◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第4章 1797年−1801年 

スペインとポルトガルでの亡命生活
サン・セバスティアン/初聖体/ 帰国



急いで馬車に子供たちを乗せた男爵夫人は、時を移さず出発した。
時にアデルは8才と4カ月、シャルルは6才と数カ月であった。

二人の子供は、自分たちの身の周りになにか予期せぬ緊急事態が起こったこと、そして、「遠く離れた」よその国スペインへ旅立たねばならぬこと、この二つのことは理解できたにちがいない。子供たちも母親といっしょになって興奮し、心配した。しかし、このような事態が自分たちにとって何を意味しているのか、なぜ起こったのか、そして、どのような結果をもたらすのかを理解することはできなかったと思われる。ただ子供たちは母親と一緒にいることで安心し、たとえシャトーの人たちに会えなくても、母親からだけは離れようとしなかった。

目的地と道順を詮索している余裕はなかった。国を出る最短距離はスペインの国境であり、一刻も早くこの国境線を越えねばならなかった。

だが、どれほど急いでいるとは云え、いきなりピレネ山脈を越えて、スペインに入ることはできなかった。フランスとスペインの国境に横たわるピレネ山脈(約3、000メートル)は、フランス・アルプス(およそ4、500メートル)ほどではないとしても、極めて険しいものである。渓谷は深く、峰は高い。だから、この山脈を越えるにはどこを通るにしても高く険しい山道を通らねばならなかった。実際、フランスから眺めたピレネは、まるで平地に突き刺した白壁のように見える(1)。

旅人は、遠回りであると知りながらも、先ずピレネの中で比較的低い山合いを縫って南に下り、そこから西に向かってポー(PAU)へ向かう。そこから更に西に進み、急流に洗われてできた幾つもの渓谷を越えて、ビスケイ湾の沿岸まで来る。そして、港町ベイヨンヌ(BAYONNE)を通って国境沿いの町イルン・ヘンデイ(IRUN-HENDAYE)を経て南へ進み、フランスとスペインの国境を渡る。男爵夫人はこの道順を通れば期限が切れる前に安全な場所へ逃れることができると考えた。

激しい性格を持ったアデルは、アジャンを離れるとき馬車の窓から首を出して叫んだ。「ひどい人たちだ。わたしたちを殺そうとしているのね!」

母親は、このような言動がかえって事態を悪くするとアデルを諭し、かの女の興奮を鎮めた(2)。通り過ぎる町や村では罵倒を浴びせられ、時には泥や石を投げらることさえあった。土壇場になって命からがらフランスを落ちて行く貴族をみた民衆の憎しみが、このような形で表されたのであろう(3)。

アジャンからポーまでの約180キロの道のりを、文字通り走るように通り過ぎた男爵夫人の馬車は、馬を取り替える以外には休んでいる暇はなかった。9月30日、土曜日、ポーに着いた(4N23)。ロッテガロンヌの県外に出ねばならない期限ぎりぎりのことである。県境を越えさえすれば、後は国境近くのベイヨンヌまでゆっくりと旅することができる。10月3日までに国外に出なければならないのだ(5)。

男爵夫人の国外脱出はまさに追いつめられた逃避行そのものであった。だから、他の亡命者のように、入国を容易にするためにスペイン在住の貴族や友人への紹介状を手に入れる暇さえなかったのである(6)。しかしながら、幸いなことに、ポーの町で遭遇した一人の労働者が、困惑する男爵夫人に同情して、トロサの修道院にいる従兄弟の修道士宛に一通の紹介状を認めてくれた(7)。

ポーでいくらかの余裕を持った男爵夫人は、故郷に残してきた用事を片付けることができた。しかし、やがてバス・ピレネ県(Department of Basses-Pyrenees)に滞在できる期限も終わりに近づき、一行は再び旅路についた。そして、120キロ先にある国境を越えたのである。

生命の危険は去った。しかし、かれらには国もなく、家もなく、友もなく、財産もなかった。いまは男爵と同じ亡命の境遇にありながら、皮肉にも亡命中の夫と離ればなれに住まねばならなかった。しかも、男爵のように境遇を共にした知人や親類は、一人も身の周りに居なかったのである。

身に危険を感じながら、しかも、時間に追われ、十分な支度もないままに、舗装もされていない300キロの田舎道を旅することは決して容易なことではなかった。しかも、警官や兵士の姿を見る度に恐れを抱き、遅れや予期せぬ事態に見舞われる不安の中での旅である。幼い二人の子供を連れて亡命する夫人の心は、想像に絶するものがあったと思われる。

やっとの思いで国境を越えた三人は、安堵の胸をなで下ろした。もう慌てる必要はない。道すがら休息をとることもできたし、静かに景色を眺めることもできた。一通の「紹介状」を頼りに一行は国境から40キロほど離れたトロサに向かい(8N24)、そこでコルドリエ・フランシスコ会修道院の門を叩いた(9)。

従兄弟の手紙を見た修道士は、とりあえず仮の宿を探し、いろいろと面倒を見てくれた。しかし、身の周りには、頼りになる人は一人もいなかった。二人の子供を連れ、夫もなく、男性の保護者さえも連れずに旅をしている女性の姿を見れば、だれしも浮浪者(10)か娼婦と考えてしまう。態度と身なりから、貴族と思わせる気品があったとしても、人びとの最初の対応は決して快いものではなかった(11)。

フランス革命が進展し、国家(la Nation)の敵と見なされた貴族階級や聖職者、政治的反動分子などにたいする弾圧が次々と進む中で、フランスの国境近くにあるスペインの町トロサは格好の逃れ場となった。しかし、トロサは小さな町である。みるみる飽和状態に陥ってしまった。

一般にスペインのカトリック信徒は、苦境にあえぐ亡命者、特に司祭や修道者には同情的であった(12)。しかし、このトロサに限らず、国境近くの町々は、どこも亡命者で一杯になり、これ以上面倒を見切れない状態に陥っていた。しかも、このように国境近くの町や村が亡命者で満ち溢れていても、それでパリ政府の強硬政策が緩和されるわけでもなかった。

やがてスペイン国王は、フランスから流れてきた聖職者たちに、スペインの更に奥へ入るように命じた。同じような命令が亡命貴族や王制派にも下された。時に、1794年8月、戦いに勝ち誇ったフランス軍が侵入してきた時のことであった(13)。しかし、男爵夫人が国境付近に到着した頃には、1797年の革命で新しく国を追われた人たちが次々と入国し、地方当局や地元住民の負担は増大するばかりであった。従って、もう一組の新しい亡命家族が到着したとしても、人びとの心にはその面倒をみるだけの余裕は残されていなかった。

しかし、幸いなことに、トロサには夫人が以前から親しくつき合っていた亡命将校が住んでいた(14)。この将校は、夫人の親戚が住んでいるネラックの出身であった。夫人の苦境を伝え聞いたこの将校は男爵夫人を探しだし、同郷の亡命フランス人を数多く紹介してくれた。言語や習慣、食物や気候の違いにも、徐々に適応しはじめると、生活も少しづつ落ち着いてきた。中でも男爵夫人にとって幸いしたのは、英国にいる夫と自由に文通ができたことである(15)。

フランスとの文通は当局によって差し押さえられ、検閲された(16)。しかし、スペインと英国間の文通は正常であった。それは、この両国が同盟を結んでフランスに敵対していたからである。もちろん、英国からスペインやポルトガルに行き来する船舶は常に攻撃の危険に曝されていたが、実際に攻撃されることは滅多になかった。

この亡命から受けたもう一つの恩恵は、スペインでは信教の自由が認められていたことである。警官やスパイの目を心配する事なく礼拝行為や祈りの集会に参列することができた(17)。フランス人にとって、このように自由に礼拝行為を行うことができるのは数年ぶりのことである。朝、昼、晩、お告げの鐘が鳴り響くと人びとは立ち止まって祈りを捧げた。このような地元の人たちの姿は、男爵夫人一家にとって目新しいことであると同時に教訓的でもあった。同じように目新しく教訓的であったのは、窓に幕も引かず、戸棚の後ろに隠れることもなく、おっぴらに家庭に集まってロザリオを唱えたり信心業をすることができたことである。とりわけ幼い子供たちにとって大きな驚きは、自国では見たこともない宗教儀式や行列が、教会の暦に従って、堂々と公衆の面前で行われていたことである。

やがて冬が来た。英国の男爵とは文通ができたけれども、トランケレオンからは何の音沙汰もなかった。入って来るのは噂だけである。トロサの冬は、湿度も高く、寒さも厳しかった。おそらく、トランケレオンよりも厳しかったに違いない(18)。徐々に言葉や習慣に慣れ、食事や衣服にも慣れてきた。亡命者のリストから自分の名前が抹消されさえすれば、9月の法令に拘束されることなく、子供たちを連れて祖国に帰ることができるのだ。男爵夫人はなんとかして自分の名前を亡命者リストから抹消しようと努力した。しかし、すべての努力は徒労に終わった。

ポーでの滞在期間中に男爵夫人は、自分に代わって問題解決にあたる有能な人物を代理人として立てるために公証人役場で文書を作成する余裕をもつことができた(19)。その時、男爵夫人は、トランケレオンで家族の面倒を見てくれている男爵の妹カタリン・アンヌを自分の代理者として全権を委託した。

委託を受けたカタリン・アンヌは直ちに行動を起こし、ネラックとフガロール当局から、男爵夫人が1979年9月の法令成立以前に国外に出たことがないことを立証する居住証明書を取り寄せた。しかし、残念なことに、この文書はパリに送られて、同様の法手続きをとっていた男爵夫人の伯父アントワン・ペイロンネンクのファイルの中にしまい込まれてしまった。

伯父にはフランス国内で妻が申請した特赦が下り、1798年の4月には亡命者のリストから名前が抹消された。しかし、その同じファイルに入っていたはずの男爵夫人の文書に関しては何の結論も下されないまま放置されたのである(20)。

1797年の物憂い日々は、こうして希望と失意の繰り返しの中で過ぎて行き、亡命生活もだんだんと日常化していった。

さて、その間、政治情勢は新たな局面を迎えつつあった。反聖職者派の大臣やパリからの圧力が増大すると、スペイン国王カルロス4世は自国に逃れているフランス人亡命者にたいして少しづつ同情心を失い始めていった。事実、亡命者の中にはフランス国境にあって革命政府打倒の作戦を行うものも出始めていたのだ(21)。

1797年10月、新しく任命されたフランス大使がマドリッドに着任するや、かれは聖職者を除くすべてのフランス人亡命者をスペイン国外へ追放する権利を国王に要請し、これが受託された(22)。そこで先ず手掛けたのが、旅行者を含むすべてのフランス人に、その名前を2週間以内に最寄りのフランス領事館へ届けさせることであった。

1798年3月27日に出されたこの条例は結果的に「国家(LA NATION)の敵と見なされる容疑者たち」のリスト(23)をフランス政府に提供することになったのである。これに続いてスペイン政府は、聖職者を除く全てのフランス人亡命者に国内撤去を命じる条例を出し、もしこれに従わない場合は強制的にマジョルカ島またはカナリア諸島へ追放することを決定した(24)。

これにより、リストから名前を外してもらうことに失敗した男爵夫人は、今では公式に亡命者(エミグレ)として登録されてしまい、従って、スペイン政府のこの新たな条例にも服さねばならないことになった(25)。英国にいる男爵に合流するのはリスクが大きすぎた。フランスの軍艦が聖職者や貴族を捜索するために近海に出没していたからである。

マジョルカ島やカナリア島へは行きたくなかった。さりとてそのままスペインに留まることもできなかった。しかたなく、男爵夫人は、フランスに近いポルトガルへ亡命することにした。そうすれば、時期が来ればフランスに帰国することも容易であり、かつ、英国からもさほど遠く離れることにはならないと考えたからである(26)。

子供を連れた男爵夫人は、乗合馬車を使ったり、らばの背中に揺られて、険しい山道をゆっくりと西に向い、次いで南に方向を変えて、スペイン平原を進んだ。ポルトガルの国境沿いにある町、ザモラ(ZAMORA)まで、500キロ近くも旅をしたであろうか。しかし、そこでまた新たな困難が待ち受けていたのである

フランス人亡命者で国内が満ち溢れるのを恐れたポルトガル国王は、国境を封鎖したのだ(27)。一家はついに行くところを失ってしまった。

ところが、はからずも、ザモラについた男爵夫人は、そこで男爵からの手紙を受け取った(28)。男爵夫人からの手紙で、一家がポルトガルに向かうことを知った男爵は、ロンドンでの縁故を通じて夫人に助けの手をのべたのだ。男爵は英国駐在のポルトガル大使に依頼してリスボンの首相に推薦状を送ってもらうように依頼し、夫人とその側近をポルトガル国内の国境近くにある町ブラガンサ(BRAGANCA)に受け入れ、丁重にもてなしてくれるように手配した。夫人が受け取った男爵からの手紙には、このことが記されており、ポルトガルに入国するための手続きについての説明も付け加えられていた。

しかし、混乱を極めた世の中のことである。この手紙がフランス人の手に落ちて傍受されることを恐れた男爵は、きわめて注意深く、かつ、慎重な言い回しで手紙をしたためていた。そのため、男爵の手紙の内容はきわめて曖昧なものとなっており、これを読んだ夫人も、また、夫人の相談役をしていた司祭も、その内容を全く反対の意味にとってしまった。つまり、男爵の試みは失敗に終わり、ポルトガルには入国できないと解釈したのである。

手紙の内容とその結末に動転した男爵夫人は、思わず床に膝まずき、聖霊の光を仰ぎ求めた。祈り終わって立ち上がった夫人は、震える手で再び手紙を取り上げて読み始めた。ところがどうしたことか、今度は、全く反対の意味が読み取れたのである。男爵の試みは成功した、だからポルトガルを目指して旅を続けるように、と伝えているのである。

夫人を助けていた司祭も手紙を読みなおした。するとかれも同じように、今度は夫人と同じ意味を読み取った。なぜ最初に読んだとき、二人は読み違えてしまったのだろ。二人は理解できなかった。

ことの成行きに心を強くした男爵夫人は、家族を連れてザモラを離れ、国境線に到達した。時に、1798年の4月末日のことであった。手続きを完了し、一家はブラガンサに入った。しかし国境沿いのこの町は混雑を極め、家賃は高騰し、フランスの亡命聖職者さえも援助の手を差し伸べることはできなかった(29)。ところがここで意外なことが起こった。町の有力な貴族の一人が、男爵夫人一家に迎えの馬車を差し向け、家具付きの家を提供したのである。これは、夫人とその子供たちのために、わざわざ準備されたものであった。しかも一家は丁重にもてなされ、とりあえず必要なものはすべて調えられた。この亡命家族が自国にとって大切な賓客であるとの通達が、予め首相から送られていたからである(30)。

リスボン当局から特別の保護を受けていることを知った地元の貴族たちは、このフランス人亡命家族を殊のほか親切にもてなした(31)。晩餐会への招待はあとを絶たず、家庭に招き、ミサや郷土祭りに招待し、遠足やピクニックに招待した。一家の生活が落ち着くまでは、外出のたびに馬車を用意し、必要なものは全て手配してくれた。トロサからブラガンサへの苦しい旅を経験した男爵夫人にとって、これは大変な境遇の変化であった。こうして一家は、新しい土地で、今までよりも居心地の良い生活環境に身を置くことができたのである。

ポルトガルから送る男爵への通信は、思いの外スムースに行われた。ブラガンサとロンドン間の通信はリスボン経由で自由に行うことができたからである。ブラガンサに身を落ち着けてから三ヶ月を経たその年の7月のこと、夫人と子供はついに男爵に再会することができた(32)。男爵にとって、その息子シャルルの顔を見るのはこれが初めてであった。時にシャルルは6才、アデルは9才であった。アデルにとって、父親との再会は7年ぶりのことであった。

スペインを夾んでパリから遠く離れたポルトガルでは、フランス政府の嫌がらせも遠のいた。フランスに隣接するスペインに住んでいるよりは、ある意味で政治的に安全な状態にあったと云える。ポルトガル国王による亡命者国外追放令も、発布後5カ月もすると死文化し、効力を失ってしまった(33)。こうして、男爵一家がポルトガルに踏みとどまることができたおかげで、それはかれらに有利な結果をもたらすことになった。人びとからは大切に扱われ、貴族階級の間に多くの友人を作ることができた。首相の影響力を持つ客人として尊敬され、丁重に取り扱われた。男爵がロンドンに残してきた基金からお金を引き落とすこともできた(34)。ロンドンには、帰国の日を夢みつつ待機している親族や友人がいたのである。

この頃になると、革命による過激な行動が必ずしもフランス人の期待と願望を反映するものでないことが表面化しはじめ、より穏健な政策に転換するかに見受けられた。

こうした状態の中で、向かう2年間の生活は、平穏の内に過ぎ去った(35)。アデルが10才になる誕生日の五日前、1799年6月5日、第三子デジレが誕生した。生後一週間目にデジレは、ブラガンサの司教座聖堂で、カノンの見守る中、ジャン・バプティスト・ビグール神父(JEAN-BAPTISTE BIGOULE)の手から洗礼を受けた。ビグール神父は、ロット川(LOT)の沿岸で、フィジャックから西方へ約100キロ離れた所にあるカホール(CAHORS)の主任司祭であった(36)。

洗礼式では、ロンドンに居住する代父ド・マリッド司教の代理としてシャルルがその代理を勤め、トランケレオンに住む叔母サン・ジュリアンを代行してアデルが代母役を勤めた。時に、シャルルは7才と6カ月、アデルは10才であった。

不便な生活を強いられながらも、男爵夫人は子供たちの教育に配慮することを怠らなかった(37)。デシレが生まれた頃、アデルは少女に成長し、母親から受けた教育と躾をしっかりと身に付けていた。亡命生活の2年間はともかく、比較的平穏であったトランケレオンに居た時にも、アデルは急速に精神的な成長を遂げて行った。数々の辛苦とその境遇に順応することを学び、時には死の危険さえも経験したからである。

襲いかかる逆境、物資の不足、絶望的な事態、先知れぬ不安。このような脅威におびやかされながらも、けなげに生きて行く母親の姿は、アデルの心に神にたいする信仰を刻み込み、神への信頼を強めていった。

深くかつ素朴な信仰を持っていた男爵夫人は、その人生の数々の場面で神の摂理の手を感じ取っていた。アジャンで亡命者のリストから名前を削除すべく奔走しようと決意したこと、慌ただしく国外に脱出した時に必要なものを提供してくれた人びと、ポーで援助の手を差し伸べてくれた人びと、死線を越えようと必死なって逃げたのちに安全なスペインへ逃れ着くことができたこと、トロサで偶然に知人に会えたこと、夫の手紙がポルトガル国境で待ち受けていたこと、首相が直々に働きかけて取りなしてくれたことなど、これら一連のできごとの中に、夫人は神の摂理を読み取っていたのである(38)。この純粋な夫人の信仰心はアデルに伝わり、生涯を通してアデルの生活の最も顕著な特徴として培われることになった。

アデルが母親から学びとったのはそれだけではなかった。他人をおもんばかる夫人の気持ち、スペインやポルトガルで誰はばかることなく実行した宗教心、何にもまして神を大切にするこころ、困難と不遇に見舞われながらも勇敢に立ち向かう勇気と決断力、物事に動ぜぬ冷静さ、驚くべきほどの落ち着き。アデルは母親の姿を通して、これら多くのことを学びとった。男爵が書き残しているように、男爵夫人はまさに無類の婦人であったのだ。

男爵は、同様のことを娘についても証言することができたにちがいない。アデルは母親そっくりに成長していたからである。そして、母親は母親で、娘を信頼し、心の内を分かち会い、困難な場面に遭遇したときは娘に相談するほどにさえなっていた(39)。こうして二人は亡命生活のあいだ、とりわけ男爵が合流するまでは、お互いに切り離すことのできないパートナーに成長していたのである。友人を訪れるときも、母と娘は一緒だった。教会や修道院でフランス人亡命司祭が執り行う典礼に参列するときも、二人は連れ添っていた。

このような時に行われる説教に、アデルは注意深く耳を傾け、それについて母親と意見を交換し、自分の生活にそれを当てはめるように努力した。母と娘は、故郷からニュースがもたらされると、それについて話合い、フランスにおける宗教事情について話し合うのであった。とりわけ二人が心を痛めたのは、1798年1月、教皇ピオ6世がフランスの軍隊によって力ずくでローマから連れ去られ、投獄され、1799年8月、流刑の身でその生涯を終えたことである(40)。

母と娘は、心の内にある考えや気にかかる事柄に関して、お互いに分かち合うことができるようになっていた。トロサにいた当時のことである。アデルは、ある司祭がする説教の中に正説を逸脱するかに思える言葉を感じ取った。公に異議を申し立てるべきか否かについて思い悩んだアデルは、この悩みを率直に母親に打ち明けている。

母親は以前から娘を信念をもつ人間に育てようとしていた。年若いアデルは、印象的な儀式に与ったときなどは、真面目に、かつ、真剣に議論をして賛成意見や反対意見を述べるのであった(41)。教会で説教を聞いたときや、アデルと弟シャルルを前に熱心に語り聞かせる母親の公教要理の説明を聞いているときなどは、それをノートに書き留め、後日これを教科書風に書き改めたり、小論文にまとめたりしている。

アデルが書いた小論分の中に、フランスの教会が直面する困難な状況の中で司教はどのような態度を取るべきかについて書かれたものがある。アデルの書き物に興味を示した何人かの司祭は、教義に関するアデルの考えが非常に真面目で、しかも正当性にかなったものであることに感銘を受けた(42)。

肉体的にも、アデルは美しくチャーミングな乙女に成長し始めていた(43)。母親に似て、アデルは洗練され、優雅で、思いやり深く、絶えず物事に興味を持つ人物としての風貌が備わり、フランス貴族としての伝統をほうふつさせる乙女に育ちつつあった。はやる気持ちを統御することも学び始めた。騒々しく頑固な幼児期から抜け出し、また、ともすれば思慮に欠け、思いやりに欠ける子供時代の習癖から抜け出して、生き生きとした、しかし、自制心のある大人に成ろうとしていた。父親からは遠く離れていながらも母親とは身近に送ったトロサやブラガンサでの亡命生活は、アデルの人格形成に大きな影響を与えたのである(44)。

一方、フランスでは、ナポレオンが巨星のごとく世に現れた。エジプト遠征から凱旋したナポレオンはパリ政権を手中に収め、新憲法を発布すると、自ら共和国の第一執政官の座についた(45)。1799年後半のフランスは、強靭にしてかつ天才的なナポレオンの指導のもとに再建の道を歩み始めた(46)。祖国の情勢が改善に向かったとの朗報に、数多くの亡命者たちは帰国の途についた。

しかし、それ以前にあって、11月、男爵はブラガンサにおいて亡命者のリストから自分の名を削除し、国家の敵対者としての汚名を払拭しようと努力していた。

男爵は、モンバザン(MONTBAZENS)市当局に対して要望書を提出した。モンバザンにいる友人の手を借りようとしたのである。1800年の6月、男爵の提出した請願書は地方当局の手を経てパリの国家治安警察省の上層部に届けられた。しかし、男爵の請願書はそこで差し止められ、拒否された(47)。その間、夫人の請願書も、何の進展もないままに、伯父アントワンのファイルの中で眠っていた。

この頃スペイン政府は、すでにフランス政府のプレッシャーも遠のいたので、亡命者にたいする制約を緩和した。そこで男爵は、新たにフランス政府に働きかける前にスペインに入り、国境にほど近い所に居を構えることにした(48)。

男爵の帰郷日記によれば、一家が旅発ったのは1800年9月12日、金曜日の午後4時頃。一家はスペインのブルゴスから送られて来た馬車に揺られて、フランスの方角、北東に向けて、道を進めた(49)。一家は都合28カ月の間ポルトガルに留まったことになる。

ブラガンサ地方の軍の指導者によってしたためられた推薦状を持った一家は、ポルトガルの町ブラガンサを離れた。この推薦状には、男爵とその夫人ならびに3人の子供(誤って男児二人と女児一人、と記されている)が召使たちと共にブラガンサからスペインのサン・セバスチアンに向けて旅をすること、また、この家族のポルトガルへの入国は合法的なものであったこと、そして、二年間にわたるブラガンサでの滞在期間中の一家の行動は申し分のないものであり、男爵とその家族は常に賢明さを忘れず品位をもって行動したこと、また、宗教心の深さと忠誠な生活態度で周囲の人たちの良い模範になったことが記されていた。そして、サン・セバスチアンの市民がこぞってこの一家を歓迎し、必要とするものを提供してくれるようにと要請していた(50)。

一家は、二年半前に夫人が通ったと殆ど同じ道をたどり、スペインのザモラ(ZAMORA)、バヤドリド(VALLADOLID)、パレンシア(PALENCIA)、ブルゴス(BURGOS)、アラバ(ALAVA)、ギイプツコア(GUIPUZCOA)の諸県を11日かけて通り抜けた。

こうして一家は、9月23日、ビスケイ湾に沿った人口8000人の美しい町サン・セバスチアン(SAN SEBASTIAN) に到着した。ここからは故国までわずか20キロたらず。このサン・セバスチアンに到着した一家を迎えてくれたのは、故国からの嬉しい知らせであった(51)。

サン・セバスチアンに到着して一月ばかりたった頃である。第一執政官ナポレオンは亡命者リストからすべての女性と子供の名前を取り除く法令を発布した。おかげで夫人と子供は、これ以上何の手続きを取ることもなく帰国することができることになった。しかし、男爵はこの恩典から除外されていた。国家(LA NATION)に武器をもって刃向かった男性は亡命者リストに据え置かれたのである。

しかし、男爵をはじめ他の数多くの「人民の敵対者」たちは、この除外令を暫定的なものと考え、いずれは恩赦が与えられるものと期待した(52)。事実、ナポレオン統治下のフランス国家(LA NATION)では、過去10年間に祖国を離れることを余儀なくされた数多くの王制派や反革命派の才能と、経験と、忠誠心を必要としていたのである。

かくして一家は、帰国の予定も立たぬまま、サン・セバスチアンに踏みとどまり、13カ月をここで過ごした。やがて待降節が終わりに近づくと、男爵夫人はクリスマスの大祝日に聖体を拝領をするため、当時の習慣に従って、告白の秘跡を受ける準備をした。アデルは聖体を拝領するわけではなかったが、かの女も告白の秘跡を受ける準備をした。アデルは既に11才も半ばに達していたが、初聖体はまだ受けていなかったのである。

アデルは公教要理をよく理解していたし、聖体と聖体拝領の意味もよくわきまえていた。しかし、革命以前のフランスの習慣によれば、初聖体は12才か13才に成ったときに、荘厳な儀式の中で行われることになっていた。亡命先のスペインやポルトガルでは、幼い子供たちは、特別な儀式もなく初聖体を受けていたのであるが、亡命フランス人たちは祖国の風習をそのまま守り続け、荘厳な儀式なく幼児が初聖体を拝領することはなかった(53)。

さてクリスマス・イーブがやって来た。母親と娘は告白の秘跡を受けるために教会に出かけた(54)。最初に母親が告白をすませた(55N25)。夫人は感謝の祈りを捧げるために、静かな場所に席をとった。続いてアデルが告白場に入った。ところが、しばらくすると告白場から議論を交わす声が聞こえてきた。興奮した口調で真剣に議論している模様である。そしてその声は少しづつ大きくなって行った。やがて告白場から出てきたアデルは狼狽し、目に涙を浮かべて母親のもとに走りより、泣き伏した。まだ準備もできていない自分に、明日聖体を拝領せよと司祭から言われた、と云うのである。

母親は、早速、告解場に行き、スペイン人の聴罪師と相談した。司祭の説明によると、アデルは恩寵に恵まれており精神的にも年齢に似合わず成長している。なぜいまだに初聖体を受けないのか理解できない。また、なぜこれ以上引き延ばそうとするのかも分からない、と云うのであった。とりわけこの司祭が気を悪くしたのは、このできごとの中にフランスのジャンセニスト的な傾向を見て取ったからである。かれは過去10年間、フランス人亡命者を指導し、フランス人司祭とつき合っているうちに、かれらの間にジャンセニスト的な傾向があることを知り、いたくこれを憂慮していたのである(56)。

納得のいくまで司祭と意見を交わした男爵夫人は、涙にくれるアデルと話し合い、一つの妥協案に到達した。それは、まだ十分に準備ができていないとするアデルの気持ちを尊重してクリスマスには聖体を拝領しない、しかし、司祭が主張するように、み主はこのように美しい魂においでになることを殊のほか望んでおられるのだから、今から初聖体の準備を始め、御公現の祝日には聖体を拝領する、と云うものであった。

このような経過をへて、1801年1月6日、アデルはサン・セバスチアンの町にそびえる丘の麓のサンタ・マリア聖堂で初めてご聖体を拝領する恩恵にあずかったのである。この日は、アデルにとって生涯忘れることのできない日であった。この先、アデルはその手紙の中で、秘跡の内におられるみ主を頂くことに関して、かの女なりの深い考え方を、しばしば述べることになるのである(57N26)。

さて、このサンタ・マリア聖堂の丘の上にはカルメル会の修道院がある(58)。この丘からは、果てしなく広がる海原を一望に見下ろすことができる。修道院の静けさの中で讃えるこの神のみ業の美しさは、アデルの心を深くかつ成熟した観想生活へと誘い寄せるものがあった。そのような思いの中で、アデルは以前にも思いを寄せていたカルメル会への召命を、心に感じるのであった。そして、アデルのこの気持ちは、数カ月もする内に、やがて確信となり、フランスへの帰国が決まった頃には、もはや何の躊躇もなく、サン・セバスチアンに踏みとどまって、カルメル会に入会する、と宣言するまでに至ったのである(59)。

さて、こうして一家がサン・セバスチアンに滞在していた頃、男爵はリューマチを煩った。霧の深いロンドンに滞在していたのが災いしたのかも知れない。医者は男爵に、30キロばかり離れたセストナ(CESTONA)で湯治するように言い渡した。

そこで一家は、その年の8月、サン・セバスチアンを離れてセストナへ旅立つことになった。一行は、途中、アズペイチア(AZPEITIA)とよばれる小さな町に立ち寄ったが、その時、イグナチオ・ロヨラの生誕の地を訪問している(60)。そこには素晴らしい聖堂と修道院がたてられていたが、当時、すでにイエズス会士はスペインから追放されており、その聖堂と修道院はプレモントレ会の修道士によって守られ、バスク人の巡礼の地になっていた。

家族の間に語り伝えられたエピソードは、おそらくこの旅の時に起こったのであろう。そのエピソードは次のようなものである。

アデルの家族は、ラバの背に揺られながら、砂ぼこりのする山道を登っていた。夏の山道を登っていた一行は、だれしも極度の喉の渇きを感じていた。ようやく小川にさしかかったときのことである。馬子は、自分が被っていた汚い帽子を脱いで水を汲み、アデルに差しだした。貴族の乙女アデルはなんの躊躇もなくこの帽子を受け取り、馬子の心遣いに感謝して水を飲んだ(61N27)という。

逃亡と亡命生活、そして、それに伴ういろいろの困難がアデルの子供らしい短気をためなおし、庶民の生活を身近なものに感じとり、このような小さな親切をも、敏感に感じとることができる心の持ち主に育て上げてくれたのであろう。

特赦を待ち望む男爵の願いも、亡命者リストからの名前の削除も、いまだにかなえられないままであった。しかし、これにも勝るいま一つの朗報がもたらされた。トランケレオン家を熟知するシャプタル(CHAPTAL)が、新しくフランスの国務大臣(FRENCH MINISTER OF THE INTERIOR)に就任したのである。かれと男爵との間柄は、大臣自身の言葉を借りて云うならば、尊敬と感謝の念で結ばれていた(62)。

シャプタルの要請を受けた国家治安大臣(MINISTER OF INTERNAL POLICE)フーシェ(FOUCHE) は、1801年7月27日、男爵の案件が検討されている間、トランケレオンで警察の監視のもとに身を置くことを条件として、また、他の亡命帰国者と同様にフランスの新政府に忠誠を誓うことを条件として、フランスに帰国することを容認した。こうして、ついに、トランケレオン一家にも帰国の道が開かれたのである。

しかし、新政府に忠誠を誓うことはデリケートな男爵夫人の良心に一抹の不安を残した(63)。新政府の法律にはたくさんの反宗教的な要素が含まれていたからである。このような政府に忠誠を誓うことは許さるべきことなのであろうか。新政府は合法的な政府なのか。男爵夫人はこれらの点について少なくとも二人の教会の権威者に質問状を送って問いただした。一人はサクソニー(SAXONY)へ亡命中のブーローニュ(BOULOGNE)の司教、もう一人は在パリ教皇使節カルジナル・カプラーラ(CAPRARA)であった。

司教はこのような宣誓はしないほうが良いと伝えてきたが、カルジナルは、亡命者リストから名前を削除してもらうよりは、むしろ個人的な恩赦を請願するように努力した方がよいと勧めてきた。それは、帰国亡命者に要求される宣誓よりも、恩赦に伴う宣誓の方がより受け入れ易いものであると考えたからである(64)。そこで男爵は、恩赦の申請が受理されるまでのあいだ警官の監視のもとに身を置くことを条件として、フランスに帰国することになった。

ところで、その間のアデルはどうなっていたのだろうか。まず、アデルが心に抱いていたカルメル会への入会の希望は変わらなかった。従って、かの女はサン・セバスチアンに踏みとどまるつもりでいた。カルメル会への召命を強く確信していたアデルは、フランスに帰るわけにはいかなかったのである。フランスでは、単にカルメル会のみではなく、すべての修道会が禁止されていたからである。

だからカルメル会に入るならフランス国外に留まらなければならない。しかし、アデルはまだ未成年者である。両親の許可が必要であった。母親は娘の召命を大切に取り扱ったが、何と云ってもまだ13才の未成年である。このような決定的な結論を出すにはまだ若すぎると考えた。だから一旦家族と共にフランスへ帰国するようにアデルを説得した。成人した暁に(65N28)、もしそのときまでカルメル会への希望が変わらないでいるならば、そして、その頃までにフランスにカルメル会が再建されていないならば、その時になってサン・セバスチアンへ戻ればよい、と言い聞かせた。年若いアデルはこの結論にいたく失望した。しかし、両親の命令に背くことは許されなかった(66)。

1801年11月4日、水曜日、一家はサン・セバスチアンを出発した。一家の亡命生活はこうして終わりを告げたのである(67)。スペインで受けた人びとの厚意は、かれらの心に深く刻まれた。この時から数えて20年目、すでに男爵は他界した後のことである。スペイン政府の弾圧を逃れて亡命してきたスペイン人を男爵夫人は手厚くもてなしている。かの女は亡命者の一人をわが家に受け入れ、恩赦が出て帰国するまで面倒をみた(68)。

男爵の日記は、帰国の途についた一家の旅を毎日事細かに記録している(69)。道路事情とその印象(当時の道路は一般に悪く、とりわけスペイン国境の道路は悪かった)、街道沿いの田園風景や小さな村などについても描写している。一家はイルン・ヘンデイ(IRUN-HENDAYE)を渡った。その時、一家とその所持品を運ぶためにラバ4頭を雇い、莫大な費用を費やした。国境からポー(PAU)までのあいだに、一家は3日間ベイヨンヌ(BAYONNE)で休息している。したがって、男爵夫人が短期日で駆け抜けた道を、6日間もかけて旅したことになる。

11月11日にポーを発った一家は、その翌日の夜タルブ(TARBES)に着き、そこから懐かしいガロンヌ渓谷に向かって坂道を下りて行った。オーク(AUCH)では男爵の伯父アレクサンドル・ド・バッツ・ド・ミルポア(ALEXANDRE DE BATZ DE MIREPOIX) を訪問した。ミルポアの家長であるこの伯父は86才で、孫がいた。その中の一人、幼いシャルル・フランソワは、後日アデルの妹デジレと結婚することになる(70)。

さらに一行は旅をつづけ、コンドムで一夜を明かした。ここでは以前ドミニコ会の修道女であった男爵の2人の妹に会った。それより一年先、妹のアンヌ・アンジェリック(ANNE-ANGELIQUE)(マドモアゼル・ド・トランケレオン)とアンヌ・シャルロット(ANNE-CHARLOTTE)(マダム・ド・ロルムMADAME DE LORME)は、この土地で少女たちのための小さな学校を設立したのである。後日、この二人に、もう一人の妹マリ・フランソアが合流することになるが、かの女は当時まだトランケレオンに住んでいた(71N29) 。

11月14日、ついに一家はトランケレオンの自宅に到着した(72)。男爵にとって、これは1791年11月から数えてちょうど10年目の帰宅であった。夫人と二人の子供アデルとシャルルにとっては4年目の帰宅であり、デジレにとっては、もちろん、初めてのことである。喜びと涙、そして、愛するシャトーでのトランケレオン一家の再会を確かめ合う抱擁。その喜びは筆舌に尽くしがたいものがあった。しかし、そこには二つの悲しい知らせが待っていた。一つは男爵の母親が他界したことであり、もう一つは領地にたいする所有権の喪失であった。男爵の母親の死は取り返すことのできないできごとであった。しかし、領地にたいする所有権は最終的にもう一度男爵の手に返ることになる。

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