◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第22章 1825年−1826年 

コンドムでの問題 / スール・サンテスプリの死
ダビオ司教の死 / マダム・クレアフォンテン
シャミナード神父の訪問(1826年7月)
スール・アグネスの死 / アルボアの修道院開設
アデル ボルドーを訪問



1825年の年次の黙想がアジャンとトナンで行われている頃、コンドムの共同体では、創設されてすでに一年も経っているのに、いまだに確固たる基盤を作り上げ得ないでいることをアデルはよく知っていた。修道女たちのあいだの緊張感を和らげるため、そして、とりわけアンカルナシオンの負担を軽くするために、何らかの手を打たなければならなかった。そこで先ずアデルはコンドムの院長を励ます手紙を書いた。

考え方の違いや性格の相違を忍耐をもって堪え忍びなさい。院長として、他人からくる批判を恐れることなく喜んで受け入れなさい。それがアンカルナシオンの「完徳の道」です。そして、それは真の殉教の道です。いつの日にか頭に冠をいただき、手に棕櫚の葉をもって小羊に従う日が来るであろうことを喜びにしなければなりません、とアデルは述べている(1)。

共同体の院長アンカルナシオンと、才能豊かで意思の強い(2)寄宿学校の校長エンマヌエルとのあいだに緊張感があることを知っていたアデルは、アンカルナシオンに次のような忠告を与えている。

「しなければならないと考えたことは、おやりなさい。そして、それにたいするエンマヌエルの批判を堪え忍びなさい。わたしたちは、賢明にかつ愛情を込めて人と接する道を学ばねばなりません。そして、より大きな善である平和を得るために、より小さな善を捨てることを学びましょう・・・。平和という善を得るためには、たくさんのものごとを犠牲をにしなければなりません ー もっとも、修道規律や良心を犠牲にすることは(確かに)できません。わたしのもっとも親愛なる娘よ、さようなら。わたしはあなたをカルワリオの上に置き去りにして行きます。でも、丘のうえにいる人たちは、まんざらではありませんよ」(3)!。

一方、エンマヌエルも苦しんでいた。院長とのあつれきの他に、学校とソダリティの仕事に追い回されていたのだ。そして、かの女の健康は、仕事の厳しさに蝕まれて行った(4)。しかし、アンカルナシオンとアデルが心配していたのはエンマヌエルだけではなかった。霊生部長として素晴らしい成果をあげていたセント・フォアも心配の種であった(5)。かの女は聖人のような人であったが(6)、祈りと苦行に特異な行動が見え始め、共同体で問題となりつつあったのだ(7)。

ビジタシオンも例外ではなかった。かの女は、以前トナンで病気にかかったとき、アデルが言う「奇跡的な」回復(8)をとげた人物であるが、それから一年して、再び病気が悪化し、アジャンに呼び返されていた(9)。しかし、いま、かの女はコンドムの修道院でアンカルナシオンの「真の十字架」になってしまったのだ(10)。種々の肉体的な不調の他に、霊的な乾燥に見舞われ、また、過度な想像力に悩まされていたのである(11)。

6月以来、シャミナード神父はゴンザグをコンドムに送り、セント・フォアとビジタシオンをアジャンに呼び返し、アデルの直接の監督下におこうと考えていた。アデルはこの人事移動がノビシアに大きな打撃を与えることになると考えはしたものの、反対する理由の無いことをアンカルナシオンに伝えている(13)。しかし、おそらくシャミナード神父は事前にアンカルナシオンと相談しなかったのだろう(14)。明らかにアンカルナシオンは、この人事に戸惑いを隠すことができなかった。

8月、ゴンザグはボルドーを離れ、翌年の10月までコンドムにとどまった(15)。そのようなわけで、ボルドーではスタニスラスを補佐に、マリ・ジョセフがゴンザグの後を継いでノビシアの責任者となり、修院長の職も兼ねることになった(16)。ボルドーでのノビシアは1824年に設立され、1830年に閉鎖されたが、その間、一年に平均15人の修練女を養成していたのだ(17)。

ゴンザグを失ったボルドーの共同体の気持を察したアデルは、マリ・ジョゼフとノビスたちに慰めの手紙を書いている。

「わたしの親愛なる娘たちよ。わたしたちに必要なのは寛大な人、犠牲を惜しまない人、血肉のきずなに執着しない人であることを、毎日のように痛感させられています。実際、わたしたちに与えられた使徒的生活では、神の栄光と人びとの救霊のために、招かれたところへは、いつでも全てを棄てて馳せ参じることが求められています。このような小さな使徒たちを養成する修練院ですから、私たちの本性には非情に辛く感じられるこのような人事移動によって試されなければならないのです」(18)。

三週間前に発作に見舞われて以来、忙しい毎日を送っていたアデルは、以上のように述べたのち、短い手紙しか書けないことを詫び、いまの自分としては、祈りの中に皆さんのことを思い出す以外はなにもできない状態にある、と記している。そして、イエスさまが「みなさまの愛であり、全てでありますように! だれもイエスさまからあなたたちを引き離すことはできません。罪以外のいかなる命令も、あなたたちからイエスさまを取り去ることはできないのです」(19)と慰めに満ちた言葉を述べている。

9月、アデルはサクレ・ケールに、疲労と消耗は「この修道会の病気である」ように思われると打ち明けている。そして、サクレ・ケールも、他の修道女たちも、働くためには、よく食べ、食べさせて上げてほしい、と云っている(20)。

同じ9月の下旬には、「身体の調子は良くなりました。吐剤と二つの薬が効いたようです。わたしの胃は解放されました」(21)と叫んだアデルであったが、10月になると、「しょっちゅう胃の調子が悪くなる」(22)ことを認めざるを得なかった。そして、12月にトナンでスール・サンテスプリが死去すると、アデルも自分の死期が近づいたことを認めた。

「今年、テレーズ・ド・サントギュスタン・デジェとサンテスプリ・リオンの二人の姉妹が天の浄配のもとに呼び戻されました。わたしたちの番も、遅くはないと思います。あなたは天国に強い望みを抱いておられますか?」とアガタに書き送っている(23)。

トナン創設のメンバーであり、修道会創立のメンバーの一人でもあったサンテスプリ(24N75)も、長年のあいだ、その性格上の問題(25)と、霊的な問題(26)、そして、肉体的な問題(27)に苦しんでいた。かの女は繊細な身体の持ち主ではあったが、とりわけ財務や業務の分野(29)で、また、玄関番としても(30)、共同体の力となっていた。

しかしながら、1825年の春になると、かの女の健康は急速に悪化した(31)。アデルはかの女と直接連絡をとり続け(32)、トナンのサクレ・ケールやその他の姉妹たちに手紙を書くときには必ずサンテスプリによろしくと書き添え、苦しんでいるかの女を励ますことを忘れなかった(33)。

11月28日、アデルがかの女の健康を気遣ってサクレ・ケールに手紙を書いたちょうどその日(34)、サンテスプリはその魂を天に捧げた(35)。修道会創立以来、8人目の死であった(36)。

サンテスプリが死の床にあったとき、アジャンでは3人の修道女が重い病気にかかっていた。アデルは、この人たちも間もなく死ぬのであろうかと心配した。この時病床に伏していたのは、フェリシテとメラニ、ならびに、アグネスであった。幸いにして、アグネスを除く二人は死をまぬがれた。

20才になるスール・フェリシテ(マリ・ニコラ)は1824年1月に入会し、1825年5月に着衣した(37)。6月、胸に大きな腫れ物ができ、強烈な痛みに襲われた(38)。通常の下剤や膏薬や飲み薬では効き目がなかった(39)。7月には蛭治療が行われた(40)。アデルは、アンカルナシオンとビジタシオンに素晴らしい効果を奏したあの聖遺物をかの女にも触れさせて(41)、回復のためにノベナを捧げた(42)。

フェリシテは大きな苦しみのうちに死なねばならないと思われます。しかし、かの女は自分の運命を完全に受け入れているようです、と、アデルはサクレ・ケールに記している(43)。この恐ろしい試練は、その後なんカ月ものあいだ続いた。しかし、そのようなかの女も、1826年4月には初誓願を立てるだけの健康を取り戻していた(44)。そして、その同じ年に、かの女はコンドムに赴任した(45)。

かの女の治療にあたった医師(ベロック医師とラッセール医師LASSERE)は、二人とも、外科療法には効果がないと考えていた。そして、二人とも、かの女に癌の可能性があることを認めはしたが、宣告することはなかった。たとえそれが癌であったとしても、外科手術では病気の原因を根絶することはできないと考えていたからである(46N175)。

スール・メラニ(ジャンヌ・ボエ JEANNE BOE)はパッサージュの出身であった。この町はガロンヌ川をはさんだアジャンの対岸にあり、新しい橋を渡った向こう側にある。かの女は1821年、25才のとき、将来有望な志願者として入会したのだった(47)。

1822年2月にノビシアを始めたが、そのときシャミナード神父は、かの女から非常にいい印象を受け、かの女の召命の確かさに感銘したのだった。こうして、かの女のノビシアは短縮され、その同じ年の11月に初誓願の許可が与えられた(48)。

1825年の初頭、かの女はかなりの量の喀血をした(49)。かの女の肺は相当に悪くなっていると考えられ、アデルはかの女が間もなく死ぬであろうと考えていた(50)。夏まで生き延びることはできないだろうと考えていたのである(51)。

この時も、両脇に焼灼療法を与えるなど、一般的な療法がとられた(52)。しかし、その翌年(1826年)の春、かの女は回復した(53N176)。

スール・アグネス(マリ・ブデMARIE BOUDET)は、はじめから健康上の問題でアデルに心配をかけた三人の内の一人であった。かの女は、1823年、20才で入会した。シャミナード神父がアデルにたいして、健康に問題がある志願者を受け入れないようにと長文の手紙を書いたのは、このアグネスのことが念頭にあったからである(54)。かの女は健康に恵まれず、胸に発泡剤をつけたり、いろいろな食餌療法をほどこされていたが(55)、それでも1824年の7月には誓願を宣立している。

アグネスは非常に聖なる修道女で(56)、やがて修道会きっての優秀な教師の一員になった(57)。教室におけるアグネスは完ぺきで、修道会の固有の教授法を完全にマスターしている、とアデルは述べている(58)。

かの女は病気のあいだも、教壇に立ち続けた(59)。しかし、1825年の初頭に発熱してから熱が下がらなかったので床についた。このときアデルは、かの女がそれ以上生きられるとは思っていなかった(60)。

2月、ベロック医師はかの女を肺病と診断した(61)。かの女の苦しみは大きく(62)、1825年の夏のあいだ、容態は悪化の一歩をたどった(63)。かの女が苦痛を甘受する姿は共同体に良い模範となった(64)。まさにその名が示すように、かの女は「小羊のように」平和を保ち続け、静かにすべてを忍従したのである(65)。

さて、このように共同体には病気が蔓延し、アデルを含めて数多くの人たちが病床に伏す身となったため、対外的な仕事に人手不足が生じたばかりでなく、内部的な組織にも人手が不足した(66)。折りも折り、このような時にアジャンの修道院では、年老いた病身の4人の修道女を受け入れることになった(67N177)。この4人の修道女というのは、パラビスの修道女たち(DAMES DU PARAVIS)である。10年前、アソシエイツのために聖堂を開放してくれたのは、実はこの修道女たちであったのだ(68N72)。

もはやフォントブロ修道会(ORDER OF FONTEVRAULT)に将来はないと考えたこの4人の修道女は(69)、アウグスチノ会の建物で余生を送る許可をシャミナード神父に求めた。シャミナード神父は、かの女たちの願いに同意し(70)、アデルは喜びの内に受け入れた。年をとり病身であったかの女たちを受け入れることは、たしかに人手を要することではあったが、この人たちは聖なる人であり、共同体に神の祝福と幸運をもたらしてくれる人たちだとアデルは確信していた(71)。

この4人は、共同体の中でもう一つの共同体をつくることになった。そこで先ず、建物にかなりの改築の手を加えなければならなくなった。いままで修道院の一部で、黙想にくる人たちのために当てられていた部分がかの女たちに当てがわれ、もとの修練院の聖堂もかの女たちに提供した(72)。シャミナード神父が訪問するときに寝泊まりした小部屋は、かの女たちの応接室になった。また、食堂には、教室に通じる入り口のところを改造した(73)。この共同体を訪れる人たちのために、共同墓地に近いところに、独立の出入口をもうけた。(いつも何人かの黙想の人がきているので)黙想の人たちのために確保しておいた三つの部屋には、マリア会のシスターが出入りできるように新しい階段と囲壁のドアを設置した。この三つの部屋は建物の一番端にあったので、ここへは新しくできた共同体を通らずに行くことができた(74)。

パラビスの修道女たちは、このお返しに、たくさんの家具と、サクリスティに使う豪華な祭服入れ、ならびに、年5、000フランを超える収入を提供することになった(75)。また、入会を希望していたエミリ・ボエ(EMILIE BOE)のために持参金を用意してくれた(76)。エミリ・ボエは、修道院の郵便配達の娘で、年若いソダリストであり、裁ち物師であったが、1825年12月、女子マリア会に入会し、スール・ジェルトルード(SOEUR GERTRUDE)と命名された(77)。

この改造工事がいまだに完成しておらず、したがって引越しも行われていない時、パラビスの修道女の院長が病気で倒れ、身体が痲ひしてしまった。しかし、今からでは「引き返すには遅すぎます」とアデルはサクレ・ケールに打ち明けている(78)。

引越しは1825年11月に行われた。どの人も喜びに満ちた聖なる人であったが、病身で世話の必要な人たちであった。夜中に看病を必要とする人もいた(79)。中でもマダム・ブーラン(MADAME BOURRAN)はすでに不治の病にかかっていた(80)。

ちょうどその頃、67才になった病身のローモン神父が現職を退き、修道院に身を寄せた(81)。師の表現によれば、「わたしの修道会の修道女たち」(82)の側近くで余生を過ごすためであった。

アデルが受け入れた人たちは、すべてがこのように年老いて病身の人たちばかりではかなった。11月、4人のパラビスの修道女たちやローモン神父がアジャンに引っ越してきたちょうどその頃、そして、トナンではサンテスプリが死の床であえいでいた頃、アデルはサクレ・ケールに小さなメラニについて知らせている。

8歳になるメラニは「真昼のように美しく」、「並外れて慎み深い」少女であった。母親はあまり評判のよくない婦人であったが、娘は立派に育て上げていた。劇場に連れて行くこともせず、外貌の美しさにまけない心の清い子供に育て上げていたのである。しかし、母親の家庭は貧しく、数年もすればこの子も売春婦をする以外に生きて行く道は残されていないことは明白であった。母親は涙乍らにこの子を人手に任せる決意をした。アジャンのソダリストであるマダム・エブラール(MADAME HEBRARD)は、この子の世話を手助けしようと約束した。エブラールと母親は、この子の宿泊費用と食費をまかなうために、自分たちの持ち金にあわせて、他の人たちからの施しを加えて、年間150フランを確保することができるだろうと考えた。しかし、母親の職業が知れ渡っているアジャンにこの子を留めておくことはよくない、と二人は考えた(83)。

そこでアデルは、この子を家に置いてくれるソダリストがトナンに居ないだろうかとサクレ・ケールに相談を持ちかけた。勉強のためには修道院に来て授業を受ければよい。そうすれば、年若い教師(25歳)で聖なる修道女スール・セラフィンから特別に面倒を見てもらうことができるだろう(84)と云うことであった。ところが、サクレ・ケールが返事を書く暇もなく、アデルはかの女をトナンに送らざるを得ない状況に陥ってしまった。もし、まだこの子を家に置いてくれるソダリストが見つからないのならば、修道院に引き取って黙想の家に住まわせてやってほしい、とアデルはサクレ・ケールに述べている(85)。

それから一ヶ月後の12月、アデルはサクレ・ケールに、この子を囲壁の中に入れるように勧めている。それは、かの女の居場所が両親に知られれば、成長して「仕事ができるようになった」頃を見計らって取り返しに来るだろうと考えられたからである。

アジャンのソダリティでは、数人のソダリストが、もしこの子が修道院に留まるならば年に200フランの募金を募ることを約束してくれた。そこでアデルは、シャミナード神父の承認を得ることにした(86)。

(1826年)2月、事実、メラニの両親は気が変わり、娘が何処にいるかを探し始めた。アデルはこれにたいして口をつぐんだ。そして、両親がボルドーへ行くことになった際、アデルはサクレ・ケールに手紙をだして、かれらがボルドーへ行く途中かならずトナンを通ることになるので、修道院が少女を保護していることを絶対外にもらさないよう厳重に警戒しておくようにと言伝えた(87)。

ところでアデルの方では、トナンに約束した200フランの募金の獲得が難しくなってきた(88)。できたことといえば、少女のための衣類を買ったり集めたりしてくれる人を数人さがしあてただけである(89)。アデル自身としては、死んだルイーズ・マリの衣装箱から取り出した6枚の肌着(90)と、何枚かのスカートと下着(91)、それに、送るのも躊躇されるような使い古したセーター(92)を集めることができただけであった。アジャンで病院を経営している愛徳会のシスターも、この少女のために小さな小包を送ってくれた(93)。

男女とも、マリア会自体が非常に貧しく(「こちらの兄弟たちは、みじめな状態です」)、従って、修道会が第一にしなければならない「慈善事業」は、自分たちの事業そのものを支援することであることを、アデルは十分に理解していた。「それでもわたしたちは、いつも貧しい人たちに、何がしかのものを差し上げねばなりません。たくさんのものを持っているときは多くを与え、少ないときは少なく与えるのです。わたくしたち自身にかんしては、自分たちが貧しくあることを幸福に思わなければなりません」とサクレ・ケールに思い起こさせている(94)。

そのようなわけで、小さなメラニはトナンに留まった。1827年の年末には、かの女はまだトナンの修道院にいた。アデルは自分が死ぬ何ヵ月か前まで、かの女を養子にしてくれる人を探していた(95)。

コリノ神父の指導による素晴らしい黙想会(1825年10月)で一新されたコンドムの共同体は、アデルのイニシアティーブで、小さなメラニやパラビスの修道女たちとは趣を異にした一人の人物を受け入れることになった。

それはマドモアゼル・ブルイット(MILLE BRUITE)である。かの女は優秀な図画の先生で、エグイヨンにある某修道会のポストラントであった。スール・エンマヌエルの知人で、おそらくローモン神父とも面識があったと思われる。

かの女は、最近、エグイヨンの修道院を去り、修道会の運営する学校の教員の職を探していた。アデルはアンカルナシオンにこの人を受け入れるように勧めた。この人なら、単に寄宿生を教えるだけでなく、エンマヌエルやスール・ジョゼフィンをも教えることができると考えたからである。(このスール・ジョセフィンはマリ・バービエ MARIE BARBIER と云い、まだポストラントであったが寄宿舎学校で教鞭をとっていたひとである(97))。アデルは、マドモアゼル・ブルイットが最終的にはマリア会に興味をもち、入会するかもしれないと考えていたのだった(98)。

しかし、アンカルナシオンはかの女の受け入れに多少抵抗を感じていた。

アデルは云っている。

「あなたはマドモアゼル・ブルイットと結婚するわけではありません。もしかの女が平和を乱すようなことがあれば、いつでもかの女を手放せば良いのです」。

ブルイットは300フランの年俸と個室を当てがわれることになった(99)。しかし、それは寄宿舎学校の敷地内で、修道院の中ではなかった(100)。かの女は、すくなくとも最初は、教鞭をとるのであって、ポストラントではなかったのだ。ただ、修道女と接触することができるように配慮されており、休息時間以外は沈黙の規則を守ることになっていた。もしそうしなければ、かの女の場合、自分で自分にしゃべることはできないのだから、結局は他の修道女をおしゃべりに巻き込むことになるだろうとアデルはコメントしている(101)。

(1826年)新年を迎える頃になると、コンドムの共同体にとって、マドモアゼル・ブルイットは重荷になっていた。とりわけエンマヌエルにはそう思えた(102)。マドモアゼル・ブルイットは非常に気が短く、極度に感受性が強く、要求がまし人物であることが分かった。アデル自身、かの女に直接手紙を書いて、気をしずめるようにうながし、また(いまではコンドムに来ている)ゴンザグにたいしても、マドモアゼル・ブルイットを親切に、しかし、断固とした態度で取り扱うようにとアドバイスしている。そして、「このような頭が空の人は」、どのように取り扱われるかによって、「簡単に良くも悪くもなるものです」と述べている(103)。

時が経つとともに、マドモアゼル・ブルイットは修道生活に向いていないことが分かってきた。

「どんな事情があろうとも、わたくしはマドモアゼル・ブルイットを修道女として受け入れることに反対です」と後日ゴンザグはアデルに具申している(104)。しかし、いかにかの女が厄介物であったとしても、かの女を雇い入れたのは学校であり、すでに学校も始まっているということもあって、簡単に辞めさせるわけにはいかなかった(105)。

この年の後半、シャミナード神父は女子マリア会のアルボア(ARBOIS)への進出を計画していた。もし、マドモアゼル・ブルイットがコンドムで歓迎されないのなら、アルボアへ行かせればよい、とシャミナード神父は考えた。しかし、それは、かの女が新しい共同体の重荷にならないように、院長(マリ・ジョセフ)がかの女を使いこなせればのことであった(106)。

コンドムの共同体では、かの女を少なくとも、この一年間だけはとどめておくことに決定し、1827年の休暇を機に解雇しようと考えていた。アデルは、その間、かの女の才能を十分に利用して図画の習得に努力しなさい、と修道女たちにドライに云いきっている(107)。

1826年の前半、アデルの健康は引続き浮き沈みを繰り返した。しかし、かの女の手紙を見る限り、職責にたいする考え方にはいささかも衰えを見せておらず、部下の修道女たちの幸福を求める心も、かの女たちにたいする愛情も、そして、とりわけ、創立当初から協力してくれたパートナーたちにたいする愛情にも、少しのかげりも見せていない(108)。かの女は、自分の病気を軽く見せようとし、風邪をひいても、それは単に「現代風のはやり」にすぎないとか、「最近の流行」と云った具合いに、冗談にしていた(109)。

アデルは、自分よりも、むしろ他の人たち、女子マリア会の修道女やパラビスの修道女たちの健康に配慮しようとした。パラビスの修道女は大変苦しんでいるのだから祈って上げて下さい、とアデルは述べている(110)。マダム・ブーランは、ほとんど絶望的であった。かの女には、もはや打つ手がない、とベロック医師は述べている。

3月まで、マダム・ブーランは「歩くお化け」、だんだん燃え尽きるローソクのようであった(111)。そして、それから一ヶ月後、かの女は床を離れられなくなり、最後の秘跡を受けた。かの女の死にたいする心構えは「立派に」できていた。

4月以降、修道女たちは毎晩、順番にマダム・ブーランを看病した(112)。かの女の容態が良いときには、朝はやくローモン神父が聖体をかの女に運んだ(113)。そして、6月、かの女は静かに息を引き取った(114)。アデルはその時のことを思い起こして「このようにして死んで行く人たちを見送ることは、わたしたちに過ぎ去る世の物事から離脱し、永遠の物事にこころを向けるように教えてくれます」と述懐している(115)。

死はいつも目の前にあった。最初のアソシエイツのひとりロサリ・ド・ポミエ(マダム・ド・ジョンカ MADAME DE JONCA)も、ほんの最近、死んだばかりだった(116)。そして、スール・アグネスは、病気が重くなってすでに一年以上も病の床にあった。(1826年)3月になると、アグネスの容態は危険な状態になった。大量に喀血し、蛭療法をほどこしても効き目がなかった(117)。ベロック医師は匙を投げた(118)。だんだんと容態は悪くなるばかりであった。かの女は、ベッドを離れることができさえすれば、なんとか身体を引きずって生きていた(119)。非常に辛抱強く、死ぬことを待ち望んでさえいた(120)。

また、この3月には、91才になる大司教ダビオが風がわりな事故にあった。3月8日の夜、ベッドの吊しランプに火がついたのだ(121N178)。司教は辛うじて火を逃れたが、その時に負った火傷からふたたび元の健康体に回復することはなかった。大司教は4カ月のあいだ床についていたが、7月12日、逝去した(122)。

7月10日、大司教が死ぬ2日前に、シャミナード神父の姉妹であるリュクレス(LUCRECE)が死んだ(123N179)。かの女は、過去15年間、ボルドーでシャミナード神父の世話をしていた(124)。

サクレ・ケールは、アデルの健康状態について、ローモン神父やムーラン神父を含む他の人たちから、噂やいろいろの情報を受けていたことは間違いない。5月末にサクレ・ケールに宛てた返信の中で、アデルは最愛の友サクレ・ケールを安心させるために、「わたし自身について、はっきり申し上げておきたいと思います」と前置きして次のように述べている。

   わたしの健康状態は、あなたがお考えになっているほど悪くはありません。自然の力がわたしを助けてくれましたので、かなり元気になっています。はっきり申し上げておきますが、わたしの容態は誇張されて伝えられています。それを神さまがお許しになっているのは、わたしが更に我意に死ぬことができるようになるためです。わたしは、今、長い間寝ていなければなりません ー そのようなことは、わたしは大嫌いです。しかも、わたしは、ほとんどいつもといってもよいほど、ご聖体拝領の機会から遠ざけられています(125N180)。このような 矛盾をわたしが十分に活用することができますようにお祈り下さい。中でも一番大きいのは、必要とする姉妹たちに話をすることができないことです。シャミナード神父さまは、わたくしに、医者の云うことは何にてもあれ、これに従うようにと、従順の名によって命じられました。それが決定的な打撃でした。実際には、わたしはあまり咳がでませんし、疸もめったに出ません。ただ、いつも微熱があり、そのために衰弱しています。わたしが食べることのできるのはミルクとパンだけです(126)。でも、そうだからと云って、それが何なのでしょう(と、アデルは一ヶ月のちに付け加えている)。あなたがこれについてお嘆きになることはないと思います(127)。

アデルには、今までの仕事のうえにもう一つの仕事が加わった。それは、アジャンの修道院が新しい慈善事業に着手しようとしていたからである。すでに1821年、シャミナード神父は「隠居した」マダム・シャンピエ(MADAME CHAMIPIE)が囲壁内で生活することを許していた。この人は、囲壁内で余生を送らせてもらう代わりに、自分の財産をすべて修道院に寄付することになっていた。しかし、これにたいする世間の批判は強く、修道院の評判を保つために、結局、この許可を取り下げねばならなかった(128)。

ところが、いま、アジャンの修道院では、パラビスの修道女たちを受け入れるだけでなく、もう一人の隠居した老人を受け入れることになったのだ。80才になるマダム・クレアフォンテン(MADAME CLAIREFONTAINE)がその人である。かの女は召使のジャンヌトン(JEANNETON)を連れていた(129)。

(1826)2月、アデルはアンカルナシオンに「秘密」を打ち明けている。それによると、マダム・クレアフォンテンが修道院のために遺言書をしたため、その結果、修道院は4万フランを相続することになった。その代わり、かの女は修道院で隠居し、そこで余生を送ることになった(130)。アデルはこのような取り決めができたことを、修道院にたいする神の配慮と見なしている。このような人びとを受け入れることによって、修道会の本部は、各修道院を経済的に援助することができるようになる(131)。ところが現実には、このような取り決めをすることによって、かえって数多くの問題を抱えることになったのである。このことに関連して書かれたシャミナード神父の手紙は、師がアデルに書いた手紙の中で一番長く、かつ、厳しい内容のものとなっている(132N181)。

最初、敷地内の修道院の近くに小さな家を建て、そこにクレアフォンテンが家財道具一式を運び込み、訪問客を受けたり、自由に外出もできる、自分なりの生活スタイルを続けられるようにしようと約束したと思われていた。このことに関しては、シャミナード神父も異存はなかった。身寄りを失った年老いたキリスト信者の婦人に、このような生活の場をあたえることは良いことである。修道院の側近くに住むことで、その婦人は、老齢のため、または、病気のために必要とされる物的、かつ、霊的なたすけを受けることができるのは良いことだ、と考えたのである(133)。

ところが、その後、クレアフォンテンは、修道院に出入りして全面的に共同生活に参与し、とりわけ修道女と祈りを共にしたいと要請してきた。司教はこの願いに積極的に賛同し、シャミナード神父も同調した(134)。

いろいろな手紙から判断し得る限りでは、この時点で、新しい家を建築する費用が問題となり、サンバンサンとアデルはこのような家を建てる代わりに修道院そのものの中にかの女を住まわせ、アデルの使っていた部屋さえも貸し与えることにしたのである(135)。このことから、大変な混乱と騒動が持ち上がった。修道院が年寄りの婦人を利用して利益を得ようとしているという惹名の抗議の手紙が送られてきた。うわさは広まり、抗議と釈明が飛び交った。明らかに困惑しきっていたアデルは、シャミナード神父にアドバイスを求めた。

アデルはこころ安からず困惑しきっていた。いままでの行動は正しかったのであろうか。なにか悪いことをしてしまったのではないだろうか。抗議は正当なものだろうか。外部のひとたちの意見に耳をかさなければならないのだろうか、と思い悩んだ。

一方、これにたいして、サンバンサンは強硬な立場をとり、人びとの云うことには耳をかさないようにとアデルにアドバイスした。人びとの意見は無視すべきだ、とサンバンサンは云うのだった(136)。

シャミナード神父が記した8月8日の手紙は、キリスト者たるものがどのように世間の批判や意見に対処しなければならないかを説いた貴重な論文である。その内容を要約すると、次のようになる。

わたくしたちは、世間の人たちがわたしたちに抱いている意見によって裁かれるべきではない。自分たちの行動とその動機の正しさによって裁かれるべきである。もっとも、正しいと考えた理由に基づいて行動した善い行いであっても、批判されることがある。実際、世間というものは、悪にたいしては簡単な言い訳でのがれてしまうことがっても、善にたいしては、より厳しい批判の目をむけることが多い。しかし、正当化されない批判は、純粋な悪だとは言えない。なぜなら、神はそのような批判の中から善を引き出す術をご存じだからである。このような状況においては、不正に批判する人たちのために、ただひたすら祈りなさいと云う以外にアドバイスのしようがない(137)、と述べている。

しかしながら、もし、自分に落度があるならば、批判する人たちのために祈るだけでは不十分である。つまずきを与えた原因がはっきりしている場合に沈黙を守っていることは最大の悪だ。そのような場合、人びとから受ける不平や皮肉こそは、わたしたちに有益な自己反省の機会を与えてくれる。行ったことが悪であり、意向が悪かった場合のみが過失になるのではなく、良い意向をもって行ったとしても、それがキリスト教的賢明さに基づいて行われなかった場合は悪になる、とも指摘している。

シャミナード神父はこのように述べた後、アデルとサンバンサンにこころの糾明をするように諭している。

あなたたちはこの問題を(わたしに)提示したとき、誠実に、かつ、隠すことなく打ち明けていたのか。考察と検討の時間に十分な余裕をもって相談していたのか。すでに決定を下していたのに、未決のような顔をして相談していたのではないか。もし、それが事実ならば、この問題を自分たちの都合のよいように提示したのは当然のことではないのか、などである(138)。

アデルが書いてきたコメントや批判のなかには正当化されうるものもあったので、シャミナード神父は、アデルとサンバンサンの二人に、それぞれ別々に神のみ前で糾明するように述べ、自分たちが下した決定と、そのような決定を下すにいたった経過について熟慮し、その結果を直接自分の方に手紙で知らせるように、とアデルを通じて伝達した。

もし、この件の処置の仕方が間違っていたならば、その間違いは償われなければならず、また、さらに起こるであろう悪を阻止しなければならない(139)。いまのところ自分は、二人が正しく行動したと考えている。しかし、もっとくわしい報告をするまでは、これ以上行動を起こしてはならない、と述べている(140)。

さて、4月の中旬、アデルに宛てて送ったシャミナード神父の手紙がまだアデルの手元に届かないうちに、クレアフォンテンは修道院に移転してきた。かの女にはアデルの部屋が当てがわれ、アデルは二階に移った。クレアフォンテンは修道院にたいして何一つ悪い考えをもっていたわけではない、とアデルはサクレ・ケールを安心させている。しかし、この婦人の経済的な状況はかなり複雑な状態にあり、やがて訴訟問題に発展する可能性をもっていた。しかし、当面は、修道院に迷惑をかける状態ではなかった。

この婦人は、まれにみる謙遜な人で、口数も少なく、特別な世話を要求することもなく、なんの特別な配慮も要求してこなかった。かの女が連れてきた召使は婦人の身の回りの世話をするだけでなく、修道院の雑用もしてくれた。修道女たちにとって、これは非常にありがたいことであった(141)。

アデルがこの問題にかんしてシャミナード神父に宛てて送った二つ目の手紙を見る限りでは、アデルはかなり落ち着いていたように見受けられる。シャミナード神父はアデルに次のように述べている。

「マダム・クレアフォンテンの問題についてあなたが神の前で心の平静を取り戻したことで、わたしも平安を得ることができました。あなたからいただいた説明で十分であると思います」(142)。

そして、クレアフォンテンのために、できるだけ早く適当な家を建ててあげなさいと命じている。共同体がかの女の自由な出入りを同意したからといって、かの女のために新しい家を新築するという最初の約束がなくなったわけではないし、また、かの女がアデルの部屋に移り住まなければならないということにもならない、とも付け加えている。そして、たとえ二階の部屋の方がアデルの健康に良いと云っても、共同体の管理を支障なくおこなうためには、アデルにオフィスが必要である、と述べている。しかし、シャミナード神父が出した二番目の手紙がアデルに届く前に(シャミナード神父は大急ぎで郵送したと云っている)、クレアフォンテンがすでにアデルの部屋に入ったことを知って、驚くとともに、大きな不満を表明している。そして、そのような性急な行動をしたアデルを叱責している。

もし、各修道院の院長が、すべてを事後報告で済まし、少々勝手すぎたと弁解するとするならば、あなたはどう思いますか。答えを出すために必要な時間を十分にとって、事前にこのようなことは報告すべきであったし、このような重大なことにかんしては自分一人の考えて行動すべきではなかった(144)。しかし、すでに行動した後である。今となれば、できるだけ早く家を建て、こんど自分が訪問するときは祝別ができるようにしておくように。そして、クレアフォンテンには、できるだけ早くその家に移らせるように、と述べている(145)。

クレアフォンテンが来てからと云うものは、修道院は老人ホームのようになってしまったとアデルはドシテに述べている。とりわけ台所の仕事が忙しくなった。共同体とパラビスの修道女たちを賄うだけでなく、ローモン神父の食事に加えて、いまではローモン神父の小さな食堂で、神父と一緒に食事をとっているマダム・クレアフォンテンの食事をも準備しなければならなかったからである。これらの人たちは、いずれも年をとっていたので、各人なにがしかの特別な配慮を必要とした(146)。しかもクレアフォンテンは、しょっちゅう晩餐に客を招待したため、スール・カタリンと台所で働く人たちは余分な仕事で追い回されたのだった。

しかし、このようなことは見返りを考えればたいしたことではないとアデルは考えていた。なぜなら、それによってアジャンの共同体は全修道会のために経済的な援助を与えることができるようになるからであった。アデルはこのような「恩人」を、もっと探し出したいとさえ考えていたのである(147)。

9月になると、クレアフォンテンは修道院の悪口を言ったり叫び声をあげるなど、第二の幼児期に入る様相を呈してきた(148)。10月になって、やっと家が建ったので、かの女はローモン神父と共に新しい家に転居した。それから12月までの間、クレアフォンテンは重い病気にかかり(149)、しばらくして死亡した。ローモン神父はかの女の病気と死にいたく心をいため、しばらくの間は修道女たちの告解を聴くこともできなくなり、アデルは一週間のあいだ聖体を拝領することができなかった(150)。

クレアフォンテンの死亡によって修道会はその遺産を相続することになり(しかし、それは係争中の訴訟が片付いてからのことであった(151))、エグイヨン近くにあった婦人の小さな屋敷は、経済的に苦しんでいたトナンの負担を軽くするために、トナンの修道院に与えられることになった(152)。

クレアフォンテンの家は、(1826年)7月、シャミナード神父がアジャンを訪問したときに祝別してもらう手はずになっていたが、どうやらそれに間に合わなかったと考えられる。

シャミナード神父は、リュクレスとダビオの死後10日目にボルドーを離れ、8月(16日から24日)の一週間を除いては、10月の中旬までマドレーヌを留守にしていた。師は修道会のいろいろな施設を時間をかけて訪問していたのである。

最初はアジャン地方を訪問し、ついでパリとナンシイを訪問した後、北東部にあるアルザスとフランシュコンテまで足を運んだ。この地方への訪問は、シャミナード神父にとって初めてのことであった(153)。

7月の21日、トナンには立ち寄らず、直接乗合馬車でアジャンに着いた(154)。アジャンに留まること僅か4日(7月25日は修道会初の誓願宣立9周年であった(155))、そこからモアサック(MOISSAC)に向かった。モアサックはアジャンの上流約50キロのガロンヌ川の流域にあり、ちょうどガロンヌ川がタルンと合流する地点に位置していた。ここでシャミナード神父は、男子マリア会員が運営する新しい学校を開設するための交渉をまとめた(156)。

7月の月末にはコンドムに到着。そこから、黙想の終結日におこなわれる誓願更新式に間に合うようアジャンに向かった(157)。この黙想会はムーラン神父の指導のもとにおこなわれていた。

8月6日の黙想の最終日には、サン・ソボールと死の床にあったスール・アグネスが終身誓願を立てた。誓願宣立の儀式の一部として棺桶にかぶせる布を誓願を宣立する修道女に覆いかぶせて葬鐘をならす儀式があるが、アデルはこの儀式にあずかって、アグネスの死が間近に迫っていることを実感した ー 「かの女は天国に行こうとしています」と述べている(158)。

誓願宣立から2週間の後、初めてアグネスは臨終の聖体拝領(VIATEICUM)を行った(159)。かの女は衰弱しきっており、ほとんど脈も感じ取れなくなっていた。そして、その日の夕刻には、声が出なくなった。しかし、アデルがサクレ・ケールに伝えているように、アグネスの覚悟と忍耐力には賞賛にあたいするものがあった(160)。

8月29日、アグネスは終油の秘跡を受けた。かの女の聖徳に心をうたれ、かの女の柔和と従順に深い印象を受けたアデルは、アグネスの死は聖人の死だと確信するのだった(161)。

アグネスは病気の最後の週に、天国へ行く「オベディアンス」(辞令書)をムーラン神父に願った。その時、ローモン神父は、かの女がマリアの誕生の祝日がくるまでは死なないだろうと自信をもって述べたのだった。

かの女の最期は、一般的に、静かで穏やかであったが、死の3時間前には信仰と希望にたいする大きな誘惑がかの女を襲った。ローモン神父はその間、ずっとアグネスの側に付き添っていたが、やがて誘惑はかの女を去った。

ムーラン神父は、最後の罪の許しを病人に与えようとして、アグネスの病室を見舞ったが、その時、午後6時、アグネスは息を引き取った。1826年9月8日のことであった(162)。

「わたしたちには、神さまの側に保護者がついています。しかし、どうか神のご慈悲にかの女をお委ねし続けて下さい」(163)、とアデルはゴンザグに伝えている。

アグネスが終身誓願を宣立した翌日、シャミナード神父はトナン訪問のために出発した。シャミナード神父はアジャンとコンドムを訪問した時もそうであったが、トナンを訪問した時も修道女たちに人事移動に関する意見を聞き、ノートをとり、そして、アルボア(ARBOIS)に新しく開設される修道院のメンバー・リストを作成した(164)。

しかし、シャミナード神父は、スール・マルタの移動だけは、後日に延ばすことができなかった。修道会の創立のメンバーであるスール・マルタは、還俗しようとしていたからである(165)。かの女の性格はますます難しくなり、シャミナード神父もアデルも、労働修道女(スール・コンパーニュ)のノビスたちに悪い手本を与えることのないように、アジャンから移動させたいと考えていた。そこでかの女はトナンに移動させられることになった。

アデルはサクレ・ケールに「自分の重荷を、押し付ける」ことになるのを心苦しく思うと述べながらも、今では労働修道女の修練者の数は増大し、将来的にすべての修道院においてかの女たちがおきな影響力を持つことになるのだから、これは会全体の善のためにやむを得ない措置であると説明している(166)。

8月の半ば、シャミナード神父はボルドーに帰省した。そして、それから一週間ののち、今度は北東部に向かって旅立った(167N182)。師はこの地方に、たくさんのプロジェクトを抱えていたが、今回の旅は、シスターたちの第5番目の修道院を開設するための契約を締結するためであった。一方、アジャンでは、新しい修道院のシスターが必要とする衣類や寝具を確保するために、アデルは忙しく立ち回っていた。アルボアはジュラ山脈の近くに位置し、スイスの国境からは、それほど遠く離れていなかった。当然、気候はボルドーよりもはるかに寒く、しかも冬は間近に迫っていたのである。

この地方では男女修道会への志願者が数多く、かれらは遠くボルドーの修練院にまで来ていた(168)。そのようなわけで、シャミナード神父はこの地方に男女の修道院を開設する必要性を感じていた。

先ず最初のプロジェクトとして、1822年に、コルマール(COLMAR)に男子マリア会の修道院を開き、男児の学校を経営することにした。この共同体の司祭修道士が、この学校の校長になり、同時に、そこから約5キロほど離れたエギスハイム(EGUISHEIM)で女子校を経営するシスターたちの霊的指導者になることになった。しかし、このプロジェクトでは、男子の計画は成功したが、女子の計画は実現しなかった(169)。

1825年の夏、第二の提案がシャミナード神父にもたらされた。ブザンソン(BESANNCON)の神学校の所有地ベスール(VESOUL)を使ってはどうかと云うのである。ここは男子マリア会のサン・ルミの共同体からさほど遠くはなれていなかった。最初男子マリア会をサン・ルミに誘致する時に一役かって出たバルデネ神父(BARDENET)(170N183)は、こんども女子マリア会の誘致に熱をあげた。神父はこの屋敷を買収するために20、000フランをシャミナード神父に貸す用意があると言ってきた。しかし、このプロジェクトも満足な結果をみることはなかった(171)。

1826年の初頭、バルデネ神父は以前カプチン・フランシスコ会が使用していたアルボアの修道院を買収しようとしていたが、ここに女子マリア会の修道院を開設してはどうかとシャミナード神父に提案した。シャミナード神父はこの話を受けたが、女子マリア会としては人を送る以外に協力することはできないと伝えた。そのようなわけで、経済的な責任はすべてバルデネ神父が負うことになり(172)、政府と教会に対する必要な手続きは、すべてこれをバルデネ神父が引き受けた。

3月、シャミナード神父はカイエ神父をフランス北東部へ派遣し、いくつかの重要なプロジェクトの解決に当たらせた。そのなかの一つに、アルボアでの共同体開設にかんするバルデネ師との最終取り決めがあった(173)。

シャミナード神父が驚いたことには、バルデネ神父は早急にことを進め、必要とされる教会と政府からのあらゆる種類の同意書や許可書を短期日のあいだに取得してしまった。ボルドーならばおそらく10年あるいはそれ以上の歳月を要するだろうとシャミナード神父が考えていた諸手続きを、バルデネ神父は一ヶ月のあいだに片付けてしまったのである(174)。

4月になると、必要な改築と内装が始まった。バルデネ神父は、この建物を単に使えるものにするだけでは満足せず、一流のものに仕立て上げようとした。

寄宿舎学校として、こちらが希望するような生徒を集めたいならば、ただ質のよい教職員を配属するだけでなく、設備の面でも人びとの気持ちを引き付けるものにしなければならない、とバルデネ神父は考えていたのである。そして、シャミナード神父が派遣する人材は優秀な人たちばかりであると確信していたのだった(175)。バルデネ神父は、カイエ神父が開設準備の仕事を監督するために当地に逗留していることができないのを残念に思い、できるだけ早期にシャミナード神父自身が、この敷地と建物を確かめに来てくれることを希望した(176)。

10月1日、シャミナード神父はアルボアを訪ねた。師は教会や役所の人びとと会ったが、いずれもシャミナード神父を丁重に迎え入れ、女子マリア会の共同体が開設されることに熱意を燃やしていた(177)。

シャミナード神父は屋敷を訪れ、それが共同体と修練院と寄宿舎学校のために十分すぎる程のものであることを確かめた。その間、バルデネ神父は、この修道院を所有する市役所との契約を完了した。この修道院の建物は、それまで警察署として使用されていたが、その移転にあたって、バルデネ神父は自分が所有する屋敷を代替え地として提供した。そして、この屋敷と建物を取得するために15、000フランを支払った。一方、シャミナード神父は寄宿舎学校を開設することを約束し、150人の生徒のために無料の授業をおこなうことにも同意した。当時、アルボアには適切な学校がなかったのだ(178)。

この日、すぐにシャミナード神父はボルドーにいるモニエ士に手紙を書き、次のように述べている。

ブザンソン、グレイ(GRAY)、ベスール、ナンシイ(NANCY)、パリを経て、ブラザーたちの黙想の初日に間に合うように、10月15日には、マドレーヌに到着する。もし、間に合わない場合は、コリノ神父の指導で黙想を開始するように。アルボアに派遣すべくアデルが提案したシスターたちを、ボルドーに集めておくように。そこで、アデルといっしょに最終決定を下すつもりである。選ばれたシスターたちは、ボルドーから直接アルボアに旅立つことになるが(179)、その際、サン・ルミに派遣されるブラザーたちが同伴することになる(180)。シスターたちの旅費は、サクレ・ケールが保管している基金をもってまかなう(181)、とシャミナード神父は説明している。

修道院新設の準備でシャミナード神父が出張しているあいだ、三つの共同体は黙想をしていた。カイエ神父がトナンの黙想を指導したことはアデルにとって大きな喜びであった(182)。また、コンドムの修道院ではムーラン神父が指導した(183)。

アジャンでは、労働修道女(スール・コンパーニュ)のノビスたちも黙想に入った。しかし、スール・サン・ソボールとジェヌビエーブ、ならびにナティビテの三人が病気になったため、仕事に追いまくられることになった(184)。

トナンに身を隠していた小さなメラニも、しばらくのあいだ病床についていた。このとき、アジャンの病院のシスターたちが、無償でメラニの面倒を見てくれたので、必要な手当を受けることができた(185)。しかし、この時サクレ・ケールがアデルにした報告によると、メラニはすでに快方にむかっており、おそらく病院の世話にならずにすむだろう(186)と述べ、引続きトナンの修道院でかの女をかくまっておく、と記している。

ナンシイに到着したシャミナード神父は、友人のフォルバン・ジャンソン司教(BISHOP FORBIN-JANSON)のもとに寄宿し、そこで新設される共同体のメンバーの原案を作成した。それによると、アルボアの共同体の院長にはボルドーのマリ・ジョセフがなり、ゴンザグはコンドムからボルドーに戻って院長兼修練院長の職につく。アルボアに派遣される修道女は全員で10人となるが、マドモアゼル・ダルディがこれに加わる(さらに、もしマドモアゼル・ブルイットもコンドムから動かすことになるならば、かの女もこれに加わる)(187)。

最初、シャミナード神父はエンマヌエルをすくなくとも数カ月のあいだ寄宿舎学校の校長として派遣しようと考えていた。それは、「かの女の容姿とマナーが」その職掌に適切であると考えられたからである(188N184)。もしアルボアの新しい共同体が、寄宿舎学校を新しい生徒にとって魅力あるものとし、マリア会にたくさんの志願者を引き付けるようなものにしたいのならば、最初に派遣される人たちには、なにか「センセイション」を巻き起こすような要素をもっていなければならないと考えたからである。

確かにコンドムでのエンマヌエルは、アンカルナシオンが「内気で気が弱く」「エンマヌエルに命令したり指導することができなかった」ために問題となっていたが、コンドムの寄宿舎学校では、かの女はなくてはならない存在であったため、移動させるわけにはいかなかった(189N185)。そこで、アジャンにいたスール・サン・ジョセフ(デューレンバッハDURRENBACH)を校長にし、同時にかの女を共同体の霊生部長にすることになった(190)。

10月16日、シャミナード神父は予定通りボルドーに帰り、(1826年)10月19日から26日までの男子マリア会の黙想で説教をした(191)。一方、旅行に耐え得るだけの体力を回復したアデルは(病気になったビジタシオンに代わってソダリティの集会に出席することもできたほどであった)(192)、アルボアの共同体に派遣されるアジャンとコンドムのシスターたちを伴って、ボルドーに旅立った。この派遣団には、エンマヌエルも加わった。

ボルドーに着いたアデルは、当地のシスターたちから「筆舌に尽くしがたい喜びをもって」迎え入れられた(193)。数多くのノビスたちにとって、創立者に会うのはこれが初めてであり、他の人たちにとっては、喜びの再会であった。しかし、いとこであったマリ・ジョゼフにとっては、他人に優る喜びを感じながらも、病気で見る影もなくやつれたアデルを見るのは悲しみであり、また、アルボアに旅立てば、もうそれで二度と会う機会は恵まれないであろう(194)との思いに悲しみに沈んだことは言うまでもない。アデルにしても、この再会と、来るべき決別に、「痛ましく複雑な思い」をこころに抱いたのであった(195)。

男子マリア会の修道者たちがシャミナード神父の指導のもとに黙想をしているあいだに、アルボアに派遣されることになっていた修道女たちはカイエ神父の指導のもとに黙想をおこなった(196)。この黙想会では、アデル自身も数回にわたって講話をおこない、とりわけ、この活動生活と観想生活の双方のよさを併せ持つ修道生活への召命の美しさについて語った。アデルはまた、幾度にもわたって、修道女たちに会憲にたいする忠実さと、修道女間の大いなる心の一致に一層忠実であるべきことについて教えさとした(197)。

アデルはボルドーに滞在しているあいだに、グラメニャック家の姉妹やエメと再会し、また、二年前に会ったことのあるマリ・デュブール(198)との再会も果たした。

10月29日、日曜日、出発の日が到来した(199N186)。早朝のミサにあずかり聖体拝領をすませた後、シャミナード神父の特別な祝福を受けて(200)、9人の誓願宣立者と2人のノビスは(201)、午前6時30分、二台のレンタル馬車に分乗して(202N187)出発した。汚れた馬に曳かれたおんぼろ馬車に揺られて行く一行を見て、通りがかりの人びとは目に涙した(203)。

一日の旅は、夜の9時まで続けたとしても、せいぜい数十キロしか進むことしかできない!。 11月18日に(204N188)目的地に着くまでには、3週間と800キロばかりの旅をしなければならなかったのだ(205)。

幸いにして、一行はこの旅行のあいだ、毎日、ミサにあずかることができた。しかし、、椅子に座ったまま眠ったり、床にマットレスを敷いて寝なければならない夜が幾夜も続いた。しかも、旅なかばにして、旅費をすべて使い果たしてしまった。無一文になってアルボアに着いた一行は、サン・ルミのマリア会修道士ブラザー・クルーゼ(BROTHER CLOUZET)の好意で、やっと、このあやしげな御者に旅費の残りを支払うことができたのだった(206)。

この移動共同体(207)が旅路にあるあいだ、他の修道院のシスターたちは旅の安全を祈っていた。毎日、聖体拝領を捧げ、マリアに祈り、聖ヨゼフと守護の天使にそのご加護を祈っていた(208)。

アルボアへの派遣団がボルドーを出発した翌日、アデルはアジャンへの帰途についた。アデルには、コンドムに帰るエンマヌエルと、トナンに向かうスール・マドレーヌ・ド・パッジ(SOEUR MADELEINE DE PAZZI)が同伴した(209N161)。

マドレーヌは、それまで14カ月のあいだ修練をしていたが、トナンで授業をしていたスール・ブリジッタ(SOEUR BRIGITTE)が病気になったため、かの女と交代することになったのだ。スール・ブリジッタの病気が回復すれば、マドレーヌは再びボルドーに戻り、残された修練期間を過ごすことになっていた(210)。

一行はノビスたちに別れを告げ、とりわけ敬愛するゴンザグとシャミナード神父に別れを告げた。そして、この3人のシスターには、帰路の途中まで、新しい任地に赴くブラザーたちが付き添うことになった(211)。

この旅は、先ず、蒸気船で(212)ボルドーから川上の小さな港町「ガロネル(GARONELLE)」(213)まで上り、そこから乗合馬車でトナンまで行くことになっていた。しかし、旅の初めからトラブルが起こった。一行は荷物を一つ置き忘れた — 小さなイソール(ISAURE)の衣類(214N189)が全部はいった荷物であった — 馬車の中に忘れてきたのである(215)。

午後2時、一行はガロネルに到着した。そこからサン・マケール(SAINT-MACAIRE)までは徒歩で行った。しかし、ここで、アデルの表現を用いれば、ブラザーたちはまったく神のことばかり考えており、シスターたちは気を散らしてばかりいたために、ブラザーの衣類をいれたトランク二つを蒸気船のなかに忘れてきてしまったのだ。幸いなことに、一行に加わっていたコリノ修士がサン・マケールに住んでいる父親に連絡をとり、荷物を取り出してもらうことができた(216)。

乗合馬車に乗ると、アデルが体調を崩した。幾度となく嘔吐し、ほとんどの道のりを歩いて行かなければならなかった。マルマンドに到着したのは夜の9時。ここでレストランに入り、食事をした。乗合馬車はしばらくのあいだ止まっていたが、やがてまた動きだした。そして、トナンに着いたのはその日の真夜中近くであった。

トナンでシスターたちが一行を待ち受けていたのは云うまでもない(217)。やがて3人は、床についた(218)。しかし、それも一晩のこと。一行は直ちに旅についた。エンマヌエルが10月31日の夕刻までにコンドムに帰っていなければならなかったからである。

トナンで一夜を明かしたアデルは、翌朝、かなり長文の手紙を大急ぎでゴンザグ宛に書き、旅行の報告をしている。その手紙の中で、アデルは、マドレーヌが祈祷書と聖歌の本を忘れてきたので送ってくれるように依頼するとともに、それと一緒に毛布と敷布を何枚か送ってくれるように依頼した。トナンには余分なものがなかったからである(219)。

また、アデルは、ブリジッタの容体が快方に向い、危機を脱したことを見届け、一安心したとも記している。そして、自分はあわてて出発したため、筆記用具を携帯するのを忘れてしまった(220)とも伝えている。

マドレーヌと、病気になったブラザーの一人をトナンに残し(221)、アデルはエンマヌエルとスール・ルイーズ・マリ(ド・ポルテ)(SOEUR LOUISE-MAIE DE PARTETTS)を連れて出発した。スール・ルイーズ・マリを同伴したのは、アデルの最後の道のりを同伴するためであった。

サクレ・ケールが一行のために乗合馬車の座席を確保してくれた。午前10時、一行はポール・セント・マリに到着した。ここで、トランケレオンから来た馬車に合流し、エンマヌエルはコンドムへむかい(222)、アデルとルイーズ・マリはアジャンの本部へむかった。

トナンに長らく滞在することができないことをアデルは非常に悲しく思った(223)。とりわけ、サクレ・ケールともっと長い時間を過ごしたかった(224)。三つの別れ、すなわち、いとこエリザ(マリ・ジョゼフ)との別れ、ゴンザグとの別れ、そして、アガタとの別れは、深くアデルのこころに残った。

アデルは帰省の翌日、再びゴンザグに手紙を書き、旅行の様子を知らせ、トナンとアジャンのシスターたちの様子を伝えた(225)。そして、ボルドーのノビシアに行くことになっているスール・ジャン・バプティストが、その途中でトナンに立ち寄り、サクレ・ケールに直接いろいろと話をして聞かせてくれるだろうということ、また、ボルドーに着けばゴンザグにも直接話してくれるだろうと述べている(226)。

旅行が終わって2週間目に、アデルはゴンザグに手紙を書き、自分の健康状態がふたたび良くなったこと、アジャンに着いて以来、熱を出していないと伝えてきた(227)。

アデルの生活は、すぐに、いつものパターンに戻った。ゴンザグに手紙を書き、サクレ・ケールに手紙を書き、アンカルナシオンにも手紙を書いた。ブリジッタの経費の整理をし、小さなアンジェルの将来についても配慮し、アジャンにいるポストラントの世話に多くの時間を費やした。また、最近、非常によくきく薬をくれたド・ラクサード氏に、お礼の手紙を書いた(228)。

また、アデルは、その同じ手紙の中で、トナンの修道院では庭園師たちとの隔離があまり十分に行われていないと指摘し、古い扉を閉鎖して新しい扉を作り、仕事場を他の場所に移すようにと提案している(229)。同じような問題が、昨年、コンドムでも起こった(230)と伝え、また、四つの修道院では、どこも例外なく病気に悩まされていること(5番目の修道院は、いま、アルボアで進行中であり、まだ何の音沙汰もない)と伝えている。

アンカルナシオンは、いまだに指導が必要で、アドバイスや励ましを必要としていた。確かにアンカルナシオンは確固たる態度をとるように努めなければならない。しかし、親切心と忍耐力と賢明さを忘れてはならない。なんでも余り真剣にとりすぎないように。また、あわてて行動を起こさないように、とアドバイスを与えている(231)。アデルはこのようにアドバイスした後、病気のポストラントをボルドーに送らないように、とも伝えている。「もう修道会には、十分なほど病人がいます」(232)と記している。

また、アデルは、コンドムに帰って霊生部長をしているセント・フォアに伝言し、かの女がアジャンで面倒をみていた第三会が順調に進んでいること、そして、アデル自身がその養成プログラムを引き受けたことなどを知らせた(233)。

そして、最後に、典礼暦の年末が近づいていることに言及しているが、おそらくこの時、アデルは最近経験した最愛の友との離別を頭に描いていたのであろう、アンカルナシオンに次のように述べている。

「聖人になろうとするわたしたちの本分を、両腕をひろげて抱きかかえようではありませんか。もう、そうする時期にきていると思います。疑いもなくわたしたちの人生の四分の三は、もはや過ぎ去ってしまいました。申し開きができるように急いで準備しましょう。いつでもランプに火をともし、準備をしていようではありませんか。天国の浄配は、わたしたちが一番予期せぬときに訪ねてこられます。もしその時わたしたちに準備ができていなかったとしたならば、なんと不幸なことでしょう」(234)。

また、サクレ・ケールにたいしては、いまからクリスマスまで「会則に忠実でありましょう。会則こそわたしたちを天国に導いてくれる道なのですから・・・」(235)と注意を促している。

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