを捧げてくれていることを思い起こさせている。このフェレ神父は、コンドムに住んでおり、かれ自身アソシアシオンのメンバーであった(142)。

もちろん、この頃すでにアソシアシオンは、ボルドーのソダリティで捧げられるすべてのミサに参与していた。こうして与えられる恩寵と支援は、当然のことながら、霊的生活をより忠実に生き、進歩するように、アソシエイツを力づけずにはおかなかった(143)。

7月の中旬になると、ついにアガタはトランケレオンに来る機会に恵まれた。長いあいだ待っていた訪問であった。アガタは6週間のあいだシャトーにとどまり(144)、アデルと共に、思いや理想を分かちあい、男爵夫人がおこなっている慈善事業を手伝って、シャトーでの生活を過ごした。その間、アガタは、マダム・パシャンや小さなクララと旧情を温め、家族の一員であることを新たに確かめ合った。
 
アガタは父親からの挨拶を男爵に送り、帰りには男爵の挨拶を父親に持って帰った。残念なことに、訪問が終わりに近づいたころ、アガタは腸の具合いを悪くして病床に伏し、じゅうぶんに快復しないまま帰路につかねばならなかった(145)。

8月になってアガタが去ったあと、アデルは例年の通りロンピアンを訪れてラリボー神父に会うことができた(146)。それから間もなくのこと、フランスと、そして、とくにボルドーにおいて事件が起こり、一年前から始まっていたシャミナード神父やソダリティとの関係に修正を加えねばならなくなった。

ラフォン氏は、この頃すでにフィジャックを離れてボルドーに移り、そこで再び個人教授の仕事に従事していた。ラフォンは相変わらず活発なソダリティのメンバーで、行く先々で新しい会員を募集していた(147)。しかし、9月19日、火曜日、午前6時、ラフォンは自宅にいたところを警察に逮捕された。そして、数日の内に、政治犯・破壊主義者と断罪され、パリの牢獄、ラ・フォース(LA FORCE)、へ送られたのである(148)。
 
ナポレンが教皇領地を占領し教皇を幽閉すると、教皇ピオ7世はこの侵略戦争に参加したすべての人を破門するとの教書をだした。当然のことながら、ナポレオンは、この文書のフランス流入を阻止した(149)。パリのソダリティの一部の人は、王制派の不満分子や退役将校と共謀して(150)、教書を秘密裏にフランスへ運び込み、印刷して、フランス国内で配布するという危険な仕事に手をだした。

ラフォンはパリのソダリティと文通していた関係上、それまでの警察の逮捕や押収から、かれの名とボルドーとの関係が表面に浮かび上がってきた(151)。事実、ラフォンは政治的な陰謀者であったのだ。早くから氏の破壊的な手口はボルドーのソダリスト全員のあいだに知れ渡っていたが、ソダリストたちはラフォンの仕事にはまったく関わっていなかった。しかし、嫌疑はソダリティとシャミナード神父の上に掛けられた。

この嫌疑は、ふとしたシャミナード神父の行動によって固められてしまった。それは、シャミナード神父が、ラフォン氏の投獄理由を知らないままに、氏の告白を聴くために、かれの聴罪司祭の代理として、牢獄へ出かけたことにある(152)。

シャミナード師の文書類は押収され、尋問を受け、ソダリティの活動は徹底的に取り調べられた。実際、すでにソダリティの内部には警察の密告者が入り込んでいたのである(153)。

パリのソダリティとボルドーのソダリティの間には、祈りによる連合は行われていたが、政治的な結び付きはまったく無かった。そして、警察の地方当局は、ソダリティとシャミナード神父の、そのどちらにも有罪を裏付ける証拠を見いだすことはできなかった。にもかかわらず、ナポレオンは断固として「おとめマリアへの信心をもつ」すべてのソダリティを弾圧する命令を下したのである(154)。やがてナポレオンの圧政に激しく抵抗することになる(155)ダビオ司教の庇護のもとにありながらも、ソダリティは、この弾圧を逃れることはできなかった(156)。

弾圧はフランス全土の男子青年のソダリティに向けられたものであったが、ある地域では、不正にも、女子青年のソダリティにも適応された(157)。そして、それがボルドーで起こったのである。この決定にたいしてシャミナード神父はアピールしたが無駄であった。この弾圧の手から、せめて少年たちで組織されたソダリティの予備軍だけは守ろうと努力したが、その努力も無為におわった(158)。

シャミナード神父は、訴えのためにパリに上京することも可能であった(159)。しかし、政府はすべての訴えを退け、若い人たちは「小教区から分離さるべきではなく、かれらの力に見合った指導を、主任司祭ならびにその補佐役から受けるべきだ」! と主張するばかりであった(160) 。

もちろん、シャミナード神父は、「提携」しているということで、この疑惑が第三部会にもおよぶのを心配した。それで師は、手紙を送るときは特に注意を払い、自分の知人か、アデルの知人を介して届けてもらうようにしていた(161)。師は、手紙が配達の途中で失われることから生じる危険性についてアデルに注意をうながしている(162)。師はまた手紙の内容に注意を払うようにアデルに警告し(163)、政治情勢に言及することなく、内容は霊的なことにのみとどめるべきだ(164)とも述べている。
 
シャミナード神父はアデルにラフォンにかんする情報を伝えたが、そのときラフォンを単に「ある人物」と表現して(165)、その人のためにアソシエイツの祈りを依頼している。そして師は、このことがあってから数カ月のあいだはほとんど手紙を書かず、非常に賢明に行動した(166)。ソダリティはおおやけにマドレーヌ聖堂から締め出され、シャミナード神父は郊外にある自分の土地、サン・ローランに引き篭った。この土地は、クリスチャン・ブラザーズがフランスに帰国して最初に居をさだめたところで、暫定的ではあるが、ここに修練院を設置していた(167)。

ソダリティは表向きには弾圧されていたが、実際には寛容な土地柄が幸いして、しばらくのあいだは、機能し続けることができた。それが部分的であれ、全面的であれ、弾圧の可能性をずいぶん久しい以前から予見していたシャミナード神父は、常に、このような非常時に備えていたのであった(168)。
 
ソダリティの活動は非常に慎重に行われた。しかし、新入会員の登録簿をみると、1810年、1811年、1812年を通じて、いくらかの活動を継続していたことが窺われる(169)。

「困難はともないますが、すべては続けられています」。シャミナード神父はアデルに、そのように書き送っている(170)。
事実、弾圧はよい結果を生んだようで、ソダリストの勇気と献身は弾圧のもとでかえって立派に証明された。奉献を忘れ去った会員はきわめてまれである、とシャミナードは認めている(171)。

1809年の後半に起こったこの事件でこころを乱したアデルは、シャミナード神父から長いあいだ音信がないのを気にして、また病気にかかっているのではないかとシャミナード神父に問い合わせた(172)。

11月、シャミナード神父はこのアデルの手紙に返事を送り、しばらくのあいだ身体の具合いが悪かったことを認めているが、手紙を書かなかった主な理由は、ソダリティの弾圧も一つではあるが、それよりも、アデルに送るためのオフィサーの名簿の準備で忙しかったからだ、と述べている。そして、その同じ手紙の中で、ラフォン氏の「ひどく重大な事件」について言及するとともに、毎年自分が指導している黙想会についても触れている(173)。

ところで、この時期に健康を損ねていたのはシャミナード神父であるよりも、むしろアデルの方であった。アデルは重い病気にかかり、ほとんど死にひんするほどであった(174)。そして、約6週間ほど床についていたのである。
 
それが、どんな病気であったのかは不明である。しかし、手紙を書くことができなくなるほどの病気であり、それ以降、二度とアデルはもとの健康を取り戻すことができなかった。それほど、この病はアデルの身体を蝕んだのである(175N57)。

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