◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第5章 1801年−1803年 

コンコルダ ナポレオンと教皇
デュクルノ氏による「生活の規則」
堅信の秘跡/ディシェ家の姉妹との出会い



ついにアデルは帰郷した。四年間の亡命生活であった。苦しみと喜び。思いもおよばぬ環境と、その中から得た数多くの体験。アデルは、この四年間に、身も心も成長した。

幼い頃、無邪気にはしゃぎまわった屋敷のあちこち。最初は、遊びまわるのも一人であった。しかし、弟が生まれてからは、二人で駈けずりまわったものだった。アデルは、当時のことを思いだしながら、屋敷のあちこちを見て周った。たくさんのことが変わった。アデルの周囲も、そして、心の中も。

屋敷の中で最も変わったことと言えば、それはアデルの祖母で、男爵の母親である女性家長が居なくなったことである(1)。かの女が家族と力を合わせて政府から財産の押収を守ってくれた甲斐があって、ついに、1799年3月28日、一家の所有権は認められた(2)。しかし祖母は1800年の秋(3)、息子男爵の帰宅を待たずに、69才でこの世を去ったのである(4)。

祖母の死は、家族全員に大きな悲しみをもたらした。しかし、だれよりも大きな悲しみを抱いたのは男爵であった。祖母の亡きあとはアデルの母親が女性家長の跡を継ぎ、祖母の部屋に移り住んだ。こうして過去と現在を繋ぎあわせる鎖の失われた輪が、再び継ぎ合わされたのである(5N30)。

召使や下僕たちの間にも、居なくなった顔ぶれがあった。ある人は年老いて死に、ある者は病でたおれた。凄惨な恐怖政治によって、隣人と隣人、友と友、そして、家族の間にさえも溝を作った。そのような争いの中で、暴力によってこの世を去った者さえいた。ある者はより良い生活を求め、ある者は身の安全を求めて放浪の旅に出た。巷にさまよう放浪者の群れに加わった者もいただろうし、フランスを毒するごろつきや盗賊の仲間入りをしたものがいたかも知れない。「平等」と、より良き時代への果たし得ぬ夢の悲しい結末であった。

アデルと母親は、再び以前と同じように労働者たちの家を訪れ始めた。かれらの妻や子供たちと再会し、四年間のできごとを語り合い、慰め励まし合った。亡命以前の凄惨な革命時代がそうであったように、再び屋敷の扉は貧しい人たちや飢えに苦しむ人たちで取り囲まれるようになった。収穫も乏しく、資力も衰えた中にあって、男爵夫人とアデルは力の限りかれらを助け、できるだけ多くの人たちに助けの手を差し伸べた(6)。

事実、男爵の資力は乏しくなっていた。法的に云えば、男爵はもはや自分の財産に対する所有権はなく、収入を得る権利もなかった(7)。伯父、母親、妻、姉妹、そして自分の息子に相続権相応の持ち分を分配すると、全財産の約四分の一が男爵のものとして残った。しかし、これは、今では国家 (LA NATION) の財産とみなされている。1793年の押収の際に財産目録に書き込まれ、権利を放棄した家財道具の大半は、今では家族の手に戻されていた。しかし、それさえ、分に応じて相続された後は、男爵の持ち分は国家の所有物になってしまったのだ(8)。

持ち合わせのお金は、現金も預金も、男爵の亡命生活とそれに続く家族の亡命生活で、ほとんど費やされてしまった。以前家族が使っていた馬車も無くなったが、これを新調することができなかった。だから、しばらくの間は簡単な屋根付きの小型馬車(CARRIOLE)(9)で用を足さねばならなかった。切り詰めることのできる支出はできる限り切り詰め、子供たちにも節約に協力するように要求した(10)。しかも、帰国の条件として課せられた警察による監視は、ナポレオン政権が没落して王政が復興するまでは、実際に実行されたのである(11)。

ナポレオン政権下のフランスは、ある程度まで安定性を取り戻した。対外的には国家の安全が確保され、国内的には和解が実現した(12)。同じフランスの国民同志が傷つけ合った国内紛争が、どれ程までに深刻で根が深く破壊的な傷跡を人びとの心の中に残したことか。それは、この時代に住む人でなければ理解できないであろう。

近隣の人びと、いな、親族や家族さえもが、ちょうど男爵と弟フランソワの関係がそうであったように、異なるイデオロギイと政治思想で対立し、自分たちの住んでいる町や村を舞台に激しく争い、傷つけ合ったのである。はては、愛する家族を殺したり、惨殺する者さえいた(13)。そのような人びとが、今では互いに和解と平和を提唱し、新生フランスの建設へ協力を呼掛けるようになったのだ。

国家と政府のレベルでは、ナポレオンと新しく着座した教皇ピオ7世の間で結ばれた1802年4月18日のコンコルダによって、新しい第一歩が踏み出された(14N31)。分裂した聖職者や司教が再び調和のとれた協力関係に統合されるには、まだ、しばらくの時間を要した(15)とは云え、信仰の自由は復権した。フランスの教会は刷新され、新しく教区の境界線が引きなおされた。没収されていた教会の建造物は、あるものは買い戻され、あるものは返却され、あるものは原型に復元された。教区の聖職者は、宣誓派・非宣誓派の区別なく、新しい司教と新政権のもとに置かれることになった(16)。

しかしながら、修道会はいまだに禁止されたままであり、新しい修道会を創立することも許されていなかった(17)。以前修道者であった者たちは、公の承認を得ぬままに共同体を形成し、使徒活動を展開した(18)。こうして、新しい型の「修道会(RELIGIOUS ASSOCIATIONS)」が浮上したのである。

アデルの二人の叔母は、以前のドミニコ会修道女たちと共にコンドムに共同体を再建し、少女を教育する寄宿舎学校を始めた(19)。後日、この事業にマリ・フランソワが合流するが、かの女は男爵が恩赦を得るまで、トランケレオンに留まることになる。

フランスが国内情勢を整えているとき、男爵もわが家の整備に力を注いだ(20)。パリに出かけて母親の家族を訪問し(まだ警官の監視のもとに置かれていたので、旅に出るときは許可が必要であった)、母方の伯父ド・マリッド伯爵(コント・ド・マリッド(COUNT DE MALIDE))の遺産を売却したりもした。この伯父は、男爵の母親が死んで間もない1899年の12月に世を去ったのであった(21)。男爵はまた、国家(LA NATION)と法的にかけあって、父方の伯父シャルルや姉妹や弟フランソワの所有物となっていた財産を買い戻す手はずを整えた(22)。

この頃、弟フランソワは、妻と四人の子供(最終的には七人の子供を持つことになる)を連れてフガロールの近くにあるラバルダック(LAVARDAC)のガジャン(GAJEAN)に移り住み、それまで住んでいたサン・ジュネ(ST-GENES)の所有地を兄に返却した(23)。

以前、男爵に仕えていた下僕の一人ランヌロング(LANNELONGUE)も、政府の押収から買収していた男爵の所有地の一部を、男爵に返却した(24)。

これらの取引に必要な資金を得るために、1803年、男爵はネラックにある父方の所有地とフガロール周辺に点在する土地を売却した(25)。

男爵の身分はまだ完全に正常化されたわけではなかった。しかし、男爵とことを構えようとするものは、このフガロールの地には誰一人としていなかった。10年間土地を離れ、しかも、いまだに亡命者を疑の目で見る風潮があったにもかかわらず(26)、男爵の名声と尊厳は保たれていた。

1802年4月26日、政府に対する忠誠を誓うことを条件として、一切の例外を除外して、全ての亡命者に帰国の許しが与えられることになった。そこで男爵は、早速、その手続きに取りかかった。5月17日、ロッテガロンヌ(LOT-ET-GARONNE)の県庁に出頭し、(1801年7月26日付で下付された)国内治安大臣(MINISTER OF INTERNAL POLICE)による特別認証をもってフランスに再入国した旨を説明し、法律の要求する宣誓を行った。男爵の書類は治安省(MINISTRY OF POLICE) と司法省(MINISTRYOF JUSTICE)に送付され、1802年7月31日、ついに恩赦を受けることができた(28)。

恩赦の条件には次の事が明記されていた。この恩赦は亡命していた者にたいして与えられるものであること、また、特殊法により除外され、または、売却されたものを除くすべての財産の所有権を復権し、それを認めること、の二つである(29N32)。

すでに48才になっていた男爵は、これでやっと自由の身になったのである。過ぎにし10年。それは危険の連続であった。追跡、侵略、押収、ギロチン、追放。これらはすべて過去のものとなった。

同じ年の12月17日、男爵夫人もついに「恩赦」を受けることができた。しかし、亡命者リストからの名前の削除は、ついに実現することはできなかった(30)。

ところで恩赦を受けたこの喜びも、家族を訪れた死によって、再び悲しみの雲の中に包み込まれた。81才になる男爵の伯父シャルルが逝去したのである。7月30日、男爵に恩赦が下ったちょうどその日のことであった(31)。

アデルを囲む家族の数は減少した。父方の祖母が死に、伯父も死んだ。その妹マリ・フランソワはコンドムに行った。シャトーに残ったものとしては、男爵と男爵夫人、そして、その三人の子供の他に一番年かさの叔母カタリン・アンヌが居るだけだ。この叔母は、男爵と男爵夫人が不在のあいだ、落度なくその代理を勤めた人物であり、また、家族の権利を立派に擁護してくれた人である。かの女はこれから後も、子供たちの教育に貢献してくれることになる(32)。

この叔母の他に、もう一人シャトーに残った人物がいた。それはアデルの呼び方を用いるならば「親愛なるマダム・パシャン」(DEAR MADAME PACHAN)である。以前は修道女であったが、追放のときトランケレオンに迎え入れられた。かの女は、いわば、召使と家族の中間的な存在であった。家庭内のこまごました仕事を手伝うかたわら、家政婦としてアデルの身の回りの世話をし、旅に出るときは常にアデルの付添いをした(33)。55才になるかの女は、1747年12月22日の生まれであった(34N33)。

この家庭では、子供の教育が重要な位置を占めていた。アデルの教育は男爵夫人の手でおこなわれたが、男子であり将来家長となるべき弟シャルルの教育は、家庭教師の手に委ねられた(35)。経済的に大きな負担となるにしても、堅実な教育を息子につけることは、男爵の堅い決意によるものであった(36)。

1802年の初頭、帰国してから僅か数カ月のちのこと、マダム・パシャンと同様、以前修道者で革命中に追われた32才のジャン・バプティスト・デュクルノ氏を家庭教師として雇い入れることができた(37)。当時すでに神学の勉強を始めていたデュクルノ氏であったが、まだ司祭に叙階されていなかった(38)。かれの聡明さと成熟した人となり、そして、秀でた宗教心と高度な霊的生活は、やがて家族全体の尊敬を集めることになる。

かれは単にシャルルの家庭教師を勤めるだけでなく、アデルの家庭教師とも霊的指導者ともなった(39)。霊的生活にたいする穏健でかつ均整のとれたかれの考え方と、アデルの人柄を的確に把握するかれの洞察力は、アデルの霊的生活の育成に大きな影響を与えた。

いつしかシャトーに平穏な日常生活が戻って来た。若い頃パリに居を構え、宮廷に出入りし、華やかな舞踏会や貴族階級の社交会に席をつらね、首都の賑わいを体験し、お金と権力と人脈の力を知っていた両親とは対照的に、アデルの生活はどちらかと云えば田園で人目にたたない地味なものであった(40)。しかも、逼迫した家計はアデル自身に様々な不便さを余儀なくすると同時に、貧者への援助にも自ずから限りが生じた。

アデルの日常生活は、かの女自身の霊的生活の育成と、恵まれない人びとへの溢れんばかりの愛情と配慮の実践であったと言える。アデルは屋敷における日常生活の中で、自分に与えられた日課を忠実に果たし、両親と共に居ることを喜び、弟シャルルや妹と生活を分かち合うことに何よりも大きな喜びを見いだしていた。

アデルの教育は、最初はカタリン・アンヌの指導のもとに進められたが、のちにデュクルノ氏によって引き継がれた。こうして、亡命中に母親から断片的に教えられてきた教育をまとめ上げ、肉付けすることができたのである。かの女が受けた教育は基礎的なもので、読み書きや算数などであった。アンシアン・レジームの貴族の子女教育にみられる美術に関する教育は含まれていなかったように見受けられる。音楽や美術の代わりに、裁縫や刺繍、家政や屋敷の管理を学んだ(41)。後日、両親が不在の時、屋敷を切盛りし、広範囲にわたる領地を采配することができたのは、このような教育の成果であろう。

アデルが最も大切にした学習は霊的生活と祈り、そして、信仰生活の育成であった。屋敷の環境は、このような教育には最適であった。近隣の人びとや友人の中には、このような屋敷の生活環境をいくらか批難を込めた語調で「修道院のような環境」だと云う人もいた(42)。

アデルにとって、この時期はカルメル会に入る準備の期間であった(43)。アデルは、いまだに神からカルメル会への召命を受けていると確信していたのである。もしフランスで修道会が復活するならばフランスで、でなければスペインのサン・セバスチアンでカルメル会に入ろうと考えていた。デュクルノ氏に生活の規則の作成を依頼したのも、このような前提があったからであり、母親とよく相談した結果であった。それは、1802年の初頭で(44N34)、アデルはまだ13才になっていなかった頃のことである(45)。

やがてこの年若いアデルと、弟の家庭教師デュクルノ氏のあいだに、素晴らしい人間関係ができ上がった。わずか数週間の短い期間のうちに、アデルはデュクルノ氏のうちに深い霊生を知り、その鋭い洞察力とキリスト者としての均衡のとれた生活態度を見いだした。デュクルノ氏も、また、アデルの中に年齢にもまして成熟した霊生を見いだし、カルメル会への召命を確信して心の底から神に仕えようとする選ばれた魂を感じ取っていた。しかしそれと同時に、この年若いアデルには、その若さと燃えるような性格に起因する弱点と限界があることをも、見落してはいなかった。

アデルを善行へと駆り立てたその長所自体が、もし矯正されずに方向性を誤れば、かの女を善から遠ざけることになる。人びとの霊生を指導する上で、自分の能力の限界と経験不足を自覚していたデュクルノ氏は、はじめはアデルの申し込みを断わった。しかし、氏を霊的指導者として仰ぐことを切望するアデルの願いは強く、母親もアデルの希望に賛同した(46)。

時には、せがむように繰り返されるアデルの要求に、さすがのデュクルノ氏もついに折れた。こうしてデュクルノ氏は、アデルの霊的生活に、母親に次いで大きな影響力を持つ人物となるのである(47)。同氏がアデルのために作成した「生活の規則」(48)は、アデルが生涯これを大切にし、後年この規則書のなかに、種々の決心を自分の手で書き加えることになるのだ(49)。

このようなわけで、この「生活の規則」はデュクルノ氏とアデルの二人の人物をきわめて忠実に反映していた。13頁にわたるこの規則書は、デュクルノ氏自身の手で書かれたものであり、前書きの後に25項目のアドバイスと勧告が記載されている。そして、その後に、毎日の生活のあらゆる局面を網羅するスケジュールが詳細にわたって記されており、最後に推薦読書のリストが付加されていた。

この規則書は、社会人として、また、家庭人として、そのあらゆる局面においてアデルが立派に、成熟した娘として、振舞うことができるように書かれたものであり、そこに書かれた種々の勧めは、デュクルノ氏のアデルにたいする鋭い観察と、氏の率直な気質を反映していた。

氏は、アデルが信仰をより良く理解し、それを生活の中で徐々に実現することができるように、幾つかの勧めを提案している。また、氏は、アデルがこの勧告を十分に活用し、「み主が望んでおられる完徳の域に達する」ための一助になることを希望する、とも付け加えられている。

アデルがこの規則を母親の監督のもとに誠実に実行するであろうと確信していたデュクルノ氏は、同時にまた、この規則がアデルの心を縛りつけるものになりかねないとも考えた。事実、ある状況おいては、より大きな善のために、一時的にこの規則を無視しなければならないことがある、と考えていたのである(51)。

政府が集録したシャトーの財産目録に関して誓いを立てることを拒み、教会の権威に伺いを立てるまではフランスの新政府に忠誠を誓おうとさえしなかったほどに繊細な男爵夫人の良心は、アデルにも受け継がれていた。亡命の地にあって、正当性を踏み外しているかに思われる説教師にたいして、その非をただすべきか否かを論じたほどのアデルであった。聖体を拝領するに当たって、聴罪師が考えている以上に準備が必要であると考えたアデルである。このように繊細な良心を持っていたアデルは、その持ち前の熱烈な性格と快活さが手伝って、霊的生活を送るに当たっては、容易にある種の小心に陥る危険性を持っていたのであった(52)。デュクルノ氏はこの危険性を察知しており、生活の規則を与えるにさいしては、その当初から、この危険性からアデルを守るように配慮したのである。

デュクルノ氏は、この生活の規則が良心を束縛するものでないことを強調している。告白は、誠実かつ素朴で、簡潔なものであるべきことを諭しており(第20条)、心に疑惑を持てば直ちにこれを聴罪師に打ち明け、一端これを解決すれば二度と同じ点に立ち戻らないこと。いかなる理由があろうと過去のことをむしかえし、不十分であったと思い直して祈りや償いを繰り返すべきではない(第21条)と教えている。また、黙想は神の愛を中心に行い、全てを神のみ手に委せ、神の慈しみと愛、あわれみと寛大さに身を置くべきこと。「決して地獄や審判、永遠性を主題にしてはならない・・・」とも述べている(53)。神を恐れ、その審判の恐れに導くような読書をしてはならないこと。「愛の道」こそが、かの女にもっとも適切な道である(第17条)と教えている。

デュクルノ氏のこの勧告と、その勧告に忠実に従ったアデルの態度は、立派に実を結んだ。アデルは自己中心的な小心に陥ることなくして良心の繊細さを保ち続けることができた。そして、この同じ勧告を、アデルは、将来自分の下に立つ人たちの指導に用いることができた。

デュクルノ氏はアデルにたいして種々の奨励事項を記しているが、これを裏側から読むならば、氏から見たアデルの弱点、かの女の子供ぽい欠点のリストであると云うことができよう。氏はアデルに、怠惰に打ち勝ち、与えられた仕事にたいする不服の感情を克服するようにと教えている(第1条)。また、両親とりわけ母親を敬愛し、親に対する反抗心を抑え、親に対して口答えをしないこと、心の中で不平をこぼし、いやいやながら命令に従うことのないように、と勧めている(第3、14条)。

親から忠告されたときは有難くこれを受け取り、言い訳をしないこと(第13条)。批判を避け、過度な好奇心を抑制すること(第5条)。すべての人にたいして忍耐深く、親切であること。決して人の陰口をせず、他人の行動に関しては常に善意をもって解釈すること(第4条)を勧めている。

特に強調されていたのは、ややもすれば多くの欠点を生む原因となっていたアデルの生来の激しさを抑えることであった(第6条)。あらゆることをできる限り完璧に行い、しかし、決して焦ったり無闇に慌てた行動に出ないように、と諭している(第10条)。

デュクルノ氏は、また、この貴族の娘に、母親や叔母カタリン・アンヌの指導のもとに、手仕事を習うことを強く勧めている(第11条)。公の集まりや社交の場、友人たちと会うときなどの身の振舞い方に関しても事細かに忠告し(第2、9条)、にこやかであってもほどほどにし、神の現存を忘れないこと(第10、12条)。浅薄な読物や不道徳で非宗教的な交際を避けること(第2、16条)、休息のときや遊びのときに過度な遊興に走らないこと(第12条)、会話や行動において常に謙虚で慎み深くあるべきこと(第13条)。でき得るかぎり他人の意思を尊重し、自己主張を通さないこと(第7条)。また、善きにつけ悪きにつけ、他人の目を気にすることなく、常に神の栄光を求めること(第13条)、をすすめている。

つまるところ、デュクルノ氏の忠告は、生活全体を神の愛に向かわしめ、人を思う神の愛を意識し、神と隣人にたいする愛を表現することに生活を方向付けることにあった。

デュクルノ氏は、また、頻繁に秘跡に近ずき、週に一度は告白をおこなうことを勧め、とりわけ、毎週の日曜日や、いくつかの祝日には、聖体を拝領する許可を得ることを勧めている(第20条)。しかし、聴罪師ドゥッセ神父(DOUSSET)は、この二点すなわち告白の秘跡と聖体の秘跡を受けることに関して、正反対の勧告をおこなった。

デゥッセ神父は、1803年の秋、フガロールの主任司祭に任命された。かれはアデルが頻繁に聖体を拝領することを許さず、後日、熱心な教区信徒にたいしても、月に一度の聖体拝領を許したに過ぎない。従って、アデルは長い間この制約に縛られた(54)。後になって主任神父はこの規則を緩めたが、それでもそれは、週日で、しかも、ある意味で個人的な形での聖体拝領を許したのみであった(55)。

デュクルノ氏がアデルのために作り上げた日常生活のプログラム(56)は詳細にわたっている。起床は朝の6時から7時の間。就寝は夜の11時。7時間から8時間以上の睡眠は許されなかった。起床すると、先ず祈りに時間が当てられた。約30分、神の愛とその慈悲、キリストの苦しみとその原因について黙想し、その愛にどのようにお応えするかを黙想することになっていた。その後、聖母マリアの小聖務日課の一部を唱え、次に教会または時としてシャトーで行われるミサに与ることになっていた(57)。

残された午前中の時間は、母親の指示に従って、手仕事や勉強に当てられた。昼食前の15分間は霊的読書を行い、つづいて午前中の行動について反省する。昼食の後は、しばらくのあいだ休息し、それから午後の半ばまで仕事をする。仕事が終わると再び聖母マリアの小聖務日課の一部を唱え、夕方の黙想の準備のために短い読書をする。6時近くになると約半時間の黙想をする。時には、その後でロザリオを唱える。夕食の前には、しばらく時間をとって翌朝の黙想の準備をする。夕食のあとは休息をとるか仕事をする。就寝前には家族と共に夕の祈りをし、しばらく良心の究明をおこなう。そして、一日の終わりには就寝の準備をしながら、いくつかの短い祈りを唱える。

最後にデュクルノ氏は、毎年、保護の聖人の祝日と初聖体の記念日、ならびに誕生日と授洗の記念日を祝うことをすすめ、誕生日と授洗記念日の前には4・5 日間の黙想をおこなうようにすすめている(58)。

生活の規則の最後には、推薦読書、とりわけ、福音書と「キリストの模倣」を掲げ、結語としては、この「生活の規則」は日々の生活の中で敬神と英知において成長することを目的としたものであり、神がアデルを祝福し、アデルも神に祈るように、と結んでいる。

生活の規則は非常に厳しいものであった。しかし、アデルは感謝の気持ちをもってこれを受け入れ、寛大な気持ちでこれに従った。アデルの生涯はこの規則によって方向付けられ、霊的生活と知的生活、そして情緒の成育もこの規則によって正しい方向に導かれた。かの女の人格形成においてこの生活の規則が果たした役割と重要性は大きい。

アデルは、この規則を入手して間もなく、デュクルノ氏のために毎日祈を捧げることを決心し、それを規則書の最後に書き留めた。また、謙遜と親切と従順の徳を主軸に実践し、我意を捨てて他者に従い、あらゆる徳目、とりわけ現在の自分に最も必要とされている徳目と、カルメル会への召命に必要とされる諸徳を身につけるように努力する、という決心をも付け加えた(59)。

デュクルノ氏の指導や両親の助言は確かにアデルの霊的生活を育てる上に大きな力を持っていた。しかし、それだけではなかった。かれらの正しい行動の模範があったことを見落とすことができない。決して豊かとは云えない家計を切盛りしながら、貧乏な人たちを援助する男爵夫人(60)。かの女は家族や召使たちを集めて共同の祈りを行い、新政府のもとで再び自由になった教会の祝日を祝ったりなどもした。

夫人はまた、家族と共に、いつもの通り教会に出かけた。男爵自身も革命と亡命生活を経験する中で、ある種の回心を体験しており、他の紳士たちが公の宗教行事に参加したり聖体拝領をすることにためらいを感じている時も、男爵は家族と行動を共にした。事実、男爵の祈る姿は、これを見る人に深い感銘を与えたものである(62)。

生活の規則を与えられてから一年も経たぬ頃、アデルは洗礼に次ぐ大きな霊的体験をした。

亡命から帰って以来、アデルはことある度に堅信の秘跡を受ける望みを両親に打ち明けていた(63)。しかし、それには大きな障害が横たわっていた。アジャンのロッテガロンヌの司教は革命時に宣誓を行った(離教)宣誓派司教であり(64)、教会に復帰したアジャンの司教座は、1802年4月のコンコルダ以降、空席のままになっていたからである(65N35)。

しかし、1802年10月17日、ジャン・ジャクピ(JEAN JACOUPY)がアジャンの新司教として着座した(66)。1761年生まれの司教は革命勃発のころ聖職につき、離教をうながす宣誓を拒否して、革命の間は、英国に身を寄せていた。ひょっとして、当時、男爵は、英国でジャクピ師に会う機会があったのかも知れない。しかし、それを裏付ける証拠はない(67)。

師がナポレオンによって司教の座に上げられた行きさつは、一連の偶然的なできごとの結果と云うことができる(68)。後日、皇帝ナポレオンが、「朕は将軍を作るよりも、司教を作ることに秀でている」(69)と語ったと言われているが、それは、このジャクピ司教について述べられたものであると言われている。年若く(この頃、司教は43才であった)エネルギイに満ちた司教は、必ずしも才能に恵まれてはいなかったが、良き常識の持ち主であり、如才なく行動し、決して目的から身をそらすことはなかった(70)。

ジャクピ司教は、着座とともに直ちに教区の復興に着手し、過去10年間放置されていた司牧の充実に精力を費やした。中でも、数多くの人たちが待ち望んでいた堅信の秘跡を授けることに尽力した。10年を越える司教不在の時代をへて、やっと合法的な司教を持つことができたのである。司教は早速スケジュールを作成した。そして、秘跡を受ける準備のできた信徒の中で、司教のプライベイト・チャペルに来ることのできる人には、堅信の秘跡を授ける用意がある、と発表した(71)。

良き時代には、カテドラルの荘厳な儀式をもって堅信の秘跡を授けたものである。しかし、中世風の堂々とした風格をもつ聖ステファノ司教座聖堂は(72)は、革命政府に差し押さえられ、1799年に売却された。その後これは解体され、一部の石材は町の劇場の建材として用いられ、他の一部は、ガロンヌ川のグラヴィエ島(GRAVIER)と町の本体を境とする堀を埋める際に、その舗装材として使用された(73)。残されたのはカテドラルの本体と正面だけで、革命の残酷さを無言の内に物語っていた。

1808年、ナポレオンがアジャンを訪問したが、その時、この廃虚を見た皇帝はジャクピ司教に向かって、こう云ったと伝えられている。

「司教さん、これではまるでヴァンダル人の国のようではありませんか!」(74)。

宣誓派の司教コンスタン(CONSTANT)(75)は、3世紀に殉教したアジャンの聖人(76)カプレ(CAPRAIS)(77)に奉献された大聖堂(COLLEGIAL CHURCH)を司教座聖堂として使用していた。12世紀に建てられたこの聖堂は1791年に政府によって閉鎖され、倉庫として使用された。のち、1796年に再び教会として使用されたが、間もなくこの教会は、アジャンの司教座聖堂になった。それは、聖ステファノ聖堂の跡地が他の目的に使用されることになったからである(78N36)。

堅信の秘跡に関する司教の通達を入手した男爵夫人は、早速、アデルもこの招きに応じるように提案した(79)。13才半ばに成長していたアデルは、この提案を喜んで受けいれた。ただ、十分な準備もなく秘跡にのぞんだ初聖体のときとはちがい、今度は十分な準備をしてから秘跡に近づきたいと希望した。そしてアデルは、アジャンのカルメル会で数週間の黙想をする許可を申しでたのである。思いもよらぬアデルの要求に男爵夫人は家族全員の賛成を得ることはできなかったが、アデルの望をかなえることにした(80)。

1628年以来、アジャンにはカルメル会修道院があった(81)。1792年、革命によって、そこにいた6人の修道女は離散し、院長はスペインのサラゴッサに亡命した。家庭に帰った修道女もいたが、弾圧の時代をアジャンに残り、秘密裏に修道生活を送っているものもいた。広大な修道院の建物と敷地は、今ではデパルトマンの本部として使用されている。これは、のちに学校として使用されることになる(82N37)。

信仰の自由が与えられると、修道生活の自由はまだ認められていなかったが、かつての修道女が幾人か集まり、アジャンに居を構えた。こうして、教会や政府の承認を得ることなしに、修道生活を再現させたのである。アデルが黙想に行きたいと申し出たのはこの修道院のことである。おそらく、1802年のクリスマスの後のことであったろうと思われる。

6週間のあいだアデルは長いあいだ待ちこがれていた修道生活を体験することができた(83)。この修道院では、囲壁(クロイスター)の規則を除いては、他の全てのカルメル会の戒律が忠実に守られていた。共同の祈りがあり、生活の規則があり、仕事と黙想の時間があった。ここでアデルは、祈りの生活の深い意味を悟り、ますます深くみ主のみ手に身を捧げる望みを増大させた。そして、最終的にカルメル会に入る日が来るまでは、熱心に心の準備をする決意を固めた。

ついに堅信の日がやってきた。それは1803年2月6日、教会暦では6旬節の主日に当たる(公式には、1805年まで「共和国の暦」が使われていた(84))。アデルはキリスト教の成人式に匹敵するこの堅信の秘跡を受けるために、他の人たちと一緒に司教館のチャペルに集まった(85)。

この秘跡を受けたとき、アデルの心は聖霊に満たされ、深く感動した。そして、み主にすべてを奉献するよう、こころの奥深くに、み主の招きを感じ取った。霊生日記にかの女は次のように記している。

「1803年2月6日、6旬節の主日、午前9時30分、堅信の秘跡を受けて、次のような決心をたてた。我意をすべて捨てさること。怒りを完全に抑えること。自尊心を完全に放棄すること。人間的なすべての尊厳を捨てさること」。

短かいが、すべてを包括するこのプログラムは、その後のアデルの人生において、かの女の勇気と寛大さを試みることになる(86)。

この日はアデルにとって非常に意義深い日であった。それは、この日にアデルが秘跡を受けたからであり、また、この日以来、毎年この日を祈りの内に過ごすようになったからでもある。しかも、この日がアデルにとって意義深いものになったもう一つの理由があった。それは、この日、アデルに全く新しい人生の道が示されたことである。この新しい道は全く予想だにしないものであって、今までアデルが考えていたカルメル会への召命を補完すると同時に、緊張関係におくものでもあった。

堅信の秘跡が終わると、司教は授堅者とその家族を朝食に招いた。招かれた人たちの中には、トランケレオンの人びとと、亡命以前から友人としてつき合っていたジャン・バプティスト・ディシェ氏の家族がいた。アジャンの刑事法廷で治安判事を勤めていたディシェ氏は、かつてトランケレオン家が政府によって押収された二カ所の所有地を、1796年、代理委任権を行使して男爵夫人の手に買い戻してくれたことがある。

ディシェ家には5人の娘がいた。この日は、その中の二人が父親に伴われて朝食に出席していた。一人はアデルとほぼ同年のアガタ(AGATHE)、もう一人は4才年上のマリ・テレーズ・フォア(MARIE-THERESE-FOY)であった(87)。この二人も、この日、堅信の秘跡を受けたのだ。マリ・テレーズが初聖体を受けたのは1800年5月4日のことで(88)、それはアデルの初聖体に先駆けること一年足らずであった。かの女は授堅に際して、ヴァロアの聖人ジャンヌの名をもらった。祝日は2月4日で、ヴァロア地方の多くの人びとから慕われている聖者である。この日以来、マリ・テレーズは、ジャンヌと呼ばれることになった。しかしかの女はディシェ家の長女であったため、ディシェレットとも呼ばれている(89)。

朝食では、アデルとジャンヌは隣同志の席をとった。おそらくこの二人は、それ以前に会ったことはなかった(90N38)と思われる。しかし、まるで旧知の間柄でもあるかのように会話が弾んだ(91)。14才に成ろうとするアデルと、18才を少し上回ったジャンヌは、この時、お互いの間に共通するものを認め、強い友情を感じあった。

この友情は、アデルが死ぬまで持続されることになる。アデルの最も親密な友であり、パートナーであり、腹心の友となったジャンヌは、アデルの理想をだれよりも良く理解してくれた。そして、死の床にあるアデルを慰め励ましてくれたのも、このジャンヌであった(92)。

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