◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第14章 1816年−1818年 (その1) 

修道服 蟄居の誓願の新しい意味
1817年7月 修道誓願の宣立
アデルの新しい役目



シャミナード神父がアジャンに滞在しているあいだに、師と司教との間の論争が決着することを、アデルはひたすら望み、かつ、祈った。しかし、ジャクピ司教は、シャミナード神父と同様、執ように自己の立場を固持し、他に譲ろうとしなかった。そして、あげくの果ては修道誓願宣立の許可を取り下げ、修道服の着衣も拒否したのである。

ジャクピ司教がこのような態度に出たのには二つの理由があった。先ず司教は、自分自身の地位の不安定さから、新しい政府に気をつかっていたことが挙げられる(事実、ジャクピ司教はナポレオンによって司教に<させられた>人物であったのだ)(1)。もう一つの理由は、この新しい修道会の創立にたいして新政府が消極的な態度をとった場合の教区にたいする影響へのこころづかいがあった(2)。

いずれにせよ、司教が誓願宣立と修道服の着衣を拒否したことはシャミナード神父にとって大きな打撃であった。ましてや、アデルとその仲間にとって、これが大きな落胆であったことは想像に難くない。これほどまでに計画を立て、長年の準備をしてきた。そして、その最期の段階でこのような結果になったのだ。果たしてこれから、まだ、どのくらい待たされることになるのだろうか。

しかし、シャミナード神父は、例のごとく、いつもの「長い忍耐」をもって、平和と信頼の心で未来に希望をもつように、とアデルたちを励ますのだった。そして、相変わらず個別の面接を行い、グループの面接も行って、新しい会憲の精神を心に植え付け、かの女たちを修道生活に備えるのであった。

シャミナード神父と意見を異にしながらも、司教は、この修道会の創立に好意を寄せていたことは確かであり、アデル一行に同情もしていた(3)。それで司教は、新しい修道会にたいする教会側の上司として、神学校で教義神学を教えていたムーラン神父(MOURAN)を任命した(4N90)。一方、シャミナード神父の側としては、修道会の共同体の組織化を押し進めることに努力した。

会憲によれば、創立者は生涯のあいだ長上としてとどまることが規定されていた。しかし、当初、ド・ラムルースはアデルを長上におくことに必ずしも賛成できなかった。ド・ラムルースの考えによれば、アデルは気まぐれな点があり、落ち着きの無さがあったからである。

ド・ラムルースは、長上にふさわしい人物を与えてもらえるようにノベナをすることを要望した。アデルとその仲間たちは、これを快く受け入れ、熱心にノベナを始めた。しかしながら、実際にアデルの生活をよく眺め、観察した結果、ド・ラムルースは、アデルこそこの新しい修道会の長に立つべく天から与えられた人物であることを悟り、その旨、シャミナード神父に報告した(5)。こうして、シャミナード神父は、司教の承認を得て、アデルをこの共同体の長に定めた。

シャミナード神父はアジャンに滞在しているあいだに、ソダリティの他の部門の成行きにも気をくばった。そして師は、アジャンの分会に属するアソシエイツと集会を持ち、60人の新しいメンバーを受け入れた。また、男子青年部と父親の部も作り上げた(6)。シャミナード神父は、また、ロッテガロンヌ県(DEPARTMENT)の知事(PREFECT)を訪問し、新しい修道会について説明を行うとともに、いずれ政府の承認を申請しなければならない時のことを考えて、あらかじめ根回しをしておいた(7)。

できることはすべて行い、司教との意見の相違もいずれ解消されることを期待しながら、シャミナード神父はド・ラムルースを同伴して、ボルドーへ帰省した。もちろん、二人は今後もシスターたちと連絡を取り続けることになる。

こうしてこの新しい共同体は、新しい上司をいただき、将来のあらゆる可能性をひめながら、当面の生活と使命の遂行を確立するために、その第一歩を踏み出したのであった。

修道誓願を宣立し、修道服を着用する許しを、まだ、司教から得てはいなかったが、この新しい共同体のメンバーは、修道名を用いることにした。そして、それ以降、この修道会ではこれが習慣化して、新しいメンバーが共同体に入ると同時に修道名で呼びあうようになった。

当然のことながら、アデルは二年前にアジャンの分会にちなんでつけた名前、スール・マリ・ド・ラ・コンセプシオンを名乗った。この名は、新しい修道院の名前にもなった。しかし、アデルはこの修道会の長上であったことから、公式にはメール(MERE)と呼ばれることになった(8N91)。 

クレマンティン・ヤマッシュは、今ではスール・テレーズ・ド・ジェズと呼ばれている(9N92)。かの女は1794年、サクソニのハンブルグで生まれ、幼少時代は両親とともにスペインで過ごした。父親が死ぬと、母親と妹のポーリンを連れて、ロンピアンの北西数キロ離れたプーシュに移り住んだ。際だって美しく、学問があり、非常に人好きのする性格の持ち主であったクレマンティンは、その母親や妹がそうであったように、きわめて世俗的な考え方をもっていた。

かの女は、ある時、当地のアソシエイツを介してラリボー神父に面識を得たが、そのラリボー神父から「回心」させられ、最終的には、アソシアシオンのメンバーになった。

このときクレマンティンは、母親や友人から馬鹿にされ、生活態度の変貌をあざ笑われた。しかし、その母親ヤマッシュ夫人も、やがてラリボー神父によって回心させられたのである(10)。

アデルが最初にクレマンティンに会ったのはロンピアンにおいてであった。おそらく1814年の秋以前のできごとであったと思われる。その年の10月、クレマンティンは病気にかかり、その回復のためにアソシエイツによって祈りがささげられた(11)。一年のち、かの女は、ふたたび病気にかかった(12)。

1816年の初頭、修道会創立の計画が動き始めたころ、クレマンティンと、これまたクレマンティンと同じように「大切な計画」に参加しようとしていた妹のポーリンにたいして、その希望を踏みにじるようなできごとが起こってしまった(13)。この障害がなんであったのかは知られていない。しかし、それがなんであれ、間もなくこの問題は解消し、5月22日、クレマンティンはアデルと共に「避難所」へ行くために、トランケレオんのシャトーに来たのであった(14)。

トランケレオンに到着すると、アデルはクレマンティンからグループの黙想をリードするように依頼された。アデルはかの女の期待にこたえて黙想を行ったが、その時のアデルの態度が、あまりにも素朴であり、慈愛に満ちていたために、男爵夫人はこころを打たれた(15)。

わずか22才の若さで、このスール・テレーズは、まもなくアデルの第一補佐になり、共同体の霊生部長の役割を果たすことになる(16N93)。霊生部長を勤めていたときのかの女は、たぐいまれな親切心と熱誠を人びとに示した(17)。

トランケレオンからアデルに同行したもう一人のメンバーはマリ・トレイユ(MARIE TREILLE)であった。かの女は、今ではスール・スタニスラスと呼ばれている。このスール・スタニスラスは、メンバーの中でおそらく一番年下であったと考えられる(18N94)。シャミナード神父もアデルも、かの女の養成には一番こころをくだいた。

あの日、朝早くからアデルと共にトランケレオンを出てアジャンに向かった一行の中にジャンヌ・リオン(JEANNE LION)という人物がいた。このひとはスール・サンテスプリ(SOEUR SAINT-ESPRIT)(19N75)と名のった。かの女もクレマンティンのように、プーシュの出身であった(20)。

フランソワ・アルノデルは34才で(21N95)、スール・(サン)フランソワの修道名を名のった。そして、マルタは単純にスール・マルタと名のった。かの女はおそらく少し年を取っており、以前、修道女であったと考えられる(22N77) 。

シャミナード神父がアジャンに滞在しているあいだに、もう二人のメンバーがこの共同体に参加した。一人は、アガタ・ディシェである。かの女の両親も、最終的にはアガタの修道院入りに同意したのであった(23N96)。

6月28日、アガタは修道院に到着し、スール・マリ・デュ・サクレケール(SOEUR MARIE DU SACRE-COEUR)と名のった(24N97)。この同じ日に、マリ・マドレーヌ・コルニエ・ド・ラバスティド(MARIE-MADELEINE CORNIER DE LABASTIDE)が修道院の門をくぐった。この女性は、ルシニャン・プティ(LUSIGNAN-PETIT)と呼ばれる小さな町の出身であった。この町は、ポール・セント・マリの北東25キロ足らずの所にあり、アジャンとほぼ同距離に位置している。

マドレーヌはアデルと同年輩であり、1789年12月の生まれであった(25)。かの女もアデルのように、両親の家にいるころは小さな学校を開いたことがあった。そして、そののち愛徳会のシスターになろうとして、アジャンの病院に志願者(ポストラント)として入った。アデルに出会ったのはこの病院においてであった。

愛徳会に入るためには、遠く、パリの修練院まで行かなければならない。かの女の両親は、それを理由に、かの女の入会を許さなかった。その代わりに、近くにある新しい修道会に入ればよいとすすめた。ところで、偶然、マトドレーヌはアデルに会う機会をもった。その時かの女は、アデルに非常によい印象をもったのが原因で、この新しい修道会がどのようなものかを見に来たのだった。

しかし、一旦この「避難所」に来たかの女は、そのままここに腰を落ち着けることに決めてしまった。そしてスール・サン・バンサン(SOEUR SANT-VINCENT)という修道名を名のったのである。それは、かの女が最初に心を寄せた修道会の創立者サン・バンサン・ド・ポール(聖ビンセンチオ・ア・ポーロのこと)にちなんだものであった(26)。

シャミナード神父とジャクピ司教の意見の相違で不安定な状態にあったにもかかわらず、その後数カ月のあいだに、この共同体には新しいメンバーが増え続けた。クレマンティンの妹ポーリン・ヤナッシュは、その一人である。かの女はスール・マリ・デュ・サンサクラマンの修道名をいただいた。

ポーリンの母親は、娘が修道院にはいると、ひとり取り残されてしまい、自分も修道院に来て、修道院付属の黙想の家に住みこむことになった(27)。かの女はプーシュにあった自分と娘たちの財産を売りにだしたが、この売却が完了したのは1820年のことであった。その間、ヤナッシュの母親は、健康の続く限り、共同体のための奉仕生活を送ることになるのである(28)。

ボルドーのソダリティの女子青年部には「修道ソダリスト」として修道生活を送ることに興味を持つひとが何人かいた。かの女たちのあいだには、新しい修道会がボルドーではなくアジャンに創設されることを聞いて、これに参加することを断念した者がいた。また、新しい修道会では蟄居を守ることになる(29N89)と聞いて、入会を拒否した者もいた。しかし、すべての人が修道会の設立の希望を完全にすてたわけではなかった。現に、そのような人たちの内で、アジャンに来た最初の人物に、マリ・ロザリ・ルイエという人がいた。

マリ・ロザリは1789年11月30日にアングレームで産声を上げた。従って、マリ・ロオザリはアデルと同年ということになる。かの女はボルドーのソダリストとして活躍しており、母親はボルドーで金持ちの子女を対象にした寄宿舎学校を経営していた。そして、マリ・ロザリはこの学校をささえる大黒柱でもあった。かの女は、そのチャーミングな人柄で人びとの心を引き付けていたのである(30)。シャミナード神父も認めるように、かの女はチャーミング過ぎたのかも知れない(31)。

高度な教育を身につけていたマリ・ロザリは、また同時に、音楽的才能にも恵まれていた。かの女が奏でるピアノやハープの音色は素晴らしく、名匠によって育て上げられた演奏家を彷ふつさせた(32)。かの女の得意とするのは器楽のみではなく、声楽にも優れた才能をみせた。このような音楽的才能に加えて、かの女は、また、イタリア語にも精通していた。シャミナード神父は、年若い修道女たち、とりわけ読み書きの下手なスール・スタニスラスや、ドイツ人のヤナッシュ姉妹(33)にフランス語の文法とスペリングを教えるには、かの女が最適だと考えた。

しかし、なににもましてマリ・ロザリが大切な人物であったのは、かの女が謙虚なこころの持ち主であり、素朴で、高ぶることなく、神とマリアへの愛に秀でていたこと、そして、揺るがぬ修道生活への決意をもっていたことである(34)。かの女は熱誠に燃え、雄弁家でもあった。もちろんシャミナード神父は、予め、かの女が持参金を所持することができないことをアデルに知らせてあった。かの女が修道会に入るだけでも、その母親にとっては、大変な犠牲であったからである(35)。

10月28日、マリ・ロザリは「避難所」に到着し、スール・エンマヌエルと名のった。修道院に来てから2週間もたたないうちに、かの女はアデルに代わって女子青年部のソダリティの集会を指導して会員たちの尊敬を集めた。また、かの女は修練女に(36N98)読み書きと音楽、文法を教えた(37)。シャミナード神父は、かの女にボルドーにいる婦人たちで修道会に興味をもっている人たちと文通で連絡を続けるようにすすめた(38)。

ボルドーからアジャンに来た二人目のソダリストはカタリン・イサベル・モンセ(CATHERINE ISABELLE MONCET)であった。36才でアメリカ生まれの女性である。11月14日、かの女はさきに荷物を送ってきた(39)。29日、マドレーヌ聖堂でお別れの朝食会に出席した。カフェ・オレの朝食はイサベルにとって一日の中で一番大切な食事であった。それでシャミナード神父は、かの女が体調を崩すことなくこの習慣を止めることができるようになるまでは、これを続けさせて上げて欲しい、とアデルに注進している(40)。

12月2日、イサベルは修道院に到着し、スール・アンヌと名乗った。かの女は修道院に入ると同時に直ちに貧乏人の子供たちに裁縫のてほどきを始めた(41)。

シャミナード神父からの情報によれば、第三部会とボルドーとの連絡係をつとめていたマドモアゼル・シャンニュも修道会に参加する希望を持っていた。しかしかの女は80才を超える母親を抱えており、母親をおいて修道院に入るわけにはいかなかった(42)。

一週間後の12月9日、ポアトバンの姉妹たちがやってきた。マリは23才で、パン屋さんの娘であった。非常に意志の強い女性で、判断力に優れ、寛大なこころの持ち主であった。このような性格の持ち主でありながら、指導にたいしては従順であり、かつ、柔軟な態度をもっていた。スール・ルイーズ・ド・ゴンザグ(SOEURLOUIS DE GONZAGUE)(43N71)の修道名をとったかの女は、のちほど修練長として働くことになる。後日、シャミナード神父は、問題のある男子マリア会のノビスたちをかの女のもとに送り、その指導を受けさせたほどである(44)。

このようにして幾月かが過ぎていったが、その間、シスターたちは、忍耐深く誓願宣立が許される日をまっていた(45)。御降誕節も間近にせまり、ムーラン神父の指導による共同体の黙想会が行われることになった。アデルは、ロロットがこの黙想会に間に合うように来ることができないのを残念に思った(46)。しかし、この時期は、かの女たちが修道生活にむけて決定的な一歩を踏み出すには、ちょうどよいタイミングであった。

シスターたちは、ムーラン神父を通じて、クリスマスの真夜中のミサに修道服を着用する許可を司教に申し出た。修道服を自分たちの手で作り、7カ月のあいだ着ないままで置いてあったのだ(47)。司教はこの願いを善意の内に黙認した。

修道服は祝別され、シスターたちは初めて修道服に手をとおした(48)。そして、このクリスマスの日をもって、下記のシスターたちが修練期を始めた。

サン・バンサン、サクレケール、サン・フランソワ、ルイーズ・ド・ゴンザグ、エンマヌエル、そして、アンヌであった。

クリスマスの朝は、ファブリ神父(FATHER FABRY)(49)がミサをあげた。神父は修道女たちに、クリスマスのオクターブ(8日間)のあいだ、修道服を着て過ごすことを許した。

さて、それから一週間たったが、もはやシスターたちは、修道服を脱いで俗服にもどる気持ちになれなかった。神学校の校長をしていたガルデル神父(FATHER GARDELLE)は、かの女たちの気持ちを察し、司教にそれを取り次いだ。こうしてジャクピ司教は、シスターの新しい修道服着用を許したのである(50)。

アデルはこの朗報を急いでシャミナード神父に知らせた。これにたいしてシャミナード神父は、恐ろしい迫害が起こらないかぎり、二度とこの修道服を脱ぐ必要がないことを希望する、と述べている(51)。しかし、それと同時に、師は、また、まもなくボルドーから来ることになっているマドモアゼル・デグランジュのような若い志願者には、すぐには修道服を着せないで、ポストラントとしての質素な黒い服を着せるように、と述べている。

クラリス(52N99)・デグランジュ(CLARISSE DESGRANGE)は、1817年2月中旬に修道院に入った(53)。かの女もボルドーのソダリストであった。シャミナード神父の印象では、かの女は頭が良く、勇敢で、しっかりした性質の持ち主であり、ときとともに立派な修道女になるだろうと考えられた。シャミナード神父はアデルにたいして、わたしたちは物事の起こる前から恩寵を前提とすることは許されないが、恩寵の働きに従うことは必要である、と述べている(54)。

5日間の黙想のあいだ、ムーラン神父は全共同体を対象にして、一日二回の講話を行った。この黙想会が終わったのち、3月7日、クラリスは着衣式を終え、スール・サンジョセフと名乗った(55)。アデルが男爵夫人に記しているところによれば、この儀式はプライベイトなものであったが、非常に荘厳なものであったそうである(56)。

5月24日、ちょうど創立から一年目のことである。アジャンの商人の娘で(57)28才になるローズ・ゲッティ(ROSE GATTY)が修道院に入り、スール・ドシテ (SOEUR DOSITHEE)となった。これとほぼ同じ頃、ボルドーからマドレーヌ・ビルジニ・マレシャル(MADELEINE-VIRGINIE MARECHAL)が入会した。当時まだ21才にならなかったかの女は、後日、スール・セント・フォア(SOEUR SAINTE-FOY)の修道名で知られるようになる。

さて、この年の4月は、修道院としてはなんの関係もないことであったが、アデルにとっては大きな意味をもつ出来事があった。今では18才になる(1817)アデルの妹デジレが結婚したのである。結婚に先立つこと一ヶ月、アデルはデジレにお祝いの手紙を送っている(58)。デジレは従兄弟と結婚した。父親の伯父アレクサンドル・ド・バッツ・ミルポア(ALEXANDRE DE BATZ DE MIREPOIX)の孫であった。

新郎はシャルル・フランソア・アレクサンドル・アンジュ・ド・バッツ・ド・ミルポア(CHARLES-FRANCOIS-ALEXANDRE-ANGE DE BATZ DE MIREPOIX) と称し、アデルの記述によれば、賢明で宗教心に篤く、素晴らしい将来を約束された人物であった(60)。

結婚式は4月14日に挙行された(61)。そして、向こう2年間は男爵夫人やシャルルの家族といっしょにシャトーで生活することになった(62N100)。

1816年6月からこの頃までのシャミナード神父は、シスターたちが種々の熱誠事業をおこないながらも、真の修道者として欠かすことのできない諸要素を遵守することができるようなかたちで司教と意見の折り合いをつける道を模索していた。

(1816年)8月、シャミナード神父はアデルに手紙を書き(63)、当時まだボルドーにいたロザリ・ルイエ(ROSALIE LHUILLIER)によって美しく写本された会憲(INSTITUT)を送ると約束している。しかし、その代わり、シャミナード神父はこの文書を批判的な観点から再検討することを決め、改正版を作成することにした。アンスティテュのオリジナルな文書は501の条項から成り立っているが、これを48条に短縮したのである。この二つのテキストを書いたのはモニエ氏であり、シャミナード神父はそれを監修し、自分の考えに基づいて校正をほどこした。

このようして最初に書かれたオリジナルな文書が、グラン・アンスティテュ(GRAND INSTITUT)として知られるようになり、新しく書かれた改訂版がプティ・アンスティテュ(PETIT INSTITUT)として知られることになったのである(64)。

この改訂版は9月の初旬にでき上った。もっとも、そのために、シャミナード神父は黙想会をキャンセルしたり、手紙を書くのをしばらく断念しなければならなかった(65)。完成した会憲のコピーは、一通をアデルに、もう一通をジャクピ司教に送った。この会憲の文書で、シャミナード神父は蟄居にかんする司教の反対意見に答を出すことができたと考えた。

アデルに宛てたシャミナード神父の答をみると、マリアの娘たちの蟄居と云うものは、カルメル会やその他の古い修道会のように、他の三つの修道誓願宣立の中に「含蓄される」ものではない。もし蟄居を三誓願に含蓄されたものとするならば、それは三誓願と同じく絶対的なものになる。新しい修道会の創立の目的と時代背景を考えるならば、新しい修道会の蟄居は、それとは別のものでなければならない。すなわちそれは「明示された」ものであって、ひとつの特定の誓願の対象(OBJECT)でなければならない、と述べている。

この第四の誓願としての蟄居の誓願は、ある特定の目的のために一時的に修道院を出る時には長上の命令に従う義務を負わせるものとなる。また、迫害の時などは、何ら他人に迷惑を掛けることなく、司教によって免除されうるものとなる(66)。

このようにして、シャミナード神父が司教を満足させるに足る答を見いだしたと考えたが、その矢先、またもや二人の関係を悪化させるもう一つの事態が発生した。

司教は、明らかに、現在、借家住まいのこの修道院を安定させようと考えたのであろう。「避難所」を買収するか、あるいは、これを永久貸借するように、と主張しはじめたのである。

市がこの要請に難色を示すと、司教はこれに代わる他の場所を探し始めた。この時、一つの物件が見つかったらしい。アデルはシャミナード神父に手紙を書いて、引越しの可能性を示している(67N101)。

シャミナード神父は、新しい物件が、今の家よりも広くて立地条件もよく、修道院によりふさわしいものでない限り、「避難所」から動くことに賛成することとはできないと伝えてきた。そして、ムーラン神父とベロック夫人に相談し、直ぐには最終決定を下さないように、とアデルに伝えた。

しかし、この代替地をさがす試みは失敗に終わった。そこで、次に司教が提案したのは、「避難所」を買収するために市と交渉する手間を省いて、中央政府に直接アピールすることであった。

シャミナード神父は、この提案にも賛成することができなかった(68)。なぜなら、もしこれに賛成すれば、以前行政長官(PREFECT)と取り交わした約束をほごにすることになるからであった。シャミナード神父は、政府の承認を求める前に、先ずこの新しい修道会を政府との交渉にたえ得るだけのものに育て上げておくことを約束していたのである。

クリスマスが終わって間もなくのこと、つまり、司教が修道服の着用を許可したちょうどその頃、突如、解決の道が開け始めた。

革命のあいだアジャンで生き延びることができた修道会は二つあるが、そのうちの一つに、聖ヨセフの修道女会というのがあった。この修道会は、「貧しい孤児の少女の」シスターとも呼ばれていた(69)。しかし、17世紀にできたこの修道会も、12月に院長のメール・マッカーシー(Mere MacCarthy)が死んでからは、いまやスール・ローズ・ムリニエ(SOEUR ROSE MOULINIE) を一人残すばかりになっていた。

ところで、この修道会は今までに一度も教皇の承認を取り下げられたことがなく、政府も、今年、司教の要請によってこの修道会に承認を与えたばかりであった。司教はここに女子マリア会の解決の糸口を見いだしたと考えたのである。もし、アデルの新しい修道会がこの聖ヨゼフ修道会の修道院に移り住み、孤児たちの世話に従事するならば、その修道会に新しい志願者が入ってきたと世間の人たちは思うだろうし、この修道会も存続することができるようになった、と考えるにちがいない、と云うのである。こうすれば、女子マリア会にとっても、永住の場所を手に入れることができる上に、ローマとパリの承認を同時に手にいれることになる!(70)。

司教はこの考えをムーラン神父とアデルに伝えた(71)。そして、この二人は、共に、この提案を受け入れるように手紙でシャミナード神父を説得しようとした(72)。

アデルはこの手紙の中で、幼きイエスは(それは12月28日のできごとであった)わたしたちに贈物を下さった、と記している。ベロックはその修道院を実際に見に行き、この建物が新しい修道会の種々の目的に適した場所に位置していることを確認した。

この建造物には修道女のための16の個室があり、寄宿生用の大きな寝室二つと教室があった。外側にある聖堂はソダリストの集会に使用することができるし、修道女のためには、隔離された別の聖堂がある。

神さまがこちらの方へわたしたちを導いて下さっているようです、とベロックは述べている。すでに修道服を着用することができるようになりました。わたしたちの引越しを「町全体が」望んでいます、とかの女は記している。

これにたいしてシャミナード神父は返信を書き、次のような警告を発している(74)。

ただ単に新しい修道院がそこに移り住むことを条件としてその家を頂戴することができるのなら問題はないだろう。また、スール・ムリニエの世話のために必要な資金を手配することにも異存はない。スール・ムリニエといっしょに住んでいる若い女性にかんしいては、もし本人が希望し、本人に素質があるならば、女子マリア会に受け入れても問題はない。しかし、決断を下す前には数多くの観点から調査しておく必要がある。このように述べたシャミナード神父は、考えに入れておくべき点を6カ条にして書き送ってきた。その中でとくに大切な点は、次の二つであった。

(1)もし、聖ヨセフ会が法的に承認された共同体であるならば、その財産の譲渡のためには、国王の許可が必要である。司教の許可だけでは不十分なはずだ。いずれにせよ、マリアの娘たち自身がまだ承認されていないのだから、法人として財産の譲渡を受けることは無理なはずだ。司教の提案は、聖ヨゼフ会の消滅を前提としており、その土地と建物の権利書を他の組織体に書き換えること、すなわち、その権利書をアデルとそのシスターたち個人にたいする譲渡を行うことを意味している。このような譲渡そのものには反対しないが、新しい物件に関しての権利の移行が、問題なく行われることが明確になるまでは、決して引越しをすべきではない。

(2)孤児の世話をすることは、新しい修道会の目的に背くことではない。「いかなる種類の仕事も排除するものではなく、あらゆる種類の仕事が推奨されている」。孤児院の仕事が、本会特有の業務になったり、他の種類の仕事を犠牲にしてまでそれに主力を注がねばならないものになってはならない。「アンスティテュ(女子マリア会)の目的を特定化することによって、それを転倒させてしまう」ようなことがあってはならない。

シャミナード神父はムーラン神父にたいしても、これと同じような保留項目を書き送った(75)。従って、ムーラン神父やアデルが、これらの疑問点を司教に問い合わせたことは間違いないと考えられる。

1月6日、シャミナード神父からの新年の挨拶にたいする返事の中で、ジャコピ司教は次のように述べている。

  神父さま、できることならこの新年を、わたしにとって気持ちの良い年にして下さいませんか。

  いや、きっとそうして下さるものと、わたしは信じてい ます。ですから、マリアの娘の修道会を

  聖ヨセフの孤児院修道会に変身させて下さるように、切にお願いします。

  この変身は、修道会設立以前にシスターたちがわたしに相談して下さった計画に合致するもので

  あると考えています。しかも、これによって、より効果的に働くことができるようになると思います。

  現在かの女たちが住んでいる所から孤児院へ移ることにかんしては、何の支障もありません。

  その上、そうすることが、シスターたちにとってもアジャン市にとっても、利益をもたらすことになり

  ます。このことをよくお考えになり、そのようにシスターたちにアドバイスを送って下さいますように

   (76)。

この司教の手紙に返事をする前に、シャミナード神父は祈りの内に十分な時間をかけて熟考した。この提案を受け入れることはマリアの娘の修道会が消滅し、聖ヨセフの修道女会になることを意味している。

司教もまた、このことについて祈っていたことは明らかである。そして、自分がシャミナード神父に無理なことを提案していることに気が付いていた。そこで、司教は自分の提案を取り下げることにした。

1月20日、シャミナード神父は、司教が柔軟な態度に出た配慮の気持ちを感謝して、司教に手紙を送った。その手紙の中でシャミナード神父は、自分が返事をすぐに出さなかったのは、司教が勧めたように、十分に考える時間を持ちたかったからだ、と述べている。そして、この問題を熟考する度に、自分の良心はこの提案を受け入れることにネガティブな反応をした。司教がこの提案を取り下げて下さった(これは聖霊の力によるものだ、とシャミナード神父は述べている)今では、自分の考えを十分に申し開きすることができる。そして、ここで述べる考えは、これまで自分自身にとっても明らかでなかったことだ、と述べている。

マリアの娘の会を変質させることへの提案に自分が賛成できない理由、ならびに古い修道会を単に復活させることが今日の教会の必要性に応えることではないと自分が考える理由について、シャミナード神父は長々と(77)再吟味を行っている。

現代の教会は古い修道会と並行して新しい修道会を必要としている。これは迫害を受け、弾圧を受けた後の教会史に常に見られることである。数多くの創立者や聖なる教皇たちが認めた信徒の必要性があってこそ、そこに新しい修道会が生まれてきたのだ。そのことに関しては、たとえその修道会が古い修道会の名前を踏襲したとしても、同じ事が言えよう。

司教は、新しく創立されたこの修道会を、まだ、正式に承認するには至らなかったものの、シャミナード神父のこの立場に関しては、意見を異にすることはなかった。事実、司教は参事会に諮って、プティ・アンスティテュ(簡約された女子マリア会の会憲)と修道院の生活の規則を検討し、口頭でこれに承認を与えた(78)。

こうして、修道院は「避難所」に留まることになり、規則的な生活パターンに落ち着くことになった。

1817年5月、アデルは再びシャルルとの連帯保証でアジャン市の弁護士ジャン・バプティスト・トーマス・ショドルディ(JEAN-BAPTISTE THOMAS CHAUDORDY)を代理人として立て、今まで使用してきた避難所の部分の賃貸契約を延長すると同時に、「牢獄」と呼ばれている部分を新しく借り受ける契約をおこなった。この新しい契約で、有効期限は1825年12月31日までとなった(79)。こうして、新しく借り受けた部分の改修が終わると、共同体はその建物に移り住むことになったのである(80)。

この間、シャミナード神父はもう一度この新しい修道院を訪問しようと計画した。アデルも、できるだけ早くその計画が実現するように望んでいた(81)。すでに12月には、師はアデルに、オーク(AUCH)へ行く途中でアジャンに立ち寄り、帰り道にもアジャンに寄りたいと伝えていたのであった(82)。そして、その機会を利用してコンドムのロロットや、かの女の仲間もアジャンに来てもらえば良いと考えていた。また、いまだに修道院入りを希望していながら実現していなかったアメリ・ド・リサンにも会う機会を持ちたいと述べていたのであった。しかし、この訪問が不可能となった今、シャミナード神父はシスター各人にたいして、習慣通り新年の手紙を(83)自分あてに書いてくれるように依頼し、その手紙の中で、各人のこころの状態と進歩の度合を明らかにしてくれるように、と要請した。

こうして送られてきた手紙にたいして、シャミナード神父は、各人にそれぞれ返信を書き送った(84)。シャミナード神父は、また、各部門の部長にも、報告書を提出するように要求した(85)。

1817年7月、やっとシャミナード神父は長旅が可能になった。ボルドーを出発したのは同月の10日以前のことであった(86)。アジャンに到着するや、師のスケジュールは多忙を極めた。アデルと長時間にわたる話合いを行い、シスター各員と面接を行った。毎日のミサにおいては説教を行い、食事の間にも講話をしたり訓話を与えたりした。夜の10時まで告白室で過ごすこともあった。7月17日の木曜日には、17名の新しい女子青年ソダリストの入会式をおこなった。この新会員の入会式にシスターたちが合流して、合同聖体拝領式を聖堂でおこなった(87)。

21日月曜日と、翌火曜日には、オークでソダリストの入会式がおこなわれた(88)。シャミナード神父がこの入会式のためにアジャンを不在にしているあいだ、ムーラン神父はシスターたちの黙想を開始した。この黙想会はオークから帰ったシャミナード神父によって締めくくられた(89)。

25日、黙想の最終日、司教の許可を得て、やっとシスターたちは誓願を宣立することができた。かの女たちは、14カ月のあいだ、この日の来るのを待っていたのだ。いまだに修道会が正式に承認されていないこともあり、この誓願式は私的な形で執り行われた。各シスターが順次告白室に入り、そこで内密に誓願を宣立したのである。このような形であったとはいえ、この質素な誓願式は、修道女たちにとって、長いあいだ持ち続けてきた願望を満たしてくれる、大きな第一歩であったのだ。

終身誓願を宣立したのは9人のシスターである。それは、スール・マリ・ド・ラ・コンセプション・ド・トランケレオン(SOEUR MARIE DE LA CONCEPTION DE TRANQUELLEON)、スール・テレーズ・ド・ジェジュ・ヤナッシュ(SOEUR THERESE DE JESUS YANNASCH)、スール・サンバンサン・ド・ラバスティド(SOEUR SANT-VINCENT DE LABASTIDE)、スール・サンテスプリ・リオン(SOEUR SANT-ESPRIT LION)、スール・マリ・デュ・サンサクルマン・ヤナッシュ(SOEUR MARIE DU SAINT-SACREMENT)、スール・マリ・デュ・サクレケール・デイシェ(SOEUR MARIE DU SACRE-COEUR DICHE)、スール・エンマヌエル・ルイエ(SOEUR EMMANUEL LHUILLIER)、スール・アンヌ・モンセ(SOERU ANNE MONCET)、スール・サン・フランソア・アルノデル(SOEUR SAINT-FRANCOIS ARNAUDEL)である。

この時に用いられた誓願文は下記の通りである。

  マリアの娘の修道会の長上であられる尊敬すべき神父さま。

  聖なる福音と神父さまのみ手に身をゆだね、わたくしは、貞潔と清貧と従順を全生涯にわたり、

  かつ、永遠に守ることを神さまにお誓い申し上げます。

  わたくしは、また、その間、修道会の長上、または教会の長上によって明白なかたちで一時的に

  修道院を離れる命令が無い限り、蟄居を守ることを誓います。

  また、わたくしは、教会の長上の命令により、カトリックの信仰を擁護し、キリスト者としての

  行動を保持するために、教育に従事することを誓います(90N102)。

この時に有期誓願を宣立した修道女が二人いた。一人はスール・ルイ・ド・ゴンザグ・ポアトバン(SOEUR LOIS DE GONZAGUE POITEVIN)であり、もう一人は誰であったか、その名は知られていない(92N103)。

翌日、7月26日、二人の志願者が公式に修練院に受け入れられて着衣した。この二人は、スール・セント・フォア・マレシャル(SOEUR SAINTE-FOY MARECHAL)とスール・ドシテ・ゲッティ(SOEUR DOSITHEE GATTY)であった。

修道会が創立された1816年5月25日は新しい修道生活の開始を記念する日であるが、9人のシスターが終身誓願を宣立した1817年7月25日は、その将来を力強く指し示した先ぶれの日であったと言えよう。

27才になるアデルは、この新しい共同体で、修道女たちの日常生活を指導する責任者になった。しかし、かの女自身、修道生活の経験はとぼしく、あったと言えば、堅信の秘跡の準備のためにアジャンのカルメル会で過ごした6週間の体験程度のものでしかなかった。そして、それは、アデルがまだ14才にもなっていなかったころのことであった。もちろん、コンドムの伯母を訪問したときに、あるていど修道生活について見聞きしたことがあっただろうし、創立当初の数週間にはラムルースが教えてくれた。しかし、いま、シスターたちを引率し、指導し、励まし、養成しているアデルの知識は、シャミナード神父やムーラン神父の指導のもとに自分で学びとった経験と祈りと熟考によるものであった。

非常に詳細にわたって記述されたグランド・アンスティテュ(GRAND INSTITUT)をアデルに手渡すに当たって(93N104)、シャミナード神父とモニエ氏は、アデルのために手引書を用意した。

1825年、アデルは独自に「マリアの修道会に関する簡単な問答集」(BRIEF CATECHISM OF THE INSTITUTE OF MARY)を著しているが、それを見ると、アデルがこの手引書の本質的な部分を十分にマスターしていたことがうかがえる(94)。

このアンスティテュは、聖ベネディクトによる修道生活の伝統と聖イグナチオの使徒的方向性(95)を取り入れたものであって、この両者の難しくかつ微妙なバランスを保とうとするものであった。シャミナード神父は、修道会設立にあたって、今までにない新しいものを取り入れようとしていること(96)を十分に承知していた。しかし師は、自分が作り上げたものが必ず実践できるものであることをも、確信していた。

アンスティテュを作成するに当たって、シャミナード神父が参照した資料は主に三つある。よく世に知られた聖ベネディクトの会則と、聖ジャンヌ・ド・レストナック(ST. JEANNE DE LESTONNAC)が創立したノートルダム修道会のイグナチオ的な会憲(97N105)、そして「マリアの召使の手引」(MANUAL OF THE SERVANT OF MARY)の最新版(1815年版)(98)であった。

モニエ氏が記した76頁にわたる「手引」の序文では、先ずソダリティのマリア的指向性が説明され、そのソダリティがメンバーに与えることのできる大きな利点、すなわち、「祈りと教育と(使徒)事業」について論じられている。グランド・アンスティテュは(第160条で)ソダリティについて説明している中で、ソダリティが修道会(INSTITUT)と同じく、祈りと教育と労働の三つの目的をもっていることを明記している。この新しい修道会が、このような意味での三つの目標(自己の聖化に励むこと、他の婦人を救霊に導くこと、仕事を進めて行く上で遭遇する霊的危険から身を守ること)を持つものであることを述べた後、この新しい修道会(INSTITUT)では、この三つの目標を達成するために、あらゆる手段と方法を三つの部門で統合する。すなわち、霊生部(ZEAL)、教育部(INSTRUCTION)、そして、労働部(WORK)である(99)と述べている。この修道会(INSTITUT)では、長上も、補佐官も、そして、ノビスとポストランを含めたすべての修道女たちも、その義務と権利と責任は、これらの部門のもとに統合される、とも述べられている。

グランド・アンスティテュ(GRAND INSTITUT)とプティ・アンスティテュ(PETIT INSTITUT)に加えて、シャミナード神父は「一般規則」(GENERAL REGULATIONS)と「各部門長のための規則」(REGULATIONS FOR EACH OF THE OFFICERS)の執筆に着手していた(100)。師はアデルに、これらの文書を研究し、他の修道女に説明し祈ることによって、修道会の精神をより深く身につけ、それを自分のものにするように、と励ましている(101)。

師はアジャンを訪問した折りには、アデルと頻繁に面談をおこなって、より詳しい説明を与えるとともに、かの女の進むべき道、ならびに他の修道女を指導する方法を、かの女が自分自身で見出していくことができるように指導した(102)。

しかし、アデル自身の体験は、これまでに与えられ、これからも与えられるあろうシャミナード神父の会則や規則などの全てをもってしても、これに置き換えることはできなかった。注意深く人びとを観察し、性格を見通し、修道会の精神を深く理解することによって、アデルはその権限をどのように行使すべきかを身につけたのである。行動におけるこのような成熟度は、一日にして成し遂げられるものではない、とシャミナード神父は述べている(103)。

しかも、アデルとその仲間たちは修道会の新しい基礎が置かれた時点で、新しい志願者にたいする生きた手本となれるように(105)、会則に忠実に生きなければならなかった(104)。また、上司としてのアデルは、自由裁量権を生かして特殊な状況に会則の規定を適合させたり修正を加えたりすることができるように、会則の「精神」を熟知しておかなければならなかった(106)。

シャミナード神父は聖ベネディクトのように、会則とその遵守の重要性を強調すると同時に、これを節度をもって守ることも強調した。会則の諸規定を実生活に適応させるに当たっては、「すべての娘にたいして、わけ隔てなく、良き母親」(107)であるように。娘たちが必要のある場合は、常にそれを配慮し、時にはかの女たちの必要性を前もって配慮してあげなければならない。犠牲の精神を奨励し、これが欠けている人には養うようにしながらも、会則に規定されている以上の償いを課することがあってはならない、とアデルに諭している。

また、会員各自と頻繁に面談し、各自が正直に、かつ、オープンにこころを開き、その生活、態度、躊躇、恐れなどを打ち明けることができる機会を作る必要がある。不満があったり、会則の条項を守ることができない修道女や、他の修道女と性格的に合わない場合などは、修道女の気持ちを楽にして上げなければならないし、長上とフランクに問題点を話し合えるようにして上げなければならない(108)、とも教えている。

また、シャミナード神父はアデルにたいし、会員たちが光と安らぎを求めて自由にかの女に会いに来ることができるようにしておくべきだ、と述べている。たとえある会員が全く自己満足のために面談を求めてくる疑いがあるときも、この修道女を親切に受け入れねばならない。このような修道女たちには、信仰をもって動機を純化するように教えなければならないが、にもかかわらず、かの女たちには、いつも長上から受け入れられており、問題を聴いてもらえるという安心感を持たせなければならない。そうするだけでも、誘惑の時や悩みの時には大きな助けになるからだ、とシャミナード神父は述べている(109)。

このような個人面談のほかに、アデルは毎週日曜日に霊的講話をおこない、週日、一般には木曜日に、一時間にわたってキリスト教の教義についての講話をおこなった(110)。

徐々にメンバーが増えてくると、アデルはアンスティテュに従って共同体を組織化することができるようになった。最初の頃は、部門長を任命するときは、長期にわたって職務につかせることの無いようにし、短期間にくぎって行った。こうして、一つの職責を、幾人もの修道女たちのあいだで、順繰りに経験することが出来るようにした。こうして、誰がいちばんの適任者であるかを見極めるようとしたのである(111)。

シャミナード神父が部門長を決定的に任命したのは、ずっと後になってからのことである。スール・テレーズは霊生部長に(MERE DE ZELE)(112)、スール・エンマヌエルは教育部長に(113)、そして、スール・サンバンサンは労務部長に(114)任命された。また、スール・サクレケールは修練長に任命された(115)。アデルは、権限を部下に委譲するように勧められ、アデル自身は「全般的な統括」を行うにとどめられた(116)。

各部門長は(シャミナード神父から送られてきた雛形に従って)台帳に自己の職責と業績を記すことになった。この台帳は、部長自身のためであると同時に、長上が点検確認するためのものでもあった(117)。各部長は、毎週一回、会則と規則を読み、完全に身につくまで、これを続けた。そして、自分の使用に役立てるために、自分に任された職分に関係のあるカ所を抜粋して要約を作った(118)。しかしながらアデルは修道女たちが働き過ぎて過労に陥らないように、各人に休息と黙想の日を与えるように配慮した。この休息と黙想の日は、仕事のマネジメントに支障をきたすほど長いものではなく、さりとて、神の愛に強められて再び仕事につくことが出来るような長さのものであるように配慮された(119)。

共同生活の規則は厳しいものであった。アデル個人としては、私的な生活の規則でスケジュールに合わせた生活を送ることには慣れていた。しかし、そのアデルも、狭い囲壁の中で他の婦人たちと生活をともにするのは、これが初めての経験であった。

朝5時に起床し、各人、ベッドを作る(貴族や上流階級の娘にとって、これは初めての経験であったに違いない)。その後、共同体による朝の祈りがあり、6時まで個人的な念祷をする。個人の念祷はスカピラリオの祈りで締めくくられる。

6時に仕事が始まる。ノビスの場合は、このとき授業が始まる。7時に共同体は集合し、マリアの聖心の小聖務日祷を唱え、ミサ聖祭にあづかる。ミサののち15分間、霊的読書をするか、感謝の祈りを捧げる。朝食は午前8時である(それは、パンとミルクと、少しのコーヒーであった)。

午前8時30分から11時30分までは授業に出るか、仕事をする。11時45分、良心の糾明をしたのち、正午に昼食をとる(スープ、肉料理または魚料理、野菜、果物かチーズ、ジャムであった)。

昼食ののち2時まで休息をとったが、歌の練習や語学の授業があるときは、1時30分までであった。

午後2時から5時までは、再び授業か労働に従事するが、その間、3時には「三時の祈り」を唱える。5時30分から6時までに、もう一度念祷を行う(120N106)。そして、7時15分、ロザリオを唱え、7時30分、夕食をとる(日・火・木曜日は肉または魚の料理、月・水・金曜日は卵か野菜の料理)。夕食ののちに休息があり、それは9時15分に終わる。そののち15分間糾明を行い、その後、夕の祈りをする。

日曜日には別のスケジュールがあったが、午前と午後の大半の時間はソダリティの集会にとられた。そして、午後5時にはメールの一人による講話があった(121)。

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