◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第19章 1822年−1824年 

ビルフランシュとの合併の中止
病気と死 / アデルの病気
コンドムへの進出計画


1820年9月、ビルフランシュの修道女たちが終身誓願を宣立した(1)。アデルはこれで二つの修道会が合併する可能性はなくなったと考えた。

マーティ神父の側からも、シャミナード神父の側からも、合併運動を続ける気配は全くみられなかった。しかし、それでも、アデルとエミリの文通は続けられた(2)。

アデルは希望を捨てなかった。「わたしは、しばしば、ビルフランシュを思い、考えています」(3)とアデルは書き送っている。
 1822年の7月初旬、健康を快復したエミリは、長い間手つかづのままで放置されていた二つの修道会の合併計画を推し進めようと動きだした。これを知ったアデルは興奮した(4N153)。タイミングは最高であった。7月の6日か8日に、シャミナード神父がアジャンに来る。2・3週間は留まるだろう。

早速、アデルは、マーティ神父にアジャンへ来るように(夏の暑い日、二日間の旅であった)提案し、シャミナード神父と直接面談して細事を話し合ってくれるように勧めた。

こうすれば、マーティ神父自身、直接アジャンの修道院を見ることができるし、最終的な決断を下す前に、エミリにアジャンの状態を報告してもらうことができる(5)。ところが、これ以上にアデルを喜ばしたことが起こった。それは、最初ジャクピー司教が提案したように、エミリ自身がマーティ神父と一緒にアジャンを訪問することになったのである(6)。

7月中旬、アジャンでの黙想が終わるころ、一行は船で(7)到着することになった。シャミナード神父とマーティ神父は大神学校に宿泊する。そうすることで二人は十分に話し合う時間を持つことができる。とりわけ夕刻には、そうだ(8)。

エミリは、スール・アガタと、(アジャンのスール・カタリンヌとスザンヌ・デュフォの肉親の姉妹である(9))スール・ドシテを同伴したと思われる。当然、この三人は女子マリア会の修道院に寄宿することになった。トナンからのテレーズも、シャミナード神父が指導する黙想会に参加するため、また、長い間待っていた休息をとるために、アジャンに来ていた(10)。

エミリとその一行は、アジャンでの体験、とりわけ祈りに満ちた共同生活、共同生活の規則と会則にたいする忠実な態度、修道女たちの謙遜と愛徳、に深い感銘を受けた。自分たちの修道女をアデルの指導のもとに置けば、多くを学ぶことができるだろうとエミリは考えた(11)。

マーティ神父とシャミナード神父は、早々に合意に達し、合併の決定が下された。エミリもアデルも、この決定を一日も早く実現したいと考えた。

女子マリア会の修道女たちは全員この合併に合意し、エミリも、自分のシスターたちが合意するだろうと確信していた(12)。

シャミナード神父の(修道会の精神を変質させることには絶対に反対)立場と、ジャクピ司教の(女子マリア会を自分の教区にとどめておく)立場を守りながら、合意の条件はきわめて単純なものとなった。すなわち、ビルフランシュの共同体はマリアの娘たちの修道会に合併する。アデルは、(これで)三つの修道院を統括する長となり、本部はアジャンに置く。ビルフランシュの修道院にかんしては、マーティ神父がいままで通り教会の長上としての地位を保ち、シャミナード神父が三つの修道院の全体的な監督にあたる。ビルフランシュの修道女たちはマリアの娘の会の会憲を受け入れ、アデルを総長として頂き、その配下に入る。エミリはビルフランシュの院長になる(13)、というものであった。

全員が合意に達すると考えたエミリと二人の同伴者は、この決定を知らせるために、急いで家路についた(14)。エミリは、早速、共同体を集めて決定事項を知らせ、この合併案から生じるであろうあらゆる利点を説明した。これまでのところ、修道女たち全員がこのプロジェクトに好意的であった。しかし、合併条件が提示されると、エミリを含めて全員が他の二つの修道院(将来はもっと沢山の修道院)へ移転させられる可能性があること、そして、その結果、エミリの指導のもとに生活を送る保証がなくなることが明確になると、かの女たちは早急にこの合併プロジェクトの見直しを提案した。こうして合併の提案は全員一致の内に、しかも、熱狂的な雰囲気の中で否決された。どのような事が起ころうとも、自分たちを創立者から引き離すことがあってはならない、との結論を出したのであった(15)。

「ビルフランシュの修道女たちは合併の条件を受け入れてくれません」、とエミリは書き送っている(16)。

一方、アデルはどうであったか。

合併の可能性を完全に捨て去ることが「わたしの心を傷つけないと云うならば、それは嘘になります。どういうわけでしょう。わたしの心の中には、いまだに合併への強い願望が残っております。しかし、わたしはそれを神への犠牲としてお捧げ致します。わたしが望むのは神のより大いなる栄光のみです」、とアデルは述べている(17)。

二人は大きな落胆を経験しながらも、それから何年も文通を続け、経験や共同生活について分かち合った。この二つの修道会は共に成長を続け、ビルフランシュでは、その同じ年の10月に分院を創設した(18)。

アデルがいままでエミリと分かち合い、これから何ヵ月かのあいだ、苦しみの内に分かち合うことになる経験の一つとして、二人のシスターの病気の問題があった。この病気は、やがて年若い二人のシスターを死に追いやり、アデルの心を引き裂くことになるのだ。

その一人はスール・エリザベト・デジェ(SOEUR ELISABETH DEGERS)(1819年に死亡したスール・エリザベト・レスペ(SOEUR ELISABETH LESPES)とは別人である)であり、もう一人は、女子マリア会の精神の化身ともいうべき(19)スール・テレーズ(CLEMENTINE)ヤナッシュであった。

すでに記されたように、エリザベトとその姉妹テレーズ・ド・サントギュスタン(THERESE DE SANT-AUGUSTIN)は、1820年9月6日、修道院がアウグスチノ会の建物に引っ越したその日に受け入れられた最初の志願者であった。その時、エリザベトはわずか17才であり、かの女の家庭教師はエリザベトの両親にたいして、かの女の入会に反対していた。このことで、将来、家庭紛争が起こるのではないかと、アデルは感じていたほどである(20)。しかし、どうやら家庭教師はなだめられ、エリザベトは修道院に留まることができた。アデルが述べているように、かの女は「すばらしいポストラント」であった。また、文字を書くのが上手であったため、学校の規則のコピーを作る役を与えられたほどであった(21)。かの女は「火山のようなエネルギー」の持ち主であったが、同時に非常に穏やかな性質の持ち主でもあった(22)。

入会して三ヶ月ばかりたった頃、熱を伴う激しい風邪におかされ、回復するまでに一カ月以上も要した(23)。2月の初旬には容態は改善されたが(24)、まもなく、かの女は再び病に倒れた。内臓が燃えるように熱く、熱と咳を伴う激痛を訴えた(25)。アデルはシャミナード神父に相談した。師は、少なくとも自分が訪問する(1821年) 5月まで、かの女を修道院にとどめておくように提案した。その間アデルは、こころのこもった母親としてのあらゆる配慮を怠らないように、との忠告もした。修道院を出てどこか「田舎」へ行くようにとの提案を受けていると聞くが、広々とした庭のあるアウグスチノ会の建物以上にすばらしい空気のあるところは他にないと思う、とシャミナード神父は述べている。そして、ムーラン神父に、かの女の両親と家庭教師を説得して、修道院にとどめて置くようにした(26)。

一カ月が経過した。かの女の容態は以前より悪くなった。7月には、自宅に帰る許可をシャミナード神父に取り付けた。良くなるかどうか様子を見るためであった。修道院を離れたときのエリザベトの状態はひどいものであった。しかし、もし身体の調子が許すならば、ときどき修道院に帰ってくるようにと、かの女を励ました。「お祈りください」(27)とアデルはテレーズに述べている。

それから2年後の1823年9月、長いあいだの苦しみののち、エリザベトはとうとう自宅で息を引き取った。2年以上も修道院を離れていたが、アデルはかの女のことを「ポストラント」と呼んでいる。この親愛なる魂が神のふところで安らかに憩うことができるように、エミリとその修道女たちにも祈りをお願いした(28)。

エリザベトの死後、かの女の姉にあたるテレーズ・ド・サントギュスタンは、霊生日記の表紙に「死」と記している。かの女自身もまもなく死ぬであろう、と予感していたのかも知れない(29)。事実、それから16カ月後に、かの女は死んだ。

しかし、かの女が死ぬ前に、アデルの親愛なる友人であり、かつ、創立以来の協力者であったスール・テレーズに死が訪れた。生まれながらの美貌と素晴らしい人格に恵まれたスール・テレーズは、たぐい稀な親切心と聖性の持ち主だった、とマリ・ジョセフは述べている(30)。

スール・テレーズは、新しく生まれた共同体の最初の霊生部長になり、「避難所」では、ソダリティの「いちじくの木の部会」を担当したのであった。エンマヌエルと緊密に協力して、積極的に女子青年のグループで活動した(31)。

召命について自信を失い、疑いをもったテレーズが、やっとその苦しみから逃れ出たとき、シャミナード神父はかの女に次のように書き送ったのだった。

「この修道会、この修道会全体、そして私たちは、十分なものを持っています。すなわち、会則は修道会の精神を具体的に表現しているのです。会の精神を立派に身につけた霊生部長は、共同体全体に生命を与える強力な手段です」(32)。

テレーズは修道会の精神を本当に自分のものとし、他の人たちにもその精神を植え付けようと誠心誠意努力した(33)。この精神を傷つけないためにと、シャミナード神父が考えて、かの女の外的な奉仕活動に制限をくわえたのだったが、テレーズはこれに謙遜と従順のこころをもって従った(34)。

アデルはテレーズを、会の精神の権化だと考えていた。そして、この精神をビルフランシュに伝えるためには、テレーズが最適人者だと考えていた(35)。そして、アジャンの修道会が最初に外部に進出しようとしたとき、アデルとシャミナード神父は、かの女をトナンの新しい共同体の院長として選んだのであった(36)。

テレーズはトナンで修道女を会の精神に忠実に生きるように指導した。共同体の祈りと心霊修業を指導したのもテレーズである。恵まれない人たちのための無料の授業を開設するために改築工事を手がけたのもテレーズであった(37)。女子青年のソダリティを育てたのもテレーズであり、貧しい子供たちの親たちが修道女たちに与えるために雇主から盗みを働いたと抗議する民衆と話し合ったのもテレーズであった(38)。スール・テレーズは、また、マダム・ベルディエ(MADAME VERDIER)を病床に見舞い(39)、トナンの聖職者やラリボー神父との関係を維持し(40)、共同体が必要としていたことがらをアデルに報告し、修道女各人についての報告をしたのもかの女であった(41)。

テレーズは、また、シャミナード神父と連絡をとり(42)、霊的に慰めを必要としている人を助け(43)、個性の強いデビッド・モニエ修道士と心棒強くつき合ったのもかの女であった(44)。かの女は、また、志願者を受け入れ(45)、修道会を離れた人の面倒をみ(46)、在俗第三会の仕事を成功に導くようにスール・ドシテを監督し(47)、恵まれない人たちを助けるスール・サン・フランソアを助けたのもかの女であった(48)。

しかし、テレーズは健康に恵まれることがなかった。修道会創立以前も、かの女の病気はいつも心配のたねだった(49)。トナンに移って2年のち、かの女は重病にかかり、死にひんしたことがあった(50)。アジャンの修道院に起居していた母親は、かの女を見舞いに行き、アデルは、授業やその他の仕事の労苦を少しでも軽くするために応援の手をおくったことがあった(51)。ド・ラクサード氏はテレーズの健康快復に尽力し、かの女の健康状態を注意深く観察してボルドーに報告した。シャミナード神父は、このド・ラクサード氏の努力に感謝している。

1822年の春、モニエ士は、ふたたびシャミナード神父の所用でアジャンを訪れた。その時かれは、テレーズをマザーハウスに呼び返した方がよいのではないだろうかと提案した。これにたいして、テレーズの容態が安定し、ド・ラクサード氏の同意が得られるならば、返しても良いだろうとシャミナード神父は考えた(52)。

シャミナード神父自身、まもなくアジャンを訪れることになっていた。そのときまでに、もし、テレーズが元気になっているならば、ドシテに留守番を任せて、トナンからアジャンまでシャミナード神父に同伴するように提案した(53)。

トナンの人びとは、テレーズを敬愛していた。老若男女、富めるものも貧しい人も、今では群をなして教会に集まり、テレーズの快復を神に祈った(54)。かれらの祈りは空しくなかった。アデルはエミリに書き送っている。

  トナンの院長がほとんど死にひんしていましたが、祈りがかの女を救ってくれました。かの女はまったく掛替えのない人です。わたしたちの修道会にとって、高価な真珠のような存在です。わたしたちの父、シャミナード神父は、かの女をわたしたちのもとに送り返し、休息させて、病気を治そうとしました。天使のようなシスターをもう一度迎え入れることができると思うと、わたしたちのこころは大きな慰めで一杯になります。かの女のためにお祈り下さい。この病気が、かの女の肺に癒すことのできないダメージを与えてしまったのではないかと心配しています(55)。

テレーズは、事実、アジャンに来ることが出来た。1822年には、アジャンで黙想をおこない、誓願を更新した。また、エミリとその仲間たちが訪れたときも、かの女はアジャンに滞在していた(56)。アデルはあふれんばかりの感謝のきもちをもってド・ラクサード氏に手紙を書いている。

「慈悲深い神さまは貴方の手をとおしてわたしたちの大切なメール・テレーズを救って下さいました。お礼の申しようもございません」(57)。

休みをとったテレーズは、再びトナンに帰り、その任地での職責を以前以上に忠実に遂行した。しかし、かの女の病も、かの女の努力も、シャミナード神父の厳しい叱責からかの女を免れさせることはできなかった。事の次第は、次のようであった。

トナンでは、財政状態がきわめて苦しくなった。スール・サンテスプリは、修道院の支出のために、慈善箱の寄付金にさえも手をつけざるを得ない状態であった。7月、アジャン訪問の途路トナンに立ち寄ったシャミナード神父は、かの女から苦情を聞き、かの女の信頼心のなさを叱責した。そのように心配することで、神様の摂理のわざを空しいものにしているのではないか、とシャミナード神父はかの女にさとした。実際、修道院の財布には、5フランか6フラン程度のお金しか残っていないかも知れない。しかし、最初トナンに来たときは、修道院の財布はまったく空だった。それでも、一度も貧困にきゅうしたことはなかったのだ、とさとしている(58)。

このよな財政状態にテレーズは悩んだ。健康上の理由でノビスであるアンカルナシオンをトナンに送ると知らされたとき、宿泊費と食費を払ってくれないだろうかとサンバンサンに相談を持ちかけた。これにたいしてひどく腹を立てたサンバンサンは、アデルに相談することもなく、早速、シャミナード神父に手紙を書いた。師は、いたく腹をたてた。師を怒らせたのは、このような信じ難い態度であった。もっと大きな金銭上の損失でも、かれをこれほどまでに怒らせることはなかっただろう、と師は断言している。

このような安っぽい人間的な打算は、み主の仕事をする者としてはふさわしくない。このような考えで仕事を続けるならば、なにごとにも善をなすことはできないだろう。もしテレーズに直接手紙を書く機会があれば、その罪を告白し、償いをするようにかの女に申し渡すだろう、と記している。そして、このように自分が云っていたことをトナンに書いてやるように、とサンバンサンに述べ、また、アデルにもそのように伝えるように、と師は厳しく指示している(60)。

3カ月たったのち、トナンに移ったのはアンカルナシオンではなく、マリ・ジョゼフであった。マリ・ジョセフは、1822年11月21日、アンカルナシオンと(61)、メラニ、アントワネット、ジュスタン、および、ビジタシオン(62)と共に、初誓願を宣立したばかりであった。

トナンに送られたマリ・ジョゼフは、テレーズの状態をアデルに報告しつづけた(63)。かの女は修道院の霊生部長になり、テレーズの仕事を少しづつ軽くするために、ソダリティを担当することにもなった(64)。スタニスラスもトナンに移った。その移動も、アデルにとっては、もう一つの悲しい離別であった(65)。

翌年(1823)の夏、テレーズは3年間の院長の任期を終わろうとしていた。シャミナード神父は、もし健康が許すならば、テレーズをアジャンに返したかった。トナンにいるよりもアジャンにいるほうがド・ラクサードの指示を忠実に守ることができるだろう、とシャミナード神父は考えた。アジャンに帰れば、テレーズはアデルとサンバンサンの直接の監督のもとにおかれる。霊生部長の仕事をもう一度受け持つことになるとしても(66)、仕事は軽くなるだろうと考えた。(いまのところ、サクレ・ケールが霊生部長であり、かつ、修練院長を兼ねている)。

しかし、ド・ラクサード氏は、テレーズを動かすことは賢明でないと判断した。事実、10月になると、テレーズの病状はふたたび悪化したのであった(67)。

この知らせにこころを痛めたアデルは、エミリに次のように記している。

   わたしのこころは大きな苦しみで二つに裂かれています。敬愛する娘、メール・テレーズが死の床にあります。去年とおなじように、何回か病気の再発を繰り返し、とうとう最期に近づきました。どのお医者さまも、快復の見込みはないと云っておられます。この聖なるシスターを失うことを考えるだけで、姉妹たちは悲嘆にくれ、スール・テレーズが居ないまま背負い続ける重荷に打ちひしがれています。奇跡が起こってくれればよいのですが。わたしたちは聖なるおとめに誓いました。この大きな損失から修道会をお救いくださるように、あちこちで、み主に祈りが捧げられています。人間的に考えれば、この損失からわたしたちは免れることはできません。どうか、かの女のために祈るわたしたちの祈りに参加して下さい・・・。死の床にあるかの女は聖人のようです。いつも唇に微笑みをたたえ、天国のことばかり話しています。まもなく天国で憩うことができると確信しているのです。さようなら、親愛なるシスター。かの女のような徳をわたしも身につけることができますように、お祈り下さい(68)。

テレーズが病床に臥していたのでサクレ・ケールがトナンに送られ、院長代行になった。ノビスは少なくとも13人いたであろうか(69)。修練長の仕事はスール・ド・ゴンザグが継いだ(70)。霊生部長の仕事はスール・セント・フォアに引き継がれた。スール・セント・フォアは、以前にトナンから呼び戻されていたのであった(71)。

スイス人の志願者で1822年8月に入会したノビス、セント・ソボール(SAINT-SAUVEUR)もトナンに送られた(72)。共同体を強化するためであった。しかし、それもテレーズのためには手遅れであった。アデルはサクレ・ケールに奇跡を望むと手紙で書いている。アデルはテレーズに、神のより大いなる栄光のために、一日に少なくとも九回聖マリアのみ名に祈るよう勧めた(73N154)。

なんらかの治療を、もっと早い時期に、施して上げるべきではなかったのか、とアデルは考えた。しかし、今では何をすることはできない。ただ、テレーズを励まし、苦しみを修道会とそのメンバーのために捧げてもらうことだけである。そして、とりわけ、修道会の上に立つ人たちのこころが照らされるように、病気からくるその苦しみを捧げてくれるようにはげますのであった(74)。

死の床にあるテレーズは、終わりが迫っていることを悟っていた。そして、イエス・キリストを知らせ愛させるために修道会に身を置くことができたことを神に感謝していた。神の偉大なる愛を語り、姉妹たちに主を賛美する詩編(詩編117)をとなえてくれるように頼んだ。短く、静かな最後の悶えの後に、魂を天に返した。時に、1823年11月3日、午後10時のことであった(75)。30才には、3カ月足りなかった。

アデルは親しい友であり協力者であったテレーズを喪った悲しみに打ちひしがれながらも、同じように悲しみにしずむ他の人びとを慰めることを忘れなかった。テレーズはみんなが歩む道をほんの何日かさきに歩いて行ったに過ぎないのです、とアデルはアガタに述べている(76)。また、ドシテにたいしては、「テレーズをお手本にしましょう。神のご意思に完全に身をまかせたかの女は、それがかの女の卓絶した善徳でした」(77)と述べている。

トナンでは修道院の敷地内に墓地をつくる許可があったため、囲壁の中庭に埋葬された(78)。死んだ後も修道院を出る必要のなかったテレーズを、アデルは幸福な人だと思った(79)。

アデルはエミリに訃報を伝えた(80)。シャミナード神父はモニエに伝えた。当時モニエ氏は、フランスの北東部に出かけていた。ブラザーたちが、その地方に進出しようとしていたからである(81N149)。テレーズは聖人のような死を迎えた、とシャミナード神父はモニエ氏に伝えている。この時、モニエ氏は修道院に、スール・テレーズと同じように大切な人になるであろうと考えられるもう一人の志願者のためにも祈りを捧げてくれるように、と依頼している(82)。

それから一月してシャミナード神父は、サンルミ(SAINT-REMY)にあるブラザーたちの最初の共同体に手紙を送り、つぎのように述べている。

「トナンにおけるマリアの娘たちの修道院長であったメール・テレーズは、聖徳の香りのなかでその魂を神に捧げました。かの女が死んでからというものは、この修道会は、かの女に守られているといことを、ハッキリと感じ取っています」(83)。

また、シャミナード神父はコンドムのカステックス神父に手紙を書き、テレーズの死が修道女たちに豊かな恵みをもたらしていると述べ、盲でなければその効果を否定することはできないだろうと記している(84)。

アデルも、テレーズが修道会を見守ってくれていることを確信していた。たとえば、テレーズの死後、スール・サンバンサンの変わり様には、目を見張るものがあった。いまでは親切で忍耐深くなり、まるで別人のようになってしまったのだ(85)。また、(テレーズの妹で少し精神的によわい)スール・サン・サクラマンの回心も予期しない出来事であった。アデルはこれを奇跡と呼んでいる。いまでは、スール・サン・サクラマンはりっぱに修道生活を送っており、共同体全体の手本になっている。「わたしは、この変化が聖なるメール・テレーズによるものだと思っています」、とアデルは述べている(86)。

トナンの共同体は、テレーズの亡き後、悲しみの内に、将来に備えて体制の組替えをおこなった。院長に任命されたのはサクレケール(87)、マリ・ジョゼフは霊生部長(88)、スタニスラスは教育部長(89)、財務部長は以前のとおりサンテスプリであった。そして、在俗第三会の院長にはドシテがこれに当たった。

テレーズが死の床にあった数カ月のあいだ、アデル自身も健康の不調に見舞われた。1819年の暮れ、アウグスチノ会の建物に引っ越したころに患った病気から、もうすっかり快復したと思われていた(90)。その冬は、他のシスターたちが病気になったのに、自分は風邪さえ引かなかったのだ(91)。
この頃病気にかかったシスターたちには、共通した症状がみられた。咳が出て、ときには血を吐くことがあった。そして、そのようなことが原因して、病人だけでなく健康な人も睡眠を妨げられることがあった。また、わき腹や胸に激しい痛みを起こすことがあった。医者が施した療法はごく一般の治療法で、放血したり、ヒルに血を吸わせたり、吸引カップを利用したりすることだった(92N58)。原因は血液だと考えられ、アデルもこの医者の考えに同調していた(93)。

この間、アデルは25人の修道女を擁する共同体全般を統括する仕事(93)に加えて、数多くの対外活動を監督し、かの女の言葉をかりるならば、病気になったシスターたちの「すべての仕事の代理人」となって働いた(95)。

空気のよいアウグスチノ会の建物に引越した後も、病気は少しも下火にならなかった。1821年2月、ベロック医師の診断によれば、スール・スタニスラルは結核に冒されていた(96)。スール・サンバンサン、エリザベト、そしてその他数人の人も、当時、やはり病気にかかっていた。4月になってルイーズ・マリが病気になった。かの女は、その年の11月に死亡した(97)。

7月にはエリザベトが修道院を離れ(98)、自宅で死亡した。9月にはアデレイドが病気になり、ロバのミルクをほんの少し飲むことができただけである。肩とわき腹と胸に痛みをおぼえ、咳は少なかったが、激しい頭痛に見舞われた。かの女にはヒルによる吸血療法がほどこされ、発泡剤(VESICATORY)が用いられた。しかし、ほとんど効き目はなかった(100)。

翌年(1822)も、同じような状態が繰り返された。5月になると24才のノビスが死の床についたが、そのとき、病室は病人でいっぱいだった(101)。8月になると、3カ月の無意味な風邪ののちに、アンカルナシオンが重い病気にかかった。なす術をうしなったアデルは、ド・ラクサードに手紙でアンカルナシオンの症状を詳しく知らせた。アデルはこれにベロック医師とラフォール医師の報告書を添え、もしお力になってくださるならトナンにかの女を送らせていただきたい、と伺いをたてた(102)。11月になると、誓願を立てるまでに快復したアンカルナシオンであったが(103)、それ以降、かの女の健康はもとのように強くなることはなかった。

この頃、シャミナード神父はアデルの状態を憂慮し、サンバンサンの監督のもとにおいた。健康のために良いと思われることは、すべてサンバンサンの考えに従わねばならなくなった。「サンバンサンは、あなたの健康の指導者です」とシャミナード神父はアデルに述べている(104)。

アデルの重圧になっていたのは修道会を統括し、病人の世話をすることだけではなかった。1823年の半ばまでには、アデルはシャミナード神父と、もう一つの修道院、ことによれば、もう二つの修道院、を新設する計画に取り掛かっていたのだ。

トナンとアジャンの両修道院の財政状態は芳しくなく、神の摂理におまかせしていたとはいえ、これもアデルのこころを悩ましていた。このような貧しさのどん底で、「どちらを向いても借金ばかりで、金利がかさみます・・・実を云えば、これは時には、わたしを悩ませていますが、それでもすべてを神様の摂理のみ手にお委ねいたします」(105)、と云うのがアデルの反応であった。

幸いなことに、絶え間なく苦悩が続くこの時期に、アデルは三人のアシスタントから大きな協力を得ることができた。霊生と修練院にかんしてはサクレ・ケールから、教育とソダリティにかんしてはエンマヌエルから、そして、労働と財務にかんしてはサンバンサンの援助を受けていた。たしかにサンバンサンは時として気乗りせぬことがあり(106)、エンマヌエルは病気がちであった。しかし、ひとり強靭な健康を維持したサクレ・ケールと協力して、共同体の仕事を大いに助けてくれた。

しかし、1823年の暮れになると、アデルが一番頼りにしていた修道女が何人かトナンに派遣された。トナンではテレーズが死の床にあり、二つの修道院では病人が後を絶たなかった(たとえば、その前年の10月に入会したフランソアは、すでに2カ月間病床についたままになっていた(108))。このような状態で、過労がアデルを苦しめ始めたとしても、当然のことであろう。

サンバンサンやその他のシスターたちがアデルに仕事を控え目にするようにアドバイスし、健康にもっと注意するように促したが、アデルは普段のとおりのスケジュールで生活を続けた。今では義務づけられた長風呂のあいだに、手紙を書いたりもした。

アデルはいつも消化不良に悩まされ、食事を減らすことによって −ときには食事をとらないことで− この問題を解決しようとした(109)。

とうとう、1820年の時と同じように、シャミナード神父が干渉することになった(110)。

1824年の四旬節が近づいた。これはシャミナード神父にとって絶好の機会であった。カイエ神父(FATHER CAILLET)を通じて、各共同体に四旬節の遵守についての指導書を出したのである。それによれば、修道女が必要とする規則の例外と緩和措置は、アデルが出すことになっていた。もし疑問に思われるときは医師に相談し、その決定に従う。疑いのあるときは、償いよりも健康に重点をおく、というものであった。アデル自身にかんしては、命令は明確であった。医師のすすめに従うことであった。

アデルが医師の診断を受けるときはサンバンサンが同席し、医師が与える指示とその処方に対処するのもサンバンサンの役目であった。医師の指示は、食事と四旬節の戒律に適応されるだけでなく、アデルの健康に少しでも影響を与えるであろうあらゆる職責にも適応された(111)。

シャミナード神父は、また、サンバンサンに直接手紙を書き、アデルの健康を保持するために必要と思われることは何にてもあれ、シャミナード神父の権限にもとづいて、従順の名の元に、アデルに命令を下す権利を与えた。サンバンサンの命令は、シャミナード神父の命令であった。神の聖意はサンバンサンの意思を通じてあらわされる。たとえ共同体や使徒事業の必要性に迫られている状況においても、それに変わりはなかった(112)。

このような従順がアデルにとってどれほど辛いものであるかを知っていたシャミナード神父は、それから数日たって、アデルに次のように書き送っている。

「あなたに処方された食事療法に、単純な気持ちをもって従いなさい。なににもまして今あなたが必要としているのは休息だと思います。身体のためにも、魂のためにも、休息することはあなたにとって良いことです。あなたが従って下さるだろうことを信じています」(113)。

アデルは過去もそうであったように、今度も自分自身の過度な自己愛と、他人から世話をしてもらうことへの満足感でこころを悩ますであろう事は、シャミナード神父には分かっていた。いろいろな形で不適当な言い訳をアデルがするであろうことも分かっていた。それだからと云って、アデルにどうさせることが出来るのだろうか。なにもない。ただ、従わせるだけなのだ。

四旬節の戒律を守ることにも、また、それを守ることが出来ないと嘆くことの中にも、好ましくない自己愛が潜んでいる。また、自然な欲望を満たしてくれるような命令に従うことの中にも自己愛が隠れている、とシャミナード神父は指摘している。たとえサンバンサンが間違っているかに思えても、また、自分が必要としている以上の配慮をしていると思っても、もしあなたがサンバンサンに従うならば、間違いをおかすことはないだろう。素朴なこころで喜びをもって従いなさい、とシャミナード神父はアデルを諭している(114)。

アデルの休息は完ぺきなものでなければならなかった。講話や訓話をしたり、個人的な面談をすることも禁じられた。共同の祈りに出席したとしても、大きな声で祈りを唱えることは許されなかった。大斉も小斉もなかった。ソダリティの集会に出席することも許されなかった(115)。ベロックとサンバンサンがエンマヌエルを助けたり、もし必要とあるならばこの二人がかの女たちに代わることもあった(116)。アデルに許されていたことは、一日の限られた時間に手紙を書くことだけであった(117)。受け取る手紙や出す手紙の検閲は、セント・フォアが受け持つことになった(118)。

アデルはこの命令に従った。しかし、それはかの女にとって決してやさしいことではなかった。「己の意思に死ぬことができるまで頑張り通そうではありませんか」(119)。むかしアソシアシオンで頑張っていた頃のような調子で、アデルはサクレケールにこのように記している。

わたしの苦行は一日に数回食事をとることであり、肉や美味しい食事をすることです、とアデルは友人に述べている。今までに十分食べなかった罰かも知れません、とも述べている。アデルは消化不良を口実に食事を少なくしていた。しかし、今では沢山食べることで苦しんでいる(120)。この病気と、その療法が、自分の霊的生活の害にならないことを期待した。シャミナード神父が予想したように、アデルはいろいろな誘惑に見舞われた。そして、自己愛によってすべてが滅ぼされてしまうのではないかと心配した(121)。

最初のころ、シャミナード神父の予想では、2週間も休めば健康を取り戻すのではないかと考えられた(122)。アデルやその他の修道女の診察のためにアジャンに出向いたド・ラクサード氏も、もうその頃には治っているだろうと考えていた(123)。しかし、四旬節が終わっても、アデルはまだ病床から離れることができず、医師も仕事につくことを許してくれなかった。もしアデルが仕事をしようとすると、それが些細なことでも、頭痛を起こし、脚に痛みを与える、とアデルはアガタに打ち明けている(ちょうどアメリ・ド・リサンの症状のようだった)。聖木曜日の夜を共同体とともに聖堂で過ごすことができず、ベッドで過ごした。このようなことは修道院にきて以来初めてのことであった(124)。

アデルの健康をおもんばかったサクレケールは、環境をかえ、休息をとり、シスターたちと会うために、トナンに来てはどうかと誘いかけた。アデルはシスターたちに会いたいのはやまやまであった。しかし蟄居の規則を大切にして、院外に出るのを断念した。このようにして出かけるのは公式訪問ではなく、休みをとり、友情を温めるために過ぎない、と指摘し、上に立つものは蟄居の意味を大切にして、その結果生じる規制をよろこんで受け入れる姿勢がなければならない、とアデルは考えた。しかし、もしシャミナード神父がトナンに出かけることを望んでおられるのなら、その限りではない、と付言している。

「シャミナード神父さまは、わたしよりも神様に照らされております。ですから、どのように振舞うべきかを、良くわきまえておられます。慈悲深い神が、わたしたちに理解できないことを神父さまに理解させてくださいますように。神父様さま照らしてください」(125)。

それから一月以上もたった5月、アデルはサクレケールに手紙を書き、長い間の沈黙を詫びている。

もっと頻繁に手紙を書きたいと思いながらも、病気がそれを拒み、書きたいと思う手紙を書いたり、連絡をとりたいと思うすべてのシスターに手紙を書くことは、この病気では不可能だ、と述べ、今は以前よりも良くなっていると思うけれども、医者は再度、発泡剤の療法をおこなった。これは、まるで火で焼かれるような痛みを与える。でも、これで元気になれるのならば(126)・・・と述べている。

アジャンに予定よりも長く滞在していたラリボー神父は、幾度かアデルを見舞ってくれた。以前ラリボー神父のアソシエイツであった人たちも、何人かアデルを見舞いにきた(127)。

サクレケールに手紙を書いた翌日、エミリにも手紙を書いた。お互いに沈黙を守っていたのは、無関心になったからではない。忙しすぎたのであろうか。「いえ、わたしは何を云っているのでしょう。仕事ですって? もう2カ月も仕事をしていません。四旬節の2週間前から何もしていません。わたしは病気なのです。8カ月のあいだ、わたしの健康は蝕まれつづけてきました。そして、とうとう四旬節に床についてしまいました。まだ完全に良くなっていませんが、元気を取り戻しつつあります。極度の疲労を感じ、それに、ほとんどいつも微熱があり、肺に炎症を起こしています。起床は遅く、就寝は早く、立派な食事をし、大斉も小斉もないという、厳しいプログラムにしばられています。わたしは全くなにもしていないのです・・・」(128)と伝えている。

また、アデルはその手紙の中で、エンマヌエルも今はひどい風邪を引いているが、それでもソダリティの集会ではピアノを弾くことができること(129)、また、ノビスの一人がソダリティの授業を受け持つようになり、いまでは上手になってみんなから慕われていることなどを述べ、「わたしたちは忘れられてしまいました」と付言している(130)。

6月、アデルはいまだに「厳しい管理」のもとに置かれていた。起床は7時で、夕食のあとすぐに就寝した。「どなたかのシスターと話をする許可を得ようと思えば、ほとんど叫び声を上げなければなりません。それでも、わたしはシスターたちと話さなければならないと感じるのです」(131)。アデルは悲しげに、このように訴えている。

7月、ド・ラクサード氏は、アデルがかなり快復したと判断した。問題は胃の不調だ。しかし、それは、アデルがサクレ・ケールに述べているように、今までもそのようであったので、別段病気ではないと考えていた。なにはともあれ、アデルはこの頃、二つの新しい修道院創設のため、他のシスターに同伴して外出している(132N55)。

最初に行った場所はコンドムである。ロロットが逃避行をおこなって落ち着いているとはいうものの、両親はいつまでもそんな遠方の場所に娘がとどまっていることを諦めず、なんとかして娘を近くの場所に呼び寄せようと、方策を練っていた(133)。

ちょうどこの頃、コンドム市は何百年もの歴史をもつ巡礼地を競売に出した。ロロットの両親は、これは娘を身近に呼び寄せるチャンスだと考えた。

コンドム市からバイーズ川を渡ったところに(この川は、トランケレオンを流れている川と同じである)、この地の人びとの手によって一つの教会堂が建立されていた。1520年のことである。この教会は、願い事を聞き入れていただいたお礼として建てられたもので、ノートルダム・ド・ピティエ(NOTRE-DAME DE PITIE)(あわれみのおん母)に奉献されていた。

人びとはこの教会をピエタ(PIETAT)と呼び慣わし、この地方での大切な聖地に数えられていた。この教会には専属の宗教団体がつくられ、とりわけご復活の祝日には豪華な行列が催された。1655年、教会が建立されて100年以上もたったころ、この教会の近辺にホスピスが建てられ、神の聖ヨハネ修道会の修道士たち(BROTHERS OF ST. JOHN OF GOD)に委託された。この教会と、そこに安置されている聖マリア像を通して与えられたと種々のお恵みや奇跡は、後世にまで語り伝えられた(134)。

フランス革命は、修道士たちを追い払った。熱狂的な反宗教派の人びとは暴動をおこし、この教会とマリア像を焼き払ってしまった。病院はコンドム市の手に渡った。ナポレオンのコンコルダが成立すると、部分的に、この教会は復旧した(135)。患者の世話は病院のシスターにまかされ(136)、カステックス神父が病院付きの司祭になった(137)。

1820年、市は病院を他の場所に移動し、ピエタを含めたその建物と土地を競売に付した。ロロットの両親はこの地方の古い家柄で立派なキリスト信者であるドラシャペル家(138)の出であったが、かれらはこの土地と建物をそのまま買い受けて、女子マリア会の新しい修道院に使用するよう提案しようと考えたのである(139)。

1823年の夏、シャミナード神父はカステックス神父を通じてこの申し出を受けた。カステックス神父はソダリティの指導司祭であるとともに病院のチャプレンでもあり、同時に病院の経営者を代表して、売却の責任者にもなっていた。

シャミナード神父はコンドムに女子マリア会の修道院を創設することは素晴らしいことだと考えた。しかし、正式にこの申し出を受ける前に、この申し出について検討する時間がほしいと考えた。アデルや他の姉妹たちとも相談しなければならないと考えた。オークのド・モーロン大司教(ARCHBISHOP DE M0RLHON OF AUCH)にも意見を聞く必要がある。コンドムはこの大司教の管轄下にあったからである。大司教は、この司教座に任命されたばかりで、女子マリア会のことは何も知らなかった(140N156)。

シャミナード神父が最初にしたことは、調査をコリノ神父(COLLINEAU)に依頼することであった。この司祭は男子マリア会の会員で、弱冠27才であったが、有能な人物であった。コリノ神父は、最近、アジャンの北方約10キロのビルヌーブ・シュル・ロット(VILLENEUVE-SUR-LOT)にあるコレージュ(大学)の校長に任命されていた(141)。

コリノ神父に与えられた使命は、ピエタの現場を視察し、カステックス神父にいくつかの質問事項を尋ねるとともに、シャミナード神父が考えていた暫定的な提案事項を提示して、その結果を報告することであった。一方、シャミナード神父はこの年若い神父を病院の経営陣に紹介してくれるようにカステックス神父に依頼し、ドラシャペル家をはじめ、この新しい仕事のために助けになると考えられる人たちにも紹介してくれるように手配した(142)。

コリノ神父は貴重な情報を数々持ち帰ったが、かれの滞在は短すぎた。シャミナード神父の考えでは、まだまだ多くの不確定要素が残されたままになっていた。そこで、マダム・ベロックをコンドムに送って更に必要な情報を求めさせ、もしここに修道院を開設することになればどのような手順を踏まなければならないかを明確にすることになった。

今度もまた、シャミナード神父は、カステックス神父に、ベロック夫人を必要な人びとに紹介してかの女の仕事を補佐してくれるように、と依頼した(143)。

ベロックの報告によれば、この場所は修道院に適しており、この考えにコンドムの市長ならびに病院経営陣も好意的な態度をとっている、とのことであった。このベロック夫人の積極的な評価と報告に基づいて、12月、シャミナード神父はこの計画に結論を下すことになった。女子マリア会も、このプロジェクトには賛意を表明した(144)。

シャミナード神父は、事が決定されたことをドラシャペル氏に伝えるとともに、大司教の認可を得るために、連絡をとった(145)。

この知らせが修道院にもたらされたときは、折りあしく、アデルの容態が悪化していた。二つのベンチャーを手掛けようとする、ちょうどその時に、必要なだけの健康な修道女を揃えることができるのであろうか。アデルは心配してサクレケールに手紙を書いている。

「いそいで聖人になりましょう。そして、聖人たちを養成しようではありませんか。多数の不完全な人間よりも、少数の聖人のほうが、多くを成し遂げることができるでしょう」(146)。

シャミナード神父は、早急に、かつ、簡潔に、この計画を運ぼうとした。施設を買収するのはロロットであるが、それは修道者としてのロロットの名義ではなく、かの女個人の名義による買収であった(当時、女子マリア会は、まだ、法人としての認可を得ていなかった)。毎年の支払はロロットの責任でおこなう。支払の一部はすでに約束されていた父親からの譲与をこれに当て、また、その他の部分は、かの女が受け取ることになっている相続財産から支払われることになった(147)。

修道会は、この施設を利用して、上流社会の子女を対象とした寄宿舎学校を設立することにした(中産階級の子供たちのためには、すでにウルスラ会が学校を経営していた(148))。恵まれない子女のための無料の授業も併設することにし、その他に、すでに女子マリア会が手掛けていた他の種類の活動、とりわけ、カステックス神父が指導していたソダリティの援助と強化にも尽力することになった。

こうして、ドラシャペル氏の同意と病院の経営陣の同意とを得さえすれば、ただちに発足できるよう、用意万端が整えられた(149)。

しかし、この交渉は難航を極めた。二度まで破談になると思われた(150N157)。アジャンからはアンカルナシオンとベロックとラコストがこの交渉にあたった。コンドムからはカステックスとドラシャペル氏、ボルドーからはシャミナード神父とモニエ修道士が関わった。これに、ロッテガロンの知事、ジェル(GERS)の県庁(コンドムはこの県に属していた)、そして、当然のことながら、コンドムの市庁もこの問題と無関係ではなかった。

病院の経営者とコンドム市の要望は次のようなものであった。

この施設を学校以外の目的に供したり、営利目的で売却してはならない(151)。現在の建築物を修復し、これを保全すること(このための経費支払を助けるために、最初の6年間の支払を帳消しにする用意があった(152))。将来この施設の一隅を貫通する道路建設の権利を市が保留する(153)。買収者は、口約束の通り、単に裕福な子女のためだけでなく、貧しい人たちのためにも教育をほどこすこと(154)。 以上の通りであった。

これらの要請事項が、いずれも正当なものであることをシャミナード神父は認めたが、病院の経営者は、これらの要請事項を保証させるために数多くの但し書きと条件を付加したため、合意が非常に難しいものになってしまった。結果としてこの交渉は、幾度も暗礁に乗り上げ、6カ月のあいだ難航した。

さて、このように交渉が難航している6カ月のあいだに、スール・プレザンタシオンが大きな危機をむかえた。かの女のケースは、1820年に起こったアッソンプシオンの場合と非常によく似たものであった(155)。

プレザンタシオンが入会したのは1822年。このときアデルは、かの女の動機が必ずしも純粋なものではないと感じ取っていた。そのような理由から、この志願者にかんしては注意深く観察をつづけ、その動機付けがよい方向に変わるかどうかを見届けるようにとのアドバイスを、シャミナード神父から受けていた。もし、変わることがないならば、修道院を離れるよう、親切心と愛徳のこころをもってかの女(と、その伯父)を説得するように、とも警告されていた(156)。

また、シャミナード神父は、修道院にとどめて置こうと考えている志願者にたいしては、叱ったり、償いを与えたりすることは意味のあることであるが、もし退会させることが決まっている人にたいしては、親切心と説得と思いやりをもって接することが第一だ、とも指摘している。

プレゼンタシオンに適切な霊的な動機付けをもたせようとする努力は効果をそうしたかに見えた。一年後(1823年10月)、アデルは以前プレザンタシオンの上司であったサクレケールに、プレゼンタシオンの状態はよい方向に向いつつあるかにみえる、と手紙で伝えている。それは、プレザンタシオンと面談した結果、かの女が、かなり心を開いたかに見えたからであった(157)。また、新しい上司ルイーズ・ド・ゴンザグも、プレザンタシオンの信頼心を得ることができたこともあって、かの女の将来に明るさを見てとった(158)。

しかし、この志願者にかんしてシャミナード神父は、いくつかの疑問点を抱いていた(159)。同じく疑問を抱いたアデルは(160)、プレザンタシオンがまだポストラントであるあいだに、修道院を離れさせた方がよいと考えた(161)。

(1824)1月、このケースはクライマックスを迎えた。

いままでプレザンタシオンは、これという問題を起こす直接的な原因になったわけではなかったが、かの女が修道生活に向いていないこと(162)、いや、少なくとも、シャミナード神父が以前にも云ったように、この修道会にたいする適性を持っていないこと(163)が明白になった。その結果、かの女にたいしては修道会への入会を断念させる必要がある、との決定が下された。そして、この決定を志願者に告知する役目を、ローモン神父に委任することになった。

さて、ローモン神父が、かの女にこの決定を知らせると、プレザンアシオンはゴンザグに泣きついた。ゴンザグは、この情報が正しいことを説明した。すると、かの女は「涙を流し、嘆き悲しみ・・・メール・エンマヌエルに泣きついて約束をしたり、抵抗したり、自分の落度を認めたりしました。そして、次にわたくし(アデル)の所にきましたが、わたしは一歩も譲りませんでした。それでもかの女はしばらくのあいだ哀願して、自分が本当に変わったことを見届けてほしいと要求しました。わたしはハッキリとかの女に召命のしるしが見えないことを指摘しました。しかし、かの女は自分には召命があると言い張り、問題は、自分がなすべきことを全部していないからだと主張しました。そこで、評議会を招集しました」(164)、とアデルは記している。

アッソンプシオンのケースとは異なり、今回の評議会の態度は寛大であった。

「メール・ゴンザグならびに他の修道女は次のような提案をおこなった。この決定が、個人的な偏見に基づくものではないことをかの女に明確にするため、あと数日の猶予を与えることにする。しかし、もし以前と同じ態度が現れた場合は、その最初の兆候で会を去らなければならない」。

評議会は、議員全員の出席のものとにプレザンタシオンと会合した。評議員は、かの女には召命があるとは思えないこと、しかし、しばらくの猶予を与える。でもそれは、かえってかの女に苦痛をあたえることになるかも知れない、と申し渡した。これにたいしてプレザンタシオンは、もう一度チャンスを与えてくれるように強く要望した(165)。

プレザンタシオンの行動は劇的な変化を示した、とアデルはサクレ・ケールに記している。容貌さえも変わったように思えた。しかし、この変化が長続きするのであろうか。亡くなったメール・テレーズ・ヤナッシュの取り次ぎで奇跡が得られない限り無理であろう、とアデルは述べている(166)。

一月たった。アンカルナシオンの補佐として病室で働くプレザンタシオンは別人のように振舞っている。総告白をしたプレザンタシオンは、いまではゴンザグにこころを許すようになった(167)。そして、まもなく、プレザンタシオンはノビスといっしょにボルドーへ行くことになった。しかし、それ以降、かの女の消息は分からなくなっている(168)。

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