◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第16章 1819年−1820年 

ローマからの手紙 / 病気になる修道女たち
シャミナード神父の訪問(1819年7月)/アデルの病気
エミリ・ド・ロダとの出会い / 修道会合併問題
共同体の種々の人間関係



シャミナード神父が男女二つの修道会をローマに上奏しようとしていることを知ったアデルの喜びは大きく、おそらくは、驚きでもあったに違いない。
アデルがこのことについて知らされたのは、1819年3月になってからのことである。師は、自分の努力が実効を奏する可能性が見えるまでは(1)、アデルに伏せておいたのである。

1月の中旬、シャミナード神父は教皇ピオ7世に、三つの嘆願書を書き送った。第一のものは(2)、先代の教皇からボルドーのソダリティに与えられていた種々の霊的特典と贖宥の更新を申請するものであり、同時に、また、その同じ特典を、ボルドーのソダリティに「関連する」他のソダリティ、とりわけオークとアジャン教区のソダリティにも適応させてほしいというものであった(3)。

この申請にたいするローマの回答は、シャミナード神父が希望するような広範囲な適応は認められない、というものであった(4)。これらの特典がボルドーのソダリティに与えられているのは、ローマにあるイエズス会の第一首位(PRIMA PRIMARIA)ソダリティに正式に従属しているからである。そして、このイエズス会のソダリティは、1814年にイエズス会が復帰して以来、再びこれらの特典を享受するようになっているのであるから、このような教皇認可の特典を他のソダリティにも適応したいと思うならば、そのおのおののソダリティが、ボルドーのソダリティと同じように、個別にローマのイエズス会の首位ソダリティに所属するように申請しなければならない、というものであった。

第二と第三の嘆願書はペアになったもので、ソダリティから派生した二つの新しい修道会を照会するものであった。最初のものはアジャンの町にできた乙女たちのグループで、この女性たちは、修道誓願を立てながら信仰の流布に献身し、「マリアの娘という名をいただいている」(5)とシャミナード神父は述べている。

第二のグループはボルドー市にあり、男子で構成されている。このグループも「マリアの娘と同じ精神にのっとり、同じ誓願を立て、同じ目的の遂行を目指すもので、違いといえば、性別からくる僅かなものにすぎない」。この二つのグループが他の修道会と異なる点は、一人の長上のもとに三つの部門(6)で組織化されていることであり、長上の仕事は、全ての構成員を、常にこの三つの道に従って歩み続けさせることである(7)。

すでにこの二つの修道会は、模範をもって社会を啓発し、所属教区の司教から支持されている、とシャミナード神父は教皇に述べている(8)。

マリアの娘の会は既に30名近い会員を擁し、「この修道会に生命を与えるために天が準備し、かつ、守り給うたかにみえる」(9)ボンヌ・メール(BONNE MERE 総長)によって導かれている。自分は、これらの選ばれた魂たちに与えられた恩寵の力を助ける役目を果たしたに過ぎない、と述べている。

そして、この二つの嘆願書の終わりに、教皇に嘆願する恩典を列挙している。それは、新しい修道会の会員にたいして、下記の機会に、全贖宥を与えてほしいというものであった。

(1) 初誓願の宣立の日、

(2) 毎年の誓願更新の日、

(3) 40時間の礼拝の三日間(通常これはカーニバルの三日間におこなわれる)、

(4) マリアの修道会の会員で、修道会の衣服または徽章を身につけ、
   修道誓願を愛しながら死に臨んだとき。

この嘆願書は、ボルドーの近くにあるタランス(TALENCE)の主任司祭リポール神父(RIPOLLES)を通じてローマへ届けられた。3月までにシャミナード神父は、嘆願書がローマによって、こころよく受け入れられた、とのニュースを受け取った(10)。しかし、これらの特典を認めた教皇教書が出されたのは5月25日であった(11)。

これらの特典が公式に与えられたことで、シャミナード神父もアデルも喜んだ。しかし、この数カ月のあいだに悲しみがなかったわけではない。

この頃、共同体では、病気と死が、その生活の一部になっていたのである。

昨年(1818)8月15日、被昇天の祝日に、18才になる女性が志願者として修道院に入った(12N118)。このアデリン・ルペ(ADELINE LEPES)(あるいはADELAIDEかも知れない)はスール・エリザベトと名乗ったが、この人が修道院に来たとき、かの女はすでに肺病に冒されていたと考えられる(13)。19世紀の社会では、肺結核は人を死に追いやる恐ろしい病気であった(14)。

症状は明白であった。全般的な気分の悪さ、少しのことでも感じられる疲労感、食欲の減退、体重の減少、発熱、である。数週間の内に、医者にとっても、修道女たちにとっても、スール・エリザベトがただごとならぬ病気にかかっていることが明白になった。かの女を家に帰そうかとの意見もあり、シャミナード神父に相談することになった。

シャミナード神父は、このことにかんして、アデルに二つの点を反省するようにうながしている(15)。スール・エリザベトが修道院にとどまることを希望し、かつ、かの女の女子マリア会への召命が真実のものであると共同体が考えるならば、修道院にとどまることを許されるべきであり、「聖霊の導きによって門を叩いた修道院で死ぬことの満足感を持つこと」が許されてしかるべきである。また、かの女が修道院に入る前にかの女の病気が識別されなかったことは問題であるが、なぜこれに気付かなかったのか、ということに疑念を抱かざるを得ない。しかしながら、このような過ちは、あとで振り返ってみて、摂理的なものであったと考えられなくはないかもしれない、と述べている。

1819年3月、アデルはメラニに手紙を書いて(16)、スール・エリザベトは間もなく天国に旅立つだろうと記している。わずか3カ月の短いあいだに、胸の病気はかの女を死の瀬戸際に立たせるまでに進行してしまった。しかし、18才になるこの少女は共同体に立派な模範をのこした。かの女が口にしたのは、ただ、天国に行く希望と信頼だけであった。病気から救われることを望まず、いささかの不平も口に出すことはなかった。事実、かの女の顔は幸福で輝いていた。アデルはかの女のことを次のように記している。

「かの女はマリアの娘として死ぬ最初の人となりました。かの女はわたしたちの模範です。わたしたちもかの女と同じこころ構えで死に臨まなければなりません」(17)。

エリザベトが帰天してちょうど一月目に、アデルはロロットにエリザベトの死を知らせている。エリザベトは死ぬ二日前、4月11日の復活祭の日曜日に、終身誓願を宣立した。13日の朝、かの女の容態は比較的良く、その日を煉獄の霊魂のために捧げた。しかし、その日が暮れる前に、息をひきとったのである(18)。シスターとして死んだのは、かの女が最初であった。おそらくサンタ・フォア(SANTE FOY)またはサン・ヒレール(SAINT-HILAIRE)に葬られたと考えられる。当時この修道院は、まだ、囲壁の中に修道女を葬る許可を得ていなかったからである(「避難所」は借家に過ぎなかった)。

アデルは、シャミナード神父の要請に応じて、特別にこの年若い修道女に関する短い「通知」を記して、師に送っている(19)。

その後間もなくして、その年の8月には、29才のアントワン・カント(ANTHOINE CANTAU)が死亡した。かれは、この修道会(アンスティテュ)の男性の修道者(ブラザー)として死亡した最初の人になった(20)。

この同じ年の後半、アデルはもう一人の年若いシスター、スール・スコラスティックの健康について懸念を表明している。スール・スコラスティックことソフィ・デュベルナール(SOPHIE DUBERNARD)は、スール・エリザベトが入会した二ヶ月後、すなわち、1818年10月8日に修道院に入った(21)。かの女の家族が持参金を完全に支払うことができなかったので、かの女は修道院に入ることにいくらかのためらいがあったが、修道生活にたいして立派な適正を持っているように見受けられた。

このスール・スコラスティックは、シャミナード神父がアジャンに滞在している8月中に修練期を開始したが、その11月にはすでに重病にかかっていた。かの女は肝臓を悪くし、何度も胆汁を吐いた。このような状態に加えて、皮膚に腫れ物ができ、かつ、ひどい風邪をひいてしまった(22)。

それから一週間も経たない1819年11月22日、アデルはシャミナード神父にスール・スコラスティックの容態がいままで以上に悪くなり、医者が匙を投げたと伝えている。

もしかの女がこれ以上生きて行けないならば、誓願の宣立を許可したいとアデルは考えた。スール・スコラスティックはその病気のあいだ、非常に高潔な生活を送り、かの女が修道院で生活していた一年強のあいだ、おそらくいささかの過ちも犯さなかったのではないか、とアデルは述べている(23)。1月、この修練女の容態がますます悪化すると、医者はかの女を生まれ故郷のサンタビへ帰すように勧めた(24)。

スコラスティック本人も、また、見舞いに来てくれた母親も、この医者の勧めに同意した。かの女が2週間以内に修道院を離れれば、ひょっとして回復するかも知れない、と医者は云った。アデルの言葉によると、スコラスティックは聖なる人で、かの女が修道院を去ることは(25)、アデルにとっても、また、かの女自身にとっても、とても悲しいことであった。そして、もし元気になって修道院に帰ることができるならば、再度受け入れることを約束した(26)。

しかし、母親が迎えにきたその日、肺にひどい炎症をおこし、動くことができなくなった。おそらく肺炎を起こしたのであろう。

マリアのお告げの祝日に、終油の秘跡を受け、最後の聖体を拝領し(27N119)、1820年3月26日、枝の祝日に帰天した。この修道女は、たぐい稀な謙遜の徳の持ち主であり、神のご意思にたいして完全な服従を示した、とアデルは明言している(28)。

スコラスティックは、エリザベトと同じように、「避難所」に葬られることはなかった。

他の大勢のシスターたちも、殆ど順番に病気にかかった。だから元気な人たちが修道院内部の全ての仕事と、修道院が請け負っていたすべての使徒活動を行うのは、容易なことではなかった(29)。サクレケールは修練長としての仕事の他に病室係をしていたので、一つをしていれば他がおろそかにならざるを得なかった。だから修練女たちも病室の世話を手伝い、サクレケール自身が病室に居るときは、テレーズが修練院で修練長の代理をつとめた(30)。

エンマヌエルの健康も危ぶまれた。シャミナード神父は、かの女に四旬節の苦行を必要に応じて免除するように、とアデルに述べている。そして、これはなにもエンマヌエルに限ったことではなく、他の修道女にたいしても同じように取り扱うべきである、そして、疑いのある時は、むしろ大目に見るようにしたほうがよい、とシャミナード神父はアデルに述べている。もし、シスターたちが四旬節の償いをすることができないならば、できるかぎり有徳な生活を送ることでこれを補えばよいのだ、とも述べている(31)。

アデル自身は、もし修道女たちがみ主の仕事をしようとするならば、健康であらねばならないと確信していた。ただ死ぬために修道院に来るトラピストの修道女とは違うのだ、とアデルは述べている(32)。

(1819年)7月、シャミナード神父はアジャンを訪問し、大勢のシスターたちの健康が悪化しているのを自分の目で確かめた。スール・サン・バンサンが病の床についており(33)、エンマヌエルもかなりひどい病状にあった(34)。掛替えの無いエンマヌエルを失うことはできない、とアデルは述べている(35)。そこで共同体はかの女のために一年間の断食と祈りの生活を送ることになった(36)。しかしアデルは、主は与えたまい、主は取り去りたもう。主のみ名は賛美されたまえ、と信仰の言葉を付け加えている(37)。

10月になるとスール・マルタが吐血を始めた(38)。11月、病室に収容されたのは、スコラスティックの他に、マルタ、ドシテ、アンヌ、アッソンプシオン、そしてエンマヌエルであった(39)。

12月。セント・ラドゴンドからアジャンへ転任したローモン神父はシャミナード神父に手紙を書いて、修道院は病院になってしまった、もっと悪く云えば墓場になっている、と述べている(40)。なんとかして修道院を他の場所に動かさなければならない。でなければシスターたちは、仕事をするに必要なだけの健康を取り戻すことはできないだろう(41)。

この病気は、当然のことながら、創立されたばかりの修道院にとって、経済的な負担にもなった(42)。1月の中旬になると、ローモン神父自身が熱を出し、一週間以上も床についた。このことについてローモン神父は少しも驚いていない。十字架に苦しむ修道女たちの指導司祭として、かの女たちの背負っている十字架を共に担うのは当然のことだと考えていたからである(43)。

ローモン神父が熱病にかかる少し前、アデルも病気になった。アデルは、1809年の病気を除いて、いつも健康であるようにみえていた(44)。しかし、多くの心労を抱え、修道女全員にたいしていつでも奉仕できる情態でありたいと考えていたアデルは、病気になったシスターたちに代わってその受け持つ仕事を手助けしていたため、極度の疲労を感じていた(46)。

こうしてアデルも、今では修道院では珍しくなくなっている他の修道女と同じ症状に苦しみ始めたのだ。わき腹と胸に痛みを感じ、息切れと極度の疲労を感じたのである。

心配した修道女たちはシャミナード神父にこのことを報告した。そこで師は、アデルに、自分の健康情態を報告するように要求した(47N120)。アデルはこの報告書で、医者から仕事量を減らし休みを取るように言われた、と述べている。そしてアデルは、もし、いままでの自分の健康がそれ程までに強くなかったならば、だれもこのような軽度の症状に気付くことはなかったかっただろうと述べ、自分の容態を軽くみせている。しかし、このような健康情態が他人の目を引くことを好む自分の過度な自己愛をも認めている(48)。

ところでこの頃、アデルは、同じように修道女の健康問題で悩んでいたもう一つの修道会の創立者と、この問題について話し合っていた。この修道会の創立者というのは、ビルフランシュ・ド・ルーエルグ(VILLEFRANCHE-DE-ROUERGUE)のエミリ・ド・ロダ(EMILIE DE RODAT) であった(49)。

男爵夫人の父方の親族が住んでいるルーエルグ地方のビルフランシュは、アジャンから東へ200キロ近く離れたところにあり、フィジャックの南方40キロたらずの所にある。この辺りからアベイロン川(AVEYRON)が流れ始めている。このアベイロン川はモントバンの北方でタルン川と合流し、やがてこのタルン川はモアサックの近辺でガロンヌ川に合流する。ビルフランシュとアジャンの間の往復は、この川を用いると比較的楽にできた。

1808年、エミリはフィジャックの病院のシスターのもとに志願者として入会した(51)。この病院の院長と親しくつき合っていた男爵夫人は、しばしばこの病院を訪れたことがあったので、エミリのことを知っていたかも知れない。あるいはシスター・ジェルトルード自身がアデルにエミリのことを話したとも考えられる(52)。いずれにせよ、アデルが自分より2才年上のエミリについて最初に耳にしたのは、1809年にアデルがフィジャックを訪問していたときのことであった。エミリの聖性と熱誠はすでに衆人の知るところであった(53)。当時、アデルはエミリに会い、アソシアシオンの会員に勧誘しようと考えていた(54)。しかし、アデルのこの望みが実現しなかったのは、おそらくエミリが、あまり長い間この病院の修道院に留まっていなかったからであろうと考えられる(55)。

ビルフランシュで、エミリは、素晴らしい聴罪司祭であり霊的指導者であるアントワン・マーティ神父(ANTOINE MARTY)に遭遇した(57N121)。この司祭はビルフランシュ・ド・ルエルグのカレッジで校長をしていた(58)。この司祭の指導に導かれながら、エミリは貧しい人たちの教育をするために、献身的な婦人を集め、最終的には新しい修道会の創立にまで発展させた。それはアデルが修道会を創立する3週間前の1816年5月3日のことであった。アデルはこのことを母親から聞いたが、それは後日になってのことである。

1819年6月、アデルの方からエミリに連絡をとった。それは、エミリを通してルエルグにソダリティを作ろうと考えたからであった。

エミリがビルフランシュに修道会を創立したことを聞き知ったアデルは、かの女に祝辞を述べるとともに、自分たちがたずさわっているみ主の仕事において直面する数々の困難を互いに分かち合うことができるように、二つの共同体の間に祈りの連合を作り上げようではないか、と提案している(60)。このようして二人の文通が始まった。そして、この文通はアデルが死ぬまで続き、また、二つの修道会の合併問題にまで発展した(61N122)。

二人のあいだに文通が始まると、親しい友情と信頼感が作り上げられていった。二人の交わす手紙には、お互いのこころの状態や、夢と希望、そして恐れ、などが雄弁に描きだされており、二つの修道会とその事業に関する情報の交換も用いられた。

この二人はあらゆる面で共通した性格を持っていた。二人とも活発な性格で、行動的であり、率直で、献身的で、強靭で、優しく、暖かい性格の持ち主であった(62)。エミリは2才年上であったが、多くのことでアデルにアドバイスを求め、アデルの体験、とりわけソダリティの経験から多くを学びとろうとした。

エミリの手紙は、アデルの手紙と同じように、生き生きと、かつ、エネルギーに溢れたものであった。しかし、また、多くの手紙でアデルの修道会創立に関する質問や、その仕事、修道女たちの生活などについての質問を投げかけられている。アデルがエミリに出した手紙の大半はエミリからの質問に直接的に答えるものであり、そのような意味合から読めばよく理解ができる。

文通を始めた当初から、二人は、清貧の精神から、手紙を出すときは、ビルフランシュに住む某紳士の召使に託していた。この紳士は、商用のため、しばしばアジャンを訪れていた(63)。また、時には、男爵夫人が手紙をもってきたこともあった(64)。エミリの生徒が持ってきたこともある(65)。

アデルはエミリに宛てた最初の手紙で、アジャンでの新しい修道会の創立の功績をシャミナードに帰し、自分は単なる二次的な役目を果たしただけで、財政的な援助をしたに過ぎない、と述べている(67)。アデルはシャミナード神父のソダリティの業績を非常に高く評価し、婦人たちを対象にビルフランシュでも始めてはどうか、とエミリに提案している。そして、男子青年部はマーティ神父が始めればよい、と述べている。

アデルは、自分自身が告白しているように、16才の頃からすでにこの種の仕事に打ち込んで来ており(68)、自分の心の仕事になっていたのである(69)。ソダリティはアジャンでの使徒事業の中核をなすものであり、素晴らしい成果をあげている、と述べ、ソダリティは一つしかないが、これは三つのグループに分かれている(母親の会、女子青年の会、下女の会)。このように分けられているのは、その各々のグループに属する人たちの必要性が異なっているからだ、とアデルは説明している(70)。

しかし、エミリにたいしては、一つのグループからソダリティを始めるように勧めている。なぜかと云えば、三つのグループを最初から手掛けると仕事が多くなりすぎて、小人数の修道院にとっては荷が重すぎるからだと述べている。しかも、ビルフランシュの修道院でのスケジュールは、アジャンの規則に比べると、はるかに厳しいように見受けられた(71)。

エミリのアデルにたいする返事は非常に積極的なものであった。エミリは熱意に燃え、熱心で、熱誠に溢れ、多くの質問を浴びせかけている。エミリはアデルから勧めらると(72)、直ちにマーティ神父に働きかけてシャミナード神父と連絡をとり、その結果、この二人の神父は互いに文通を交わすようになった(73)。

エミリはソダリティに関して更に詳しい情報を求め、最初はどのように着手すればよいのか、予想しうる難しさはどのようなものであるか、などを問い合わせた。

エミリは、また、修道院について質問し、シスターたちの健康について尋ね、院長としての重職をどのように受け止めているかについても尋ねた。さらに、もっと大きな事としては、アデルが提案した祈りにおける一致にとどまらず、二つの修道会を一つに統合する可能性についてさえも打診してきたのである。アデルはエミリの要請を熱意をもって受け入れ、自分も統合を望むようになった(74)。

アデルは、一連の文通の中で、ソダリティに関するエミリの質問に答えている(75)。ソダリティの組織体にかんして説明し(76)、有能なオフィサーを持つことの大切さを教え(77)、集会の運営について説明し(78)、入会の儀式(79)や、特殊な帯を衣服の下に着けること(80)、「手引書」についても説明している(81)。(アデルはエミリに手引書を何冊か送った)。

また、このときのアデルの説明によると、シスターの仕事の多くは集会の運営と、その際に行われる訓話をおこなうことの他に(82)、個人的な面談や、ソダリストの個人指導に当たることであった。それは、若い女性たちがシスターに多大の信頼を持ち、苦情や心配事を打ち明けに来ていたからである(83)。

アデルは、また、特にソダリスト自身が宣教師になることを強調し(84)、ソダリストの心の中にシスターたちが植えつけた良き種子を、家族や社会に広めるように述べている(85)。オフィサーたちは、毎月、指導をしてくれるシスターたちと会合をもち、自分たちがあたかもシスターの延長であるかのように考えていた(86)。

数多くのソダリストは囚人に公教要理を教えたり、小さい子ども、とりわけ農村の子どもに教えるなど、種々の善行にたずさわっていた(87)。また、ある人たちは夕方に仲間を集めて公教要理を教えたり、歌を歌ったりなどして、罪の無い娯楽にひと時を過ごすのだった。実際、あるソダリストは30人のメンバーを一つのグループに集めて指導していた(88)。また、あるソダリストは仲間のために善良な書籍を取り寄せたり、かれらを秘跡に近づかせるように助けたり、ソダリティに興味を起こさせるように努力した。ある人などは、両親の改心にも一役買った。組織化と監督の仕事の大半はオフィサーたちによって行われた。かれらの協力がなければ、これらすべての仕事を継続して行くことは不可能であったといえよう(89)。

同じ頃に書かれたスール・テレーズあての手紙の中でも、アデルは、アジャンにおける熱心なソダリストの活動状況について説明している。それによれば、ソダリストたちは公教要理を教え、初聖体を受けた子供たちに、その当初の熱心さを失わせることのないように指導したりなどしていた。また、貧しい人を家庭で教え、病人に本を読んで聞かせ、少女たちを家に集めて罪のない遊びをさせ、初聖体をまだ受けていない子を探してシスターのもとに連れてきたり、秘跡に近づくように周囲の人を励ましたり、少女たちのための良い書籍を集めたりした(書籍の購入費はソダリティの会費でまかなった)(90)。

ビルフランシュでは、1820年の9月には、女子青年のソダリティが活発に活動していた(91)。(男子青年のソダリティは、これほど早く成長しなかった(92))。マーティ神父はシャミナード神父の代理者として女子青年のソダリストの入会式を執り行い、身につける帯を祝別することが許された(93N56)。

これに続く5年間、ソダリティは素晴らしい成果を上げた。しかし、1825年、このソダリティは、黙想会の説教師たちが小教区を基盤にして組織化したいくつかのグループに吸収されてしまった(94)。

エミリは、また、修道共同体そのものについて、アデルの意見を聞き取ろうとした。エミリはアデルの手紙が簡潔すぎることを責め、忙しいことを理由に言い訳をしても、それはかの女には通用しなかった。エミリ自身も多忙を極めていたからである(95)。エミリは自分の修道院の実状を述べ、アデルにも腹蔵なく自分の修道院について述べてくれるように望んだ。「わたしは何の隠しだてもしないで、あなたにお話したいと思っております。なぜなら、わたしたちの友情は神から与えられたものであるように思われるからです」と述べている。

エミリの修道会は、聖ヨセフのウルスラ会と呼ばれた(聖家族修道女と呼ばれるようになったのは1822年のことである)(96)。一般の修道会と同様に、三つの誓願を立てていた。会則は聖アウグスチヌスの会則に基づくものであった。しかし、その会憲は、ご訪問の修道女会の会憲に準拠するものであった(97)。エミリは、自分の修道院の共同生活の時間割を送るので、アデルにも送ってくれるように、と依頼している(98)。

1819年、男爵夫人とエリザは、毎年おこなっていたフィジャックへの訪問を終えたあと、ビルフランシュに立ち寄ってエミリを訪ねた(99)。その時、二人は、エミリの共同体の時間割をことづけた。アデルはその返事として、自分の修道院の時間割を送っている(100)。また、生活に関するその他の質問事項にも答えを送った(101)。そして、アデルは、自分たちの会憲は新しいもので、特に聖ベネディクトと聖イグナチオの会則に基づいて作られたものである、とエミリに説明している(102)。また、志願者(ポストラント)は、一般に、3カ月から6カ月の志願期間をおこない、2年間の修練期(ノビシア)を送る、とも説明している。

修道誓願の宣立は修練期の最初の一年が終わったときにおこない、3年間の誓願を宣立する。その後、もし必要があるならば、あと2年間の有期誓願を宣立することができる。その後、メール(MERES)(歌隊修道女)たちは終身誓願を宣立するが、スール・コンパニュ(SOEURS COMPAGNES)(労働修道女)は終身誓願を宣立するまでに10年のあいだ、毎年、誓願を更新することになっていた(103)。着衣式(修練期を始めるとき)と誓願宣立の儀式は、ジャンヌ・ド・レストナック(JEANNE DE LESTONNAC)によって創立されたノートルダムのシスターが用いる礼典に則っておこなわれた(104)。

アジャンの修道女たちは個室を持たなかった。共同の寝室が準備されるまでは、何人かが一つの部屋でやすんだ。修道女たちは常に共同で作業したが、沈黙と潜心を守った。すべては共同で、長上たちも含めて、独自の生活をする者はだれもいなかった(105)。

アデルは、また、共同体の祈りと信心業について説明しているなかで、三時の祈りについても説明し、エミリにもこの祈りをするように勧めている(106)。また、ボルドーのソダリティから受け継いだマリアの絶えざる愛 (PERPETUAL LOVE OF MARY)の実践についても説明を付け加えている(107)。

また、修道女たちは、ソダリティ以外の仕事にも従事していたが、アデルはそれらについても説明しており、貧しい人たちのための授業、初聖体を準備するための公教要理、少女たちの縫物教室(108)などについて述べている。また、方言を使って物乞の女たちを助けているスール・フランソアの仕事、年輩の婦人を秘跡に近づけるための準備(109)についても述べている。

シスターたちは、アデルも認めているように、これらの仕事で多忙を極め、祈りに十分な時間をとることができなかった。しかし、休息の時間と授業の時間を除けば常に沈黙を守り、すべての修道女は手作業をすることになっていた(110)。

このようなアデルの情報にたいして、エミリは(111)、聖ヨゼフのウルスラ会のシスターは、貧乏人のための大きな無料授業と、授業料をおさめることのできる昼間の生徒のための授業をおこなう他、寄宿生の世話をし、幼い孤児も何人か育てている、と伝えている。

幼い孤児たちは寄宿生とは別の場所で育てられており、ウルスラのシスターたちはこの子供たちの母親代わりを勤めていた。「ご想像の通り、わたしたちの修道院には、あなたの修道院のような静けさがありません」とエミリはいくらか羨ましそうにアデルに述べている。

エミリは、修道服についても質問している。エミリの修道女たちは、それなりの理由があって、修道服をまだ着けていなかった。しかし、いまでは、マーティ神父は修道服を着けるべきだと考えるようになっている、とエミリは述べている。

エミリは、アデルに、女子マリア会の修道服を人形に着せて送ってくれるように頼んだ(112)。それで、アデルは、人形を送った(113)。しかし、この人形は途中で失われてしまった(114)。

二人は、また、病気のシスターについても意見を交換した(二つの修道院は、いずれも病気によって大きな打撃をうけていた(115))。病人の食事(116)、四旬節の守り方(117)、そして、すべての創立者が背負わねばならない十字架について(118)語り合った。アデルは、手紙ではまるで気丈な人間に思えるかも知れないが、実は、自分は、落胆しやすく、悲しみに沈みやすい傾向をもっていることを告白している(119)。

同じ仲間として(事実、創立者で総長の立場にあるアデルにとって、エミリはただ一人の「仲間」であった(120))、二人は長上としての役割についていろいろと意見を交換した。アデルにとっては、これほどまでに異なる性格を持つ人たち、ときには正反対の性格を持つ人たちが集まっている中で、考えも、皆が良かれと思いながらも、非常に異なっている中で、常に満足げに振舞い、一致を欠かさないように振舞うことがいかに難しいことであるかを打ち明けている。そのように述べながらも、アデルは修道女たちは皆聖なる人たちであることを認め、次のように述べている。

「もし、神様が、わたくしの弱さを知っていて、このように信心深い人びとをわたくしに与えて下さっていなければ、わたくしは一体どうなっていたでしょうか」(121)。

アデルの考えによれば、上に立つ者は、先ず何よりも心の貧しさを持たなければならない。そして、もし自分の職責を十分に果たそうとするならば、誠実に、自己を空虚にして、自己の考え方に固執せず、他人にたいする柔軟性を持たなければならない。常に姉妹たちを受け入れるこころの準備ができていなければならず、どれほど忙しい時でも、慈愛の心をもって迎え入れなければならない。一言で云うならば、長上というものは、もはや自分が自分のものでなくなっている人でなければならないのだ、と述べている(122)。

激しい性格と戦い続けていたアデルは、自分を「非常にせっかちで未熟な人間である」と述べている。また、アデルは自分について次のようにも述べている。

自分に助けを求めてやって来るシスターを見かけると、そのような人たちを自分から求めて行かなければならないはずなのに、むしろ、反対の方向に行って仕舞おうとすることさえある。「わたしがしようとしていることは、全く表面的なことに過ぎない」(123)。あまりにも外的な仕事に力を入れすぎるため、内的生活をおろそかにしている(124)。しかし、長上というものは台の上に置かれたランプのようなものであって(125)、その欠点は他の多くの人たちにとって、障害になり得るものである(126)。

「聖人になるように努力しようではありませんか。そうすれば、わたしたちの共同体はうまく行くでしょう」(127)。

この二つの共同体が一つになることを神が望んでおられるのかも知れないと云う考えは、二人が文通を始めた頃から、いつも二人の念頭にあった。最初、この考えは単なる政治的な配慮のように思われた。一つになることによってローマからの認可を得ることが容易になるだろうという思惑である(128)。しかし、互いに情報を交換し、相手について詳しく知り、相手の修道会の精神を知るようになると、この考えはやがて望みとなり、計画へと発展した。

二つの修道会は、その活動や共同生活のあり方、その精神と動機づけにおいて非常に類似しており、一つになることが神の摂理であるかに思われた。(1819年の)12月にもなると、アデルは「完全に」姉妹となることを望むようになっており(129)、翌月の手紙では「あなたの修道会とわたしたちの修道会は一つであればよいのですが」(130)と表現するようになった。

エミリはこれに答えて、「あなたの仰るとおり、わたくしたちの家が一つであることを、わたくしも望んでいます」(131)と述べている。二つの共同体のシスターたちも、次第に同じような考えを持つようになり、全員が合併することに賛成するようになった。

1月、アデルはモニエに、女子マリア会の会憲と規則を持ってビルフランシュを訪問し、帰りにエミリの修道会の会憲と規則を持ち帰ってくれるように提案した。(そうすれば、モニエは、マーティ神父の男子ソダリティの仕事を手伝うこともできるだろう)。お互いの会憲と規則をよく検討した上で、合併の計画を実施に移そう(132)、と云うことであった。

エミリはこの考えをマーティ神父に相談した。マーティ神父はシャミナード神父と同じく、賢明な人物で(133)、この合併による利点と欠点を挙げて検討した。そして師は、文書を交換したり人を介した間接的な情報に基づいて行動するよりは、合併を行動に移す前に、先ず双方の修道女が互いに訪問して、自分の目で相手の修道会を確かめてみるべきだ、と考えた(134)。

アデルはこの考えをシャミナード神父に相談した。師はこの双方による訪問の計画に賛成し、それを復活祭(1820年4月1日)以降に実施してはどうかと提案してきた。

すでに双方の修道女たちがこれほどまでに愛し合っている状態からみて、この合併は神の聖意であるとアデルは考えた。もし、この合一が神の意思であったならば、必ずや、これは実現されるだろう(135)。しかし、この合併に大きな希望を抱いていたアデルは、同時にまた、神のご意思に反することは避けたいという気持ちで、心は板挟みになった。アデルの心情からすれば、エミリの修道会のメンバーは自分たちの姉妹であるとしながらも、もし必要とあらばこの計画をいつでも御破算にするだけの気持ちを持っていたのである(136)。

アデルは、シャミナード神父に(137)、テレーズか、エンマヌエルをビルフランシュに送ることを提案した。修道院の精神を伝達するにはテレーズが最も適していると考えた。ソダリティとその事業について説明するにはエンマヌエルが適していた。

シャミナード神父はテレーズを派遣することに決定した(138)。それは、一つにはシャミナード神父自身、テレーズを高く評価していたからであり、また、現在のひ弱な健康状態にあるアデルを動かして無理をさせたくないという心遣いからでもあった。しかし、エミリはハッキリと自分の考えを述べて次のように云っている。

「わたしは復活祭ののちに、あなたの代理人ではなくて、あなたご自身にお会いできることを期待しております。どれほど代理の方が立派な方であろうとも、他人の目を通して見るよりも、ご自分の目でお確かめになるに超したことはありません」(139)。

さらにエミリは付け加えて、失われたお人形をみるよりも、アデル本人に会うほうが、もっと素晴らしいことだ、と述べている。また、エミリは復活祭の挨拶を述べるとともに、気候も良くなったので、一日も早くアデルが来られるよう、わたくしたち一同、毎日、鶴首してお待ちしている、とも述べている(140)。

しかしながら、アデルも、シャミナード神父も、ジャクピのことを考えに入れていなかった。自分の教区を大切に考えていたジャクピ司教は、エミリの方が先にアジャンを訪問すべきだと主張し、もし合併が行われるならば、それが終了してからビルフランシュに行く許可をアデルに与える、と言い張った。

あきらかにアデルはこの司教の言葉に落胆し、少なからず心を乱したが、しかし「神のご計画」には恭順のこころを表した(141)。また、マーティ神父は、せっかく計画を立てたが、残念なことに、いまのエミリの健康では旅行をすることはできない、とシャミナード神父に伝えている(142)。

シャミナード神父から従順の名において休息をとるように命じられていたアデルは、エミリにたいするマーティ神父の心遣いを十分に理解することができた(143)。そして、アデルもエミリも、共に、自分たちの性急さと熱望を抑えてくれる長上が居ることをありがたく思うのだった。

しかしながら、アデルは合併の可能性を完全に否定し去ったわけではなかった。シャミナード神父とマーティ神父にこの話を一任し、結果が何であろうと、それに素直に従うことをエミリに提案したのである(144)。

エミリと頻繁に手紙を交わしたこの期間も(1819年の夏から1820年の夏まで)、アデルは修道女たちにたいする世話を怠ることはなかった。もちろん、アデルひとりが修道女の世話をしていたわけではなかった。遠隔地から与えられるシャミナード神父の指導に加えて、霊生部長としてのテレーズの協力、修練長としてのサクレケールの協力があった。また、ムーラン神父とローモン神父からは、聴罪司祭として協力してもらっていたのである。

ムーラン神父は、ほとんど毎日のようにコッカイ告解場に足を運んだ。そのため、ジャクピ司教は、師が神学校での職務を怠っていると非難したほどである。これは、アデルがシャミナード神父に伝えているように、シスターたちが頻繁に告白の秘跡を受けたからというよりは、一人ひとりの告解が長かったからである。

このような状態ではムーラン神父を失いかねないと危惧したアデルは、シャミナード神父に、告白は週に一度、手短に行うように、という公開の声明文を共同体に発表してもらうように依頼した(145)。

しかし、修道女の幸福を守る責任はアデルの両肩にかかっていた。修道女たちを助け、共同体を管理運営していくにあたって、助力が必要となれば、アデルは決ってボルドーとシャミナード神父の経験に頼るのだった。

1819年の8月、トランケレオンに住んでいたアデルの年下のいとこクララが、長期にわたって修道院に留まることになった。クララは、この滞在を許してくれたシャミナード神父と男爵夫人にたいして、大きな喜びを表明している。かの女は修道院に滞在しているあいだ、スール・アンニェス(SOEUR AGNES)の名前をとった(146)。

まだ16才に過ぎないクララは、修道生活をそれほど真剣に受け止めているようには見受けられなかった。かの女は持ち前の話上手から、シスターやソダリストを楽しませ(147)、スール・エンマヌエルのもとでイタリア語と地理、古代史を学んだ(148)。また、一日の内、数時間を裁縫室で過ごし、貧しい子どもたちに算数の授業を教えると共に、裁縫と読み方を教えた(149)。

しかし、また、かの女は友人に手紙を出して若い男性への愛情を語り(非常に「ロマンティックな」手紙である)、小説を読むことを好み、ほとんど共同体の祈りに姿を現したことはなかった(151)。そして、それから一年以上もたって、共同体がアウグスチノ会の建物に引越したのち、すなわち、1820年のクリスマスの季節に、修道院を去った(152N124)。

1819年の半ば、ちょうどクララが修道院を去った頃、入れ替わりにエリザがやってきた。エリザはシャトーにあって、アデルがおこなっていた慈善事業の多くを継承し、授業も続けていたが、別段修道生活に心を引かれることはなかった。事実、エリザは男爵夫人に、もし自分が修道院に行きたいと言い出したら、試練の期間を他の人以上に長くしてくれるように、とさえ云っていたほどである。ところが、それから間もなくのこと、エリザは霊的な試練を受けることになった。小心にさいなまれ、救いがないと感じたのである。エリザの聴罪司祭は、残念なことに、このようなケースの取扱についてたけておらず、かえってこのような精神状態を悪化させるにすぎなかった。ある朝のこと、エリザは衝動的にシャトーを飛び出し、アジャンに来た。「避難所」で心の安らぎと光を見いだしたかったのである(153)。

「避難所」に来たエリザは、ムーラン神父の慎重な指導のもとに、黙想を行うことになった。師は素晴らしい助言を与え、聴罪司祭を変えることを勧め、エリザを助けることができるような賢明で聖なる司祭を紹介した。

ムーラン神父はアデルにたいして、このいとこは、いつか修道女になるに違いない、と述べている。エリザも今ではそのように考え始めていた。しかし、男爵夫人はかの女が述べていた言葉を忘れなかった。修道院へ行くまでに2年間の試練を過ごさせたのである(154)。もちろん、その期間に修道院を訪問することは許された(155)。

アデルはこのいとこを可愛そうに思い、この「流刑」を何とかして短くして上げる方法はないか、とシャミナード神父に相談した(156)。ひょっとして修道院がアウグスチノ会の建物に引越しする前に来させることはできないものか、と考えた(157)。

こうして、すでにマリ・ジョセフの名前を選んでいたエリザであったが(158)、修道院に入ることができたのは、1821年の4月になってからのことであった。

クララと一緒にもう一人の志願者が入ってきた。それは、スール・セレスティン(SOEUR CELESTINE)で、アジャンの出身者であった。しかし、間もなくかの女の態度はアデルの心配の種となった。セレスティンは労働修道女(SOEUR COMPAGNES)になるのが適しているように思えたのだが、自分と「社会的に同じ身分」の仲間が(おそらくこれはスール・アッソンプシオン(SOEUR ASSOMPTION)のことであろう(159))歌隊修道女になるのなら、自分が労働修道女になることは承伏できない、と考えた。このセレスティンの考えはときどき変わったが、どちらかといえば執ように我意を通そうとした。

かの女は永久に志願者のまま留まっていても良いと云い、労働修道女としてのベールを受けようとしなかった。アデルはこれをプライドの表れであると考え、態度を変えるまでは聖体拝領の許可を与えなかった(160)。しかし、アデルはかの女のことを心配していた。自分はかの女に正しいことをしているのだろうか。間違っているのではなかろうか。セレスティンを、これからも修道院に受け入れておくべきか。それとも両親のもとへかえすべきか(161)。アデルは悩んだ。

シャミナード神父からの助言を待っているあいだ、セレスティンは告白に行くことも拒んだ。かの女は修道院を出るつもりはないと主張し、いつまでもポストラントのままで居たいと言い張った(162)。

シャミナード神父の助言が効を奏そうしたのであろう。これに続く一月は(1819年9月)ガルデル神父のもとへ告白に行くようになり、こころの平安を取り戻したかに見えた。

セレスティンは、その行動に問題があったが、アッソンプシオンにたいしては一度も悪意を示したことはなかった、とアデルはシャミナード神父に証言している(163)。

もう一つの手紙がシャミナード神父から送られてきた。明らかに、この手紙はかの女を改心に導いたようである。セレスティンはムーラン神父にことの次第を打ち明けた。ムーラン神父はセレスティンに、過去の行為にたいしてアデルから償いを受けるようにと勧めた。

アデルはセレスティンに償いを選ばせた。しかし、セレスティンが、2週間のあいだ食事中に「傲慢な人物」と記した鉢巻をすることを申し出た時、アデルはこれを許さなかった。それは、かの女について何も知らない修道女に、かの女の過ちを公表してしまうことになるからである。そのかわり、他のシスターたちに祈りを依頼するよう、セレスティンに命じ、食事中は「償いのテーブル」で食事をするように指導した(この席は食堂の中央に置かれていた)(164)。

1820年1月の手紙で、アデルは18才になるポストラントについて述べている。この修道女は非常に激しい誘惑と試練を受け、夜も昼も休みが取れず(165)、すっかり疲れきって神経衰弱になっていた。アデルは、それが誰であったか、名前を明らかにしていない。しかし、おそらくセレスティンのことであろうと思われる。

2月になって新しい試練がやってきた。2月24日、セレスティンは着衣することになった。もちろん、着衣式の一部として公にベールを受けるシーンがある。歌隊修道女(MERES)のベールはモスリンである。細い糸で織られ、ほとんど透き通るような布地でできていた。労働修道女(SOEUR COMPAGNES)のベールはパーケイルで、堅く織り上げた綿布であった。ところで、若い労働修道女スール・アポロニ(SOEUR APPOLONIE)は、両親がベールを買い求めることができなかったため、修道院にあったモスリンのベールを使わせていた。それでセレスティンも、自分はモスリンのベールをもらえるものと思っていた。

ポストラントの家族がいつもするように、セレスティンの修道服とベールは本人の母親が買い求めることになった。アデルの指示に従って、ベールはパーケイルの布地が買い求められた。しかし、衣服の方は、修道服としては余りにも派手すぎるものであった。そのためアデルは、この洋服を受け入れることを拒否したが、セレスティンはパーケイルのベールを受け取ることを拒否した。そして母親はアデルに反抗し、必要ならば力づくでも娘を家に連れ帰るとおどしにかかった。

気を取り直した母親は、娘が修道院に残ることに同意したが、自分が着衣式に出席することは断わった。それは、修道院のシスターたちが、娘の人生をみじめなものにしていると考えたからである(166)。(理解できることではあるが、この時、スール・サクレケールは、修練長としての職務を辞めさせてくれるようにアデルに願い出ている(167))。

アデルはセレスティンの着衣式を延期した。セレスティンは着衣式の延期に同意したが、自分には召命があると強く主張した(168)。このとき、シャミナード神父がどのような助言を与えたかは定かでないが、かの女はその助言に従った。そして、同月の下旬、アデルはセレスティンについて報告し、かの女は順調に生活していると述べている(169)。

しかし、この平和も長くは続かなかった。10日後にアデルはまた手紙を書き、セレスティンの母親が娘を家に連れ戻したいと主張していること、そして今では修道生活に召命のある兆候をまったく示していないセレスィンは、問題なく退くであろう、と述べている(170)。しかし、かの女は立ち去らなかった。

それから4カ月後(1820年の7月)、セレスティンはシャミナード神父に胸の中を打ち明けた。かの女の言葉によれば、そもそもの問題は、おそらくかの女はカルメル会に召命があるのかもしれない、と云うことであった。こちらの修道院にくる前に、カルメル会に入る希望をもっていた。しかし、その召命の貴さを理由に、カルメル会に入るのは思いとどまるように諭された。今では、かの女のこころは二つに裂かれ、決断を下すことができないでいる、ということだった(171)。

シャミナード神父はカルメル会の実状に通じていた。実際、このことがあってから間もなくのこと、ジャクピ司教はシャミナード神父をアジャン教区にある全カルメル会修道院の教会の長上になるように説得したほどであったのだ(172)。そのようなわけで、シャミナード神父は、セレスティンに長文の手紙を書き、カルメル会の召命とマリアの娘の会の召命との類似点と相違点について説明した。

シャミナード神父は、セレスティンに代わって決定を下すことはなかった。しかし、かの女が考えておかなければならないいくつかの点を提示している。そして師は、いままでの文通において、セレスティンがカルメル会への召命を受けているようにはまったく見受けられなかったこと、むしろ、神からの大きな恵みとしてマリアの娘に召されていると自分は思っていたこと、を述べている。しかし、決定を下すのはあなた自身である。もし、留まるように決定したなら、この手紙を自分で保管していなさい、もしそうでないなら、アデルに渡しなさい、と述べている(173)。

セレスティンは修道院を離れた。しかし、2カ月後にはアウグスチノ会の建物に引っ越していた修道院の扉を叩き、再入会を願い出ている。ところで、その間、トナンに新しい修道院が創設されたので、アデルはかの女に「外部からの」ヘルパーとしてトナンへ行くように提案した(174)。

しかし、母親はかの女がアジャンを離れることに反対した。セレスティン自身としては、トナンへ行くべきかどうか決心が着かないでいた。ただ、結果的には、行かなかったようである(176N125)。

セレスティンの仲間であったスール・アッソンプシオンは順調に修道生活を開始した。しかし、最終的には、アデルにとって忘れることもできないドラマチックな退会劇を演じたのであった(177)。

入会当初の退屈な時期を過ごした後、いくつかの軽い病気にかかったが(178)、アッソンプシオンには本当に召命があるかのように見えていた(179)。アデルは、奉献の祝日(1819年11月21日)にアッソンプシオンが着衣式を受ければよいと考えていた。この日で、かの女が修道院に来てから、ちょうど3カ月目にあたる。アデルはシャミナード神父に、かの女は順調に進歩していると書き送った。

かの女には少々軽率なところはあるが、よく養成に応えていた。しかしながら、修道院のコンセイ(評議会)は、しばらく様子を見るように助言し、着衣式には創立一周年記念のクリスマスがよいであろう、との結論を下した。

しかし、修練期が始まって一月目に、アッソンプシオンは悲惨な状況に陥ってしまった。かの女は種々の激しい誘惑を受け始めたのである。それは、友愛に反するもので、ある一人の修道女(セレスティンではないかと思われる)にたいする異常なまでの嫌悪感を抱くようになったのである。また、貞潔にたいしても誘惑を受け、信仰と神に反する誘惑、修道女としての召命にたいする誘惑も受けた。

かの女は、修練期を始めたころからこのような情態に苦しめられ、そのために退会を申し出たことがあった。それが、やがて、アデルの言葉を借りるならば、「爆発した爆弾」のような現象を引き起こしたのである。

かの女は激しい神経発作を起こし、自分が神から呪われ、すでに地獄に落ちているかのような錯覚に見舞われたのである。何回か平静に戻ることもあったが、全般的にこのような錯覚状態に陥ったために、他のシスターたちはかの女を病室に寝かせ、かの女とともに苦しみを分かち合った。そして、シスターたちは、シャミナード神父に助言を求めた(180)。

明らかにシャミナード神父のアドバイスは、アッソンプシオンは精神的な健康状態を理由に退会すべきである、というものであったと思われる。2週間後、かの女は会を去った。しかし、かの女が去ったのは、かなりの騒ぎを起こした後のことであった。

退会する前の数日間は健康状態も良く、誘惑も去っていたらしい。2月の中旬、かの女は健康上の理由から退会すべきであろうと告げられた。すると、かの女は落胆の発作におちいった。かの女は聖堂の大きな十字架に両腕を掛けて泣き叫んだ。

「わたくしの浄配よ、あの人たちがわたしを追い出さないようにして下さい。あの人たちの心を変え、奇跡をおこなって下さい」。

ムーラン神父はアッソンプシオンをなだめようとした。するとかの女は神父の足もとにひれ伏し、少なくともあと一週間だけでよいからとどめ置いてくれるように懇願した。しかし、神父は「動じなかった」。修道院の評議会も態度を変えなかった。かの女は去らねばならない、と結論した。そこでかの女はスール・サン・サクラマンに祝福を求め、アデルにも祝福を求めた。そして、サクレケールに許しを求めた。各人に別れの抱擁をし、夜の暗闇にまぎれて、そっと姿を消した(181)。

しかし、このできごとで心証を害したのはアッソンプシオンだけではなかった。修練長のサクレケールも心をいためた。かの女は、アッソンプシオンに一週間の猶予を与えなかったのは正義に反することだと考えたのである。そして、評議会のメンバーに、その心のかたくなさを非難し、感情的な爆発を起こして、もうこのような修道院には住んでいられない。もしこの修道会がもう一つの修道院をもっていたなら、そこへ労働修道女として送ってもらいたところだ、と叫んだ。

「神父さま。慈悲深い神さまは、わたくしに体験せよと教えて下さっているのだと思います。わたしは、あらゆるケースに直面しているのですから」(182)とアデルはシャミナード神父に述べている。

シャミナード神父は直ちに返事を書いてアデルに理解と同情を示した。そして、他のシスターたちにたいしては、アッソンプシオンは重度の精神病に悩まされ、多くの誘惑に襲われ、興奮と過度の想像に悩まされていたのだから、かの女をまったく忘れさることのないように、と述べ、アッソンプシオンのこのような情態は、もっと早く識別されているべきことであり、とりわけサクレケールはそれに気付いていなければならなかったはずだ、と述べている(183)。

シャミナード神父は修道院の評議会が下した決定にたいして、これを非難することもなく、また、賛成することもなかった。それは、師が遠方に住んでいて、そのような決定が賢明かつ正大におこなわれたかどうかを判断することができなかったからである。師は、その評議会の決定が信仰に動機付けられたものであり、単に人間的な思惑によるものでなかったことを希望している。もし共同体の指導者たちが決定を下すに当たって、超自然的かつ神聖な洞察に基づいておらず、人間的かつ自然的な知恵に基づいていたとするならば、それは許さるべきことではない。「義人は信仰に生きる」べきものである、と諭している。

また、シャミナード神父は、サクレケールの感受性は修練長として正しいものであると述べ、ただ、それが極端にならないように注意すべきだ、と警告している。自分が面倒をみている修練女について弁護をしたならば、たとえそれに反する結論が出されても、神の摂理として受け取らなければならない。感情的な爆発を許すつもりはないが、理解は出来る。それは、かの女が非常に難しい状況の中に立たされていたからである。評議員の多数者がとった立場が、無常なこころの表れと感じ取ったのは、サクレケールがやさしい心の持ち主であるからだ。この経験をもとに、スール・サクレケールは、多くのことを学んでくれるように、と師は結んでいる(184)。

数日後、「可愛そうなスール・アッソンプシオン」は修道院に帰ってきた。健康そうに見えたが、あの「追放」劇には涙を流していた。そして、再入会の可能性を問いただした(185)。

かの女についての記述がみられるのは、トナンでの修道院の設立の後に送られたテレーズへの手紙の中で参照事項として挙げられている以外には、これがアデルの手紙では最後の記述になっている。

この他にも沢山のことがあった。入会のために大変な障害を乗り越えたビクトアール(その後もこの名で呼ばれた(187))がいた。しかし、かの女は一年足らず修道院に留まったに過ぎない(188)。また、サン・サクラマン(ポーリン・ヤナッシュ)のケースもあった。かの女は1831年、アデルの死後、最終的に会を退くまでは、なんとか精神のバランスを保つことができた(189)。

アデルが抱えた人事にかんする問題は、共同体にかんするものばかりではなかった。例えば、何人かの少女たちが裁縫室で他の人たちに悪い影響を与えたことがある。このときアデルは、他の少女たちをこの弊害から守るために、その裁縫室を閉鎖しなければならなかった。アデルは2週間のちにこの裁縫室を再開したが、このとき採用した女の子は、シスターたちがよいと判断した子供たちのみにした。そして、その後、少しづつ人数を増やしたが、それは、修道院の授業を終了した者の中から選ばれた人に限られた(190)。

このようないろいろな職務の中で、いま一つ・・・しかも、決して小さなことではなかった・・・アデルの時間とエネルギーを費やしたことがあった。それは、アジャンの修道院の移転先の候補地探しと、他の市への修道院の分院創設問題であった。

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