◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第3章 1793年−1797年 

カルメル会への憧れ
猛威をふるう革命 そして 亡命



アデルは、まだ幼かった。だから、身の周辺に起こっていることが何を意味しているのかを理解することはできなかった。しかし、シャトーの中にまで押し寄せてくる不安と憂慮は、肌で感じ取っていたにちがいない(アデルは当時3才半であった)。

国王は処刑され、男爵は亡命し、家も財産も押収されようとしていた。歴史の大きな流れから見れば、欧州の諸王朝はすでにフランスに敵対し始めており、オランダ、スペイン、イギリス、そして、ロシアは、東、北、南からフランスを攻撃すべく大軍を集結していた(1)。

地元では、(1793年)1月、略奪者の手によって、二度にわたってシャトーが包囲された。一度は、17人の暴徒がシャトーの中に押し入り、一夜を明かした。かれらは国民軍に支援されたフガロールの役人に追い払われるまで、シャトーを占拠していた(2)。

町の巷には貼紙が貼られ、いますぐにでもトランケレオンが押収されんばかりの噂が流れ飛んだ(3)。

このような恐怖と不安の中で、トランケレオン家の人びとは、ルイエ家(LHUILLIER)の好意によってアジャンへ行き、そこに身を寄せることになった。しかし、留守中に再び泥棒や無頼漢に侵入されることを恐れたカタリン・アンヌは、シャトーを離れる前に人びとの手を借りてそれまでに持ち出すことのできなかったできるだけ多くの貴重品を敷地内に隠すことにした(4)。

しかし、このような行く先知れぬ状況において、すぐにはシャトーに帰ることができないかも知れないと考えた男爵夫人は、「もし、お母さまがわたくしの主人にお逢いになることがあるならば、そして、もしわたくしが主人に逢うことができない場合には」(5)と前置きして、貴重品を隠した場所を母親に手紙で知らせておいた。それによれば、あるものは敷地内の数カ所に埋められ、あるものは石壁の裏に、あるものは秘密の隠し戸棚に、あるものは古い衣類の裏に縫い込まれていた。

その年の冬(1792ー93)は大禍なく明けた。一家はトランケレオンに帰り、田園地帯では再び平和が訪れたかにみえた。南部地方ではどちらかと云えば保守派が優勢で、地方役人は激変するパリから伝えられる厳格な命令の実施を、意識的に延ばしていた(6)。たとえば、2月と3月の二度にわたって布告されたパリ政府の命令によれば、忌避聖職者を見つけて告発する者には賞金が与えられ、忌避聖職者を発見した市民には24時間以内に告発する義務が課せらる、と云うものがあった。もしその通報を怠ったならば死罪に処せられる、とも述べられていた。しかしながら、ボルドーでは忌避派の司祭はほとんどと云っていいくらい、おっぴらに聖職を遂行していたし、少なくともこの年の初頭までは、役所も市民もかれらを厳しく追求することはなかった(7)。

しかし、フィジャックでは、役人は精力的に活動した。男爵夫人の母親であるペイロンネンク伯爵夫人は世間に名の通った影響力のある貴族と見なされていたために、当局から嫌疑を受け、抜打ちの家宅捜査を受けた。

捜査に当たった検察官は、男爵夫人から送られてきた手紙を発見し、さっそくネラック当局に通報し、ド・トランケレオン家が「国家(LA NATION)の所有である」貴重品を隠匿していると伝達してきた。これらの財産は押収に備えて予め作成された財産目録に登記されていたものであった。

国の法律によれば、いかなる市民も国家に所属する貴重品を売買したり隠匿することは許されていなかった。(今では政府の管轄下におかれている)パリ議会( CONVENTION OF PARIS)が恐怖政治をはじめたころには、このような「犯罪」で告発され革命裁判にかけられること自体が、ほとんどの場合、死刑の宣告を受けるのと同じ意味をもっていた(8N20)。

その同じ週、すなわち4月23日の夕暮れ、ネラック当局の官憲隊はすでにトランケレオンを目指して行進していた。午後7時、シャトーは役人に率いられた国民衛兵の騎兵隊25名と数名の官憲に包囲された。屋敷には非常網がはられ、どの入口にも見張りがつき、家族と召使は全員一つの部屋に閉じ込められて官憲の監視下に置かれた(9)。

フガロールの地方当局が召集され、シャトーとその敷地全域の徹底捜査が決議された。従って、今回の捜査は、たんなる形式的なものではなかった。

カタリン・アンヌと男爵夫人は、家財が必要以上に侵害されることを防ぐため、積極的にこの捜査に協力することにした。二人を案内人に仕立てた警官は、男爵夫人の手紙の写しを手がかりに、文字通り地下室から屋根裏にいたるまで捜索した。手紙に記されたいくつかの場所では、家族がアジャンから帰省した際、隠してあった家財をすでにそこから取り出していたために、何も見つからなかった。カタリン・アンヌは、なにがその場所に隠されていたか、また、いまそれが何処に置かれているかを証言させられた。

最初の日の夜、男爵夫人はやっとのことで役人から許可を取り付け、子どもたちを寝させることができたが、その夜は子供部屋の外にまで監視が置かれた。当時ようやく4才になろうとしていたアデルは、側にいる子守のユルシュールに、なぜこのような騒動が起きているのかと尋ねるのだった。シャトーから財産が持ち出されようとしているのだと説明すると、「それでは、わたくしたちはもうすぐあのかわいそうなヨブのようになるのネ」(10) と叫んだと云われている。

男爵の伯父である年老いたシャルルは別としても、そこに居合わせた全ての婦人と子供にとって、この家宅捜査は大きな衝撃と恐怖を与えることになった。家財隠匿に関わったと見なされた召使たちも例外ではなかった。捜査員によって作成された16ページにわたる財産目録は、当時この家族がどのような家財を所有していたかをつぶさに物語っている(11)。

男爵が館を離れるとき、善後策にと古着の裏地に縫い込んでおいた信用状が発見された。男爵夫人が手紙の中で記した古着の裏地に縫い込まれたとする金額と、実際に発見された金額(12、000リーブル)との間に約18、000リーブルもの相違があることに気付いた捜査官は、その差額を他の場所に隠していないことを誓うように男爵夫人に強要した。しかし、このような状況で誓いを立てることは宗教蔑視につながると判断した夫人は、誓いを立てるよりはむしろその差額を他の財産から差し引いてもらうように希望して、宣誓を拒んだ(12)。

召使の部屋の隠し場所からは、多数の金器や銀器、食卓用の大皿、食卓用の銀器、多数のナイフ、大型の鏡、中国風の模様をあしらった磁器製の皿41枚、その他数々の皿や鉢や盆、チェス・セット一式、黄色のフランス製陶器6ダース、白色のフランス製陶器1ダース、食卓用の塩の容器、家庭用聖堂の銅製ローソク立、黒ガラスのボトル146本、フランス製陶器の白い寝室用便器6個、寝室用洗面台、洗面器・・・などが発見された。これら全てのものが、スプーンからベッドカーテンにいたるまで、60項目に分けてリストされた(13)。

家族が不在の間、数多くの食器類をジョンという召使に依頼して保管してもらっていた。家族が帰省した時、ジョンは預かっていた食器類をすべて家族に返還した。このことに関して捜査官から取調べを受けた男爵夫人は、それらすべては自分の部屋の洋服ダンスの下に隠してあると答えている。「事実、かの女が供述した場所を掘り起こしてみると」、そこから20数個の大型の食卓用銀器、食卓用の皿、コーヒーわかし、ローソク立てなど総重量にして40リーブル相当の銀器類が「発見された」と財産目録に記されている(14)。

この他にも、安全を期して家財を委せられた召使が幾人かいた。たとえばポール・セント・マリの船頭とか、同じくポール・セント・マリのパン屋などがその好例である。その他にも何人かの信用のおける召使が、家財道具の保管を引き受けていた(15)。これらの家財道具は、いまではすべて返却され、敷地内に保管されている、と男爵夫人は証言している(16)。

家財道具がこれらの人びとに委託されていたということは、かれらとトランケレオン家との関係を雄弁に物語るものであり、また、どれほどトランケレオンの人びとが近隣の人びとから信任されていたかを物語っている。かれらは自己の身の安全と生命を賭してまで、トランケレオン家の財産を保管したのである。

男爵夫人の部屋を捜査した係員は、次に家庭用聖堂の捜査に取り掛かった。そこでかれらは、さらに15リーブル相当の銀器を見つけ出した。スープ用のスプーンとティースプーン、フォーク、6セットのディナーセット、コーヒースプーン19個などである(17)。捜索は部屋から部屋へ移り、宝石や真珠(中には「かなり質の悪いもの」もまじっていた)、大きなメダル、信用状を縫いつけた罪な洋服などが発見された(18)。地下室、ぶどう酒貯蔵庫、屋根裏なども召使たちの部屋と同じように注意深く捜査された(19)。

男爵夫人の手紙に記載されていた金額が十分に満たされなかったために、捜査官は各人を尋問し、それぞれいくらずつ隠したか、そしてそれが今どこにあるかを問いただした。カタリン・アンヌは3000リーブルを隠したことを認め、サン・ジュリアン(ST-JULIEN)は1000リーブルを、男爵夫人は5000リーブルを、シャルルは3000リーブルを、男爵の母親は2000リーブルを隠したと認めた。しかしながら、かれらは全員帰宅すると同時にその金を回収し、その大半をそれまでの支出に充当したと説明している(20)。

男爵夫人は、ダイヤモンドで飾られた家族の肖像画のミニアチャー2つを手元に保管する許可を捜査官に願い出た。男爵夫人の誠実さを知っている捜査官たちは、できればその願いをかなえたいと思ったが、かれらには自由裁量の権利は与えられていなかった。かれらに与えられていた命令は明確であった。すべてのものを押収し、請求権を剥奪し、最終的に没収することであったのだ(21)。

最後に捜査官は、家中にあった全てのものを一カ所に集め、リストに集録した。クリスタル製の食卓用栓付き瓶は大型6個と小型11個、クリスタル製の足長グラスは37個、足長リキュール・グラスは11個、それに輸入ものの赤ワイン100本と白ワイン20本があった(22)。このぶどう酒は、年齢と健康を考慮して、シャルルと男爵未亡人に使用が許された。しかし、最終的に没収されるときには、その等価を弁償することが条件として付け加えられた(23)。

この三日間の捜査で見落とされたものは何もなかったと思われる。御者の鞭、馬車の替え車輪、ペンキ、多数のコルクなども財産目録に記入された。事実、三つのトランクにいれられた洋服と個人用のリネン類およびアジャンのルイエ家に預けてあった台所用品1ケース分も含まれていた。この他に、漂白のために出されてまだ返却されていなかった綿のベッド掛けも記載されていた(24)。

当局は、25日までシャトーに踏みとどまった。捜査が終わると、取扱に注意を要するものを一つの部屋に集めて鍵を掛け、封印した。鍵は捜査官が持ち帰った(25)。家族は警官の監視の下におかれ、シャトーの住民とその財産にたいする政府の処遇が決定するまで、自宅に監禁されることになった。トランケレオン家の人びととその召使たちにとって、事態はきわめて憂慮すべき状態に陥ったのである(26)。

政府の決定を待つトランケレオン家の人びとは、当時フランスで起こっていた諸事件を疑惑と狼狽の目で見守っていた。革命勢力はアンシアン・レジームの壊滅を図り、新政府の樹立に奔走した。1793年11月、急進派はグレゴリオ暦を廃して「共和暦」を採用した。ローマ時代以降、西ヨーロッパではユリウス暦が使用されていた。この暦は16世紀にバチカンの学者たちによって改正され、1582年10月4日、教皇グレゴリオ13世によって新暦への切り替えがローマ市全域に公布され、10月15日に実施された。フランスでは、1582年12月にこれを採用したのだった(27)。しかし、フランスの新政府は、このグレゴリオ暦の廃止に踏み切ったのである。それは、ド・バレールの言うように、「今日からわれわれは、フランスに新しい日をしるしたい」からであった(28)。

この新しい「共和暦」は1792年(旧暦)9月22日にさかのぼって用いられることになった(29)。この暦によると一週間は10日間、一カ月は3週間となり、日曜日はなくなった。こうして、キリスト教のすべての伝統的な祝祭日は姿を消した。市民の休日は10日に一日となり、年末に五日(閏年には六日)の「補足日」が付加された(30)。曜日も、時間も、分も、すべてが十進法によって作り変えられた(31)。

フランスの政治体制そのものも一新された。国家は中世封建制度の公爵領、伯爵領、男爵領に代わる行政単位デパルトマン(DEPARTEMENTS)に従って区分され(32N4)、先の王朝による行政区分「アンタンダンス」は姿を消した。その目的はフランスの歴史や集団的な追憶、利益共同体や起源を共有する共同体にまつわるあらゆる「偏見」を払拭することにあった。「フランスのすべては新しくなければならない」と述べられている(33)

運輸制度も刷新された。今までの公的交通機関は、王朝の庇護の元に開発されたものであった。たとえば、ナバール(NAVARRE)のアンリ4世(HENRY IV)が開発した交通網によれば、すでに1577年にはアジャンとボルドーを結ぶ「駅」(STATIONS)のシステムが確立されていた(34)。ルイ14世は、1665年に、パリと諸県を結ぶ運輸網を敷いている(35)。かくして王朝の独占体制は、徐々にフランス全土に広がっていった。この政策は、多くの場合、顕著な進歩を社会にもたらした。例えば1768年当時、パリからボルドーへの旅は13日かかっていたものが、わずか10年たらずのうちに72時間で往来できるようになったのである(36)。

1789年までには、駅長1400人、御者7、000人、馬22、000頭がフランス国土ほとんど全域を網羅する交通網に配置された(37)。しかし多くの場合、この運輸システムは情実や独占権、収賄などで腐敗していた(38)。一つの家族がこの交通網の一部を300年もの間独占していたケースもある(39)。1789年の革命はこの独占状態に終止符を打ったが、代わりに運輸を空白のまま放置する結果ともなった。1793年には、王室と伝統的なしがらみから解放されたより公平な運輸システムの建設に着手している(40)。

すべてのフランス市民が革命運動に好感をもっていたわけではない。貧者にしても同様であった。ある農民は、それまで長年の間耕作してきた農地から追い立てられ、以前にもまして厳しい生活条件を強いられた。商業や貿易も大きな打撃を受け、そのために起こった経済不況は悪化する社会情勢に追い打ちをかけた。概して南部と西部、とりわけボルドーでは、中央政府にたいする抵抗運動が強かった(41)。(1793年)6月、農民は王制派と共に大挙して暴動を起こしている。この反動は独裁的でしかも絶対権をもつ恐ろしい公安委員会の設立(42)に道を開くことになった。70万人の徴兵軍が同盟軍の最鋭兵を敗北に追い込むと(43)、それを契機に、恐怖政治は、虚実の差なく国家の敵と見なされた人びとを容赦なく弾圧したのである(44)。

その間の情報は噂として流れ、召使の口からトランケレオン家の人びとにも伝わった。男爵の親族二人は逮捕され、ギロチン刑を宣告された。ド・バッツの分家ミールポワ家(MIREPOIX)の父子である。しかし、好運にも隣人が書類を手にいれて消却してくれたため、二人は釈放された(45)。キリスト教を冒涜するような反キリスト教的「宗教」儀式が、パリやボルドーなどで行われた(46)。身近では、12月、男爵の二人の妹が住んでいるコンドムで、マリア像やその他の宗教用具が由緒ある聖堂から持ち出され、カトリックの儀式を嘲弄する人びとの前で火あぶりにされた(47)。

1794年2月、政府は国家(LA NATION)の敵対者の財産を没収すると宣言。すべての亡命者と革命勢力に刃向かった者、民衆の安全を脅かし、あるいは脅かすであろうと考えられる者たちの財産が没収の対象となった。没収された財産は、貧乏な民衆に与えられることになっていた(48)。以前行われたようにブルジョワジーに売却するよりも、この方がより「民主的である」と考えられたからである。

かつて国家の財政が窮乏に瀕したとき、教会財産を没収し、ブルジョワジーに売却したことがある(49)。有産階級はアッシニア(ASSIGNATS)とよばれる国債を購入し、その売却された教会領土や財産を買い戻した(50)。トランケレオン家もその領土を没収されることになっていたが、それは、この新しい法律によるものであった。

一方、その間、恐怖政治は猛威をふるった。この年の6月10日から7月27日の間に、パリでは1376人が処刑されている(52)。ボルドーでは、多額の罰金を支払うことによって処刑を免れた金持ちもいたが(53)、その他の者は運命を逃れるすべを知らなかった。

すべての司祭は違反すれば死刑になるとの条件のもとに、フランス国外に追放された。宣誓派の司祭も例外ではなかった(53)。あらゆるキリスト教的礼拝行為は厳重に禁止された。数多くの司祭は命がけで地下に潜り、秘かに集まる信徒のために聖祭を行った(54)。

当時、トランケレオン家の人びとはほとんど文通を行わず、また、知人を訪問することもなかった。それは、一つにはかれらが自宅で軟禁状態になっていたことと、もう一つは、上流社会に横行していたスパイを恐れたからである。このスパイの横行は、1793年9月に発布された「嫌疑の法律」が、市民に「国家の敵」を告発するように呼びかけたことに起因する(55)。

全員の同意によって、家長としての責任はカタリン・アンヌに預けられた(56)。そのため、ある意味で外部から遮断されていたこの期間、男爵夫人は二人の子供の教育に専念することができた。

1794年、アデルは5才、シャルルは2才であった。子供の教育は聖書と宗教美術を中心に行われ、母親が自分の考えに従って実践的な立場から説明を施した。利発なアデルは多くの質問を投げかけ、教わったことをよく憶えた。後日母親が記しているように、アデルは理性を用いる年齢以前に、すでに恩寵を得ていたのである(57)。

政府から追われながら秘密裏に行動していた司祭が、ときどきシャトーを訪れた。そのような時には、こころを許すことのできる人たちのみが集まる中で、司祭でなければ行い得ない秘跡をとりおこなった(58)。

日曜日の礼拝を定期的に行うことはできなかったが、男爵夫人が古いカレンダーに休息と祈りの日のマークを付けた日曜日には、召使たちを含めて家族全員が集まる中で宗教書を読み、実践的で簡潔な黙想を行うのであった(59)。

男爵夫人は、このようにして注意深くアデルに宗教教育を施すと同時に、知的教育を施すことも怠らなかった。6才になるアデルは、読み書きを覚え、算数や歴史、地理の初歩的な知識を身につけた(60)。

アデルは鋭利で豊かな天分に恵まれていたが、我がままで怒りっぽい性格の持ち主であった。自分の考えや意向に沿わぬときは徹底的に抵抗し、泣いて抵抗するか、怒りの激発に訴えた(61)。しかし、この激しいアデルの性格も、母親と二人の叔母の心のこもった辛抱強い教育のおかげで徐々に緩和され、気が静まったときには許しを乞うことを覚えるようになった。

弟に対するアデルの態度は典型的なもので、仲良くしながらも嫉妬を抱き、おとなしく遊んでいるかと思えば喧嘩をすることの繰り返しであった。しかし、弟シャルルが罰を受けたときは、きまってアデルはシャルルをかばい、自分で責任を取ろうとした(62)。

アデルが貧乏人や困った人たちに対する意識を高めたのはこの頃のことで、母親の手本に倣って行動するようになった。政府の行政措置によって資産は凍結され、収入は減り、かつ、不定期なものとなってしまった。しかも、フランス全土を襲った不況はガロンヌ地方にも悪影響を及ぼした。シャトーの召使の多くは解雇を余儀なくされ、家計の出費は高騰した。家計を助けるために男爵夫人は宝石を売り、衣服を手放した。従って、貧者に施そうにも与えるものもなく、貧しい中にも持てるものを分かち合うのが精いっぱいの状態であった(63)。

母親のこの態度はアデルを啓発した。ある時アデルは、母親から新しいドレスを買い与えられたことがある。幼いアデルは喜ぶ代わりにむしろ悲しみ、「このお金を貧乏な人たちに施した方が、どれほどわたしにとって嬉しかったか知れない」と述べている。

1793年も暮れに近づいた頃、当時としては大金であった200フランがパリの大叔母から送られて来た。アデルはこの全額を、寒い冬の間、着るものもなくネラックの監獄に収容されているスペイン人の囚人たちに送って下さい、と母親に頼んでいる(64)。

アデルがカルメル会の修道女になりたいと言い出したのは、この頃のことである。当時のフランスでは、修道女はいなくなり、修道院もなくなっていた。それなのにアデルが修道女になる望みを抱いたのは、なぜであろうか。ひょっとしてアデルは、以前ドミニコ会の修道女であった二人の叔母から、修道生活について語り聞かされていたのかも知れない。あるいは、家族が親しくしていた友人のカルメル会修道女から感化を受けたのかも知れない(65)。

もう一つの可能性は、冬の間家族と共にアジャンで過ごした際、以前カルメル会の修道女であった人たちに会う機会があったから、その影響を受けたとも考えられる。弾圧以前にはアジャンにカルメル会の修道院が存在したのである。アデルはたどたどしい文字で、フランスのカルメル会修院長に宛てて何通かの手紙を出している。人形にカルメル会の修道服を着せたり、修道生活への準備として断食をしたこともあった。その激しい性格から極端な禁欲生活に走ろうとするアデルを均衡のとれた方向へ導き、アデルの長所を助成し育成したのは他でもないアデルの母親であった(66)。

一方、政治的局面はますます混乱を極めた。人びとは公安委員会の過度な行動を批判の目で見るようになり、恐怖政治はロベスピエールの没落とともに終末を告げようとしていた。

1794年7月27日、ロベスピエールはパリで処刑され、悪名高いラコンブはボルドーで処刑された(67)。1795年2月、礼拝の自由が公布され、「聖職者に関する民事基本法(CIVIL CONSTITUTION OF THE CLERGY)」が廃止された(68)。宗教行為は許され、司祭は共和国の法律に服従を誓うことによって公に聖職を遂行することができるようになった。この誓いは、過去の宣誓(CIVIL OATH)と全く関係なく行われた(69)。この時、宣誓派の聖職者の多くは宣誓を取り消して、教会への恭順を誓っている(70)。

1789年6月、ルイ16世の息子で(ルイ17世として)王位継承権を持つフランスの皇太子ルイ・ジョゼフがこの世を去り(71)、イタリアに亡命していた40才になるルイ16世の弟コント・ド・プロバンス(プロバンス伯爵)が王制派の支援を受けて王位を継承した。これが、ルイ18世である(72)。

フランスの革命政府を覆そうとする新しい動きが起こり、英国からの大陸への侵略が試みられた。ルイ16世のもう一人の兄弟コント・ダルトア(アルトア伯爵)の要請を受けた男爵は(73N21)、モアラ卿(LORD MOIRA)の率いる軍隊に陸軍大佐として加わった。

1795年9月、男爵は英国から船出した。しかし、この侵略作戦は失敗に終わった。軍隊は英国に引き上げ、男爵は亡命生活の継続を余儀なくされた。しかし、この作戦における男爵の貢献は王制派と英国政府から高い評価を受け、それが後日、男爵に有利に働くことになる(74)。

同年の10月、パリ議会は再び忌避聖職者にたいする弾圧を行い、追放令を出した(75)。やがて、パリ議会は解散され、執政府がこれに代わった。過度な恐怖政治の時代に比べれば、世の中は比較的に落ち着いてきた。人目を盗んでこっそり帰国する亡命貴族も現れ、故郷のシャトーに突然姿を現す者もいた(76)。

この間、トランケレオン家では、貴重品の隠匿に対する法的追求と、亡命貴族の財産を押収しようとする法的拘束力から、たとえ全面的に逃れることができなくとも、少しでも軽減されるように、懸命な努力が払われた。この運動で主導的な役割を果たしたのはカタリン・アンヌで、かの女を助けたのがフランソワであった。貴重品を隠匿したのは、決して国家(LA NATION)の目をごまかそうとしたのではなく、泥棒や略奪者から守るためであり、従って、違法な行為でなかったことを主張した。男爵の母親からの懇願書、男爵夫人、叔母やフランソワからの懇願書などが接収を遅らせるに一役買った。フガロールの役人とその住民は、こぞってトランケレオン家とその召使たちを擁護し、ネラックの告発からかれらを守ろうとした(77)。

1794年、中央政府の高官がこのケースに関与することになり、すべては彼の裁量に任せられることになった。しかし、事態はその後もはかばかしく進展せず、そのままの状態で更に数カ月が続いたが、やがて政府代表部との折衝も歩み寄りを見せ始め、ネラック地方当局もこれを受け入れるにいたった(78)。自宅監禁は解除され、基金の使用も許された。フガロール当局はトランケレオン家の国家にたいする忠誠心を保証した。事実、いまでは財産を隠匿する「犯罪」は、国家の財産をバンダリズムから守る「市民の義務」とさえ見なされるようになったのである。今までの刑事犯人は愛国者になったのだ! 押収されていた銀器や宝石類の大半は、1796年の7月までに、家族の手に返された(79)。

トランケレオン家の領土を没収の災いから守ろうとする努力も、かなりの成果をおさめていた。全所有者の賛同を得て、カタリン・アンヌが、いままで分割されずに共同所有していたトランケレオン家の全財産を統括して、その義務と権利を代行することになった(80)。かの女が家族全員の所有権を擁護し得たのは、たゆまぬ努力と賢明さによるものであり、巧妙な法的処置と戦略上重要な鍵を握る役人の助けがあったからである。また、ネラックやアジャンに居住する友人たちからの支援もこれに与って大いに力があった。フランス王室海軍の将校として人びとの尊敬をうけていたフランソワの名声と当局にたいする影響力も、大きな力となったことは否み得ない事実である(81)。

1739年、フランソワは、マリ・ギャブリエル・ド・ビルコール(MARIE-GABRIELLE DE VILLECOURT)と結婚し、その翌年、海軍を退役した。フランソワとその妻は共にトランケレオンに居住しており、1796年2月には第一子が誕生した(82)。やがてフランソワは、自分の持ち分に当たる22、000フランとの交換に、ネラックの近隣にあるサン・ジェネ(ST. GENES)を自分の領地とし(84)、家族を連れてそこに移り住んだ。

アデルの弟シャルルは家督として領地の二分の一を相続した。男爵夫人と先代男爵の未亡人は、男爵の四人の姉妹とともに、各々固有の所有権が与えられた。その結果、男爵の固有の財産は領地の四分の一と判断され、これは国家(LA NATION)の所有物として競売にふされることになった(85)。

フランスの南西部は平穏を保ち、1796年の前半には男爵夫人は、当時結婚したばかりの妹を訪問するために、フガロールを離れることができたほどであった。27才になる妹ジャンヌ・ギャブリエルは、同年1月7日、フィジャックにて、非宣誓派司祭を証人として、秘密理にベルトラン・ド・カステラ(BERTRAND DE CASTERAS)と結婚した(86)。

夫のベルトランはムレード(MOUREDE)の人で、トランケレオンからさ程遠く離れていないベトゥリコ(BETRICOT)のシャトーに住んでいた(87) 。男爵夫人と二人の子どもは、このシャトーに新婚夫婦を訪れ、2月14日から3月30日までそこに滞在した(88)。当時、アデルは6才と6カ月、シャルルは4才であった。多難な日々を過ごしていた男爵夫人は、この長期の滞在で、その疲れを休めることができた(89)。

政治状況は極めて平穏な状態が続いており、トランケレオンに帰った男爵夫人は政府に没収されていた二つの不動産を国家(LA NATION)から買い戻すことが出来たほどである(90)。この交渉に当たって、アジャンのディシェ氏がエイジェントとして一役買った(91)。こうして、家族が元の平穏な状態に戻るためには、長い間家を留守にしている男爵の帰国を待つばかりとなった。

翌一年間は、フランス全土がそうであったように、トランケレオン家も極めて平和な生活を送ることができた。それは、中央政府において穏健派が大勢を占めたからである(92)。

1797年の春、男爵夫人の妹三人のうち一人が結婚することになった。男爵婦人はその年の5月、母親と居を共にしていた妹マリ・ポール(MARIE-PAULE)に会うために、二人の子供を連れてはるばるフィジャックまで赴いた(93)。マリ・ポールは、ジャン・バブティスト・フランソワ・ド・テルム(JEAN-BAPTISTE- FRANCOIS DE TERMES)と結婚した(94)。かれは陸軍将校として国王につかえたことのある人物で、自分からすすんで国外に亡命した後、帰国していた。

8月、執政府(DIRECTOIRE)は追放されていた聖職者の帰国を許した(95)。しかし、帰国した王制派や亡命者ならびに聖職者の数が増すにつれ、また、とりわけあちこちの選挙区から穏健派がパリに送り込まれるようになると、急進派の怒りを買うことになった(96)。反動として、親ナポレオン派に後押しされた革命が起き、9月4日、新政権が誕生した(97)。選挙で選ばれていた200人の代議員は無効とされ、その内の50人は国外に追放された。数多くの抑圧的な法律が復活し、9月4日と5日の二日間で議会を通過した新しい法令は、帰国した王制派の抱負を無惨にも踏みにじる結果となった(98N22) 。

この革命によって直接的な影響を受けたのは、新妻マリ・ポールの夫であった。かれは再度亡命を余儀なくされた(99)。フランス政府のこの急変は、男爵夫人自身にも悪影響をもたらした。

男爵夫人はその夏フィッジャックに留まっており、革命の知らせがこの地方にもたらされた頃には、そろそろトランケレオンへ帰ろうとしている時だった。かの女は、9月5日、パリ政府の有力派によって、最初の法案が可決されたことを知っていた。それによれば、過去において亡命し帰国したと考えられる者は再びフランスから離れることが命じられており、この法令が地方当局によって布告されてから24時間以内にその土地を、そして、2週間以内にフランスの国境を、出なければならないことになっていた(100)。しかし、男爵夫人は一度も国土を離れたことがなく、従ってこの法律がかの女に適用されることはないと考えていたし(101)、また当然のことながら、一度もフランスに帰国したことのない男爵にも適用されることはない、と考えていた。従ってこの法律は、男爵夫人とその直接の家族たちに何ら影響をおよぼすものではないと考えていたのである。

しかし、このことに関してかの女が疑念を持ち始めたのは、父方の伯父アントワン・ド・ペイロンネンク(ANTOINE DE PEYRONNENNCQ)がフィジャックを訪れた時のことであった(102)。スペインに逃れようとしていた伯父は、自分の義理の妹にあたる伯爵夫人に別れを告げようとフィジャックを訪れたのである。

実は、この伯父は、間違って亡命者のリストの中に記載されていたために、地方当局に抗議してそのリストから名前を削除してもらった。しかし、地方当局を信頼しない中央政府は、この種の訂正をすべて無効にした(103)。その結果、伯父はこの決議の犠牲者となった。パリの判断に従えば、アントアンは帰国亡命者であり、2週間以内に国外に出なければならなかったのである。

これを聞いた男爵夫人は、当然のことながら、自分自身の立場についても疑惑の念を持ち始めた。
1793年10月、男爵夫人が母親宛に出した手紙がもとで警官からトランケレオンのシャトーが捜索された時、母親の居住地カンタル(CANTAL)地方当局の亡命者リストには、男爵夫人の名前が載せられていた。この記載ミスを知った男爵夫人は自分が国外に一度も脱出したことがない事実をよく知っているフガロール当局に申し出て、リストから名前を抹消してもらうように要請した。フガロールの町役場が発行した住民証明書を見たカンタル当局は(1794年1月)、事実上、男爵夫人の名前をリストから削除した(104)。

悲しみと恐れを深める中で、男爵夫人はこのような地方当局による訂正がいまではすべて無効とされていることを知ると同時に、伯父自身がリストに男爵夫人の名前を見たとも聞き知らされた(105)。こうして男爵夫人は、帰国亡命者にたいする新しい法律に従うことを余儀なくされた。

急遽、二人の子供と身の回りの物を取りまとめ、急いで帰省した。その帰り道、男爵夫人は本籍地ロッテガロンヌ(LOT-ET-GARONNE)の県庁があるアジャンを通過した。さっそく男爵夫人は役所に立ち寄り、リストに自分の名前が記載されているかどうかを確かめることにした。係の役人はリストを調べ、男爵夫人の名は記載されていない、従って、法令に触れる心配はない、と確認してくれた(106)。

いくぶん落ち着きを取り戻した男爵夫人は、二人の子供を連れて帰省の道を急いだ。時に9月26日、フィッジャックの母親のもとで夏を過ごした年のことである。

しかしながら、かの女が帰省して身を落ち着ける暇もなく、その日の内に、またもや自分の名前がリストに記載されているという噂を耳にした。文字通り、男爵夫人にとっては生死の境目である。この法に従わなければ自動的に逮捕され、裁判所ではなく陸軍本部に出頭せねばならないことになっていた。その出頭の目的は、被告を確認することであり、確認するや、24時間以内に銃殺されることになっていた。上告する余地は全く残されていなかったのである(107)。だから、噂の真偽を確認することは、男爵夫人にとって最重要課題であった。

翌9月28日、木曜日、二人の子供を連れた男爵夫人はポール・セント・マリの町を経由してアジャンに行き、今度は自分の目でリストを確認した。リストには、確かに、カンタル県ペイロンネンク・トランケレオン夫人と自分の名前が記されていた。二日前に調べてくれた役人は、自分の見落としを認め、語尾が「Q]で終わるペイロンネンク(PEYRONNENCQ)ではなく「C]で終わるペイロンネンク(PEYRONNENC)と勘違いしていたのだと言い訳をした(108)。ロッテガロンヌに滞在できる猶予期間はあと数時間で終わろうとしている。男爵夫人は直ちにパスポートを手に入れると共に、間違った情報を与えられていたことを説明する地方当局の文書を手に入れた(109)。

男爵夫人には、一刻の猶予も残されていなかった。アジャンから数時間離れたシャトーに帰る暇はなかった。子供たちをどうすればよいのだろう。男爵夫人は子供たちに、なぜいま逃げなければならないのかを説明し、シャトーに帰っておばあちゃんや叔母さんたちと一緒に過ごすか、それとも、お母さんと一緒に逃げるか、そのどちらを選ぶかと問いかけた。二人の子供は、なんの躊躇もなく母親と行動を共にすると答えた(110)。

アジャンの友人(おそらくルイエ家か、ディシェ家か、リサン家(RISSAN)の人であったと思われる)が馬車を用意し、旅に必要なものを取りまとめてくれた。トランケレオンの家族や友人と別れの言葉を交わすひまもなく、二人の子供を連れた男爵夫人は一人の召使に伴われてスペインを目指して落ちて行った(111)。

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