◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第13章 1816年 

会憲 規則 そして 志願者
マダム・パシャンの死 / 「避難所」への引越し
シャミナード神父とジャクピ司教の微妙な関係
シャミナード神父との初めての出会い



アデルは、すでに若い頃から、数多くの困難を堪え忍んできた。迫害と追放、父親の病気と死、自分自身の病気と縁談などがそれである。

しかし、今回の問題は自分だけではなく、大勢の人に関わりを持つ問題であった。自分の下す決定如何によって、これらの人たちの全生涯をさえ左右することになる可能性をもっている。当然のこと、アデルは前進すべきか思いとどまるべきかと、思い悩んだ。ひょっとして自分はこの仕事に耐えきれないかも知れない。自分のこの行動は賢明さに欠き、僭越過ぎるのかも知れない。神の聖旨にそぐわないことをしているのではないか。

アデルは、ラリボー神父やローモン神父、そして、おそらくシャミナード神父にも、疑問と疑惑を投げかけた。しかし、アデルのこの心の不安を払拭してくれたのは他でもない、母親であったのだ。

「それは誘惑にすぎません。神の栄光のためにつくられたこの計画をあなたに放棄させようとする悪魔の策略です。あなたはすでに数年来この計画について考えてきました。そして、見識のある人たちからも認められ、支持されてきました。わたしの娘よ。ただひたすら前進しなさい」(1)。

母親男爵夫人は、アデルをこのように励ましたのだった。

アデルの気持ちは、1月中旬、アガタにあてた手紙の中に要約されている。 

すべてを神のみ手にお捧げいたしましょう。もしこれが神の御業であるならば、すべての反対を押し切っても、成功させて下さるに違いありません。もし、これが神の聖旨ではなく、神の栄光のためでもないならば、どれほどわたしたちが努力しても、決して成功しないでしょう。神の愛すべき聖旨のためにすべてを捨てて心安らかに過ごそうではありませんか・・・。<もし、わたしの弟子になりたいと思うならば、自分自身を捨てなさい>。 これはすべてのキリスト者にたいする主のみ言葉です。ですから、わたしの愛する友よ。もう一度勇気を奮い起こしましょう。そして、神の生命の内に生き、神の内に生き、神の為に生きるように、自己に死のうではありませんか。(2)

このころ、アデルは、シャミナード神父に手紙を書き、近い内にこちらに来てほしい、もし来てもらえないならば、少なくとも会憲を送ってほしい、と述べている。そして、アデルは、ベロックにも、これと同じ内容の手紙をシャミナード神父に書いてくれるように依頼した(3)。

このときアデルが書いたシャミナード神父への手紙は、1月11日付けのシャミナード神父からの手紙と行きちがいになっている。この手紙の中でシャミナード神父は(4)、普段の仕事をしながらも、「高地での」(ガロンヌ川流域の川上)成行きに常に注意を払っていると述べ、アデルを安心させている。すでにシャミナード神父は、アデルとローモン神父に修道生活を希望している人のリストを作成するように依頼し、このリストには、志望者の名前とその人にかんする評価を記しておくようにと依頼していた(5)。また、このリストの作成を依頼する前に、志望者各人に宛てて、自分の意思と気持ちを手紙で知らせて来るように、とも通知していたのであった(6)。

さて、シャミナード神父がこの手紙を送ろうとしているとき、アデルからの手紙が配達された。この手紙には志望者のリストが同封されていた。また、この手紙の本文には、会憲にかんするいくつかの疑問点が指摘されていた。それまでのシャミナード神父の言葉によれば、会憲はすでにでき上がっているとのことであったが、かの女たちはまだ一度も見たことがなかったのである。このような状況に置かれていながら、どうして会憲の遵守を義務付ける諸誓願を宣立することができるのだろうか(7)、と云うのがかの女たちの率直な気持ちであった。

これにたいしてシャミナード神父は次のように答えている。

会憲というのは「規律や規則」とは異なり、目標(OBJECT)、本性(NATURE)、目的(END)、そして、その組織体の一般的手段を叙述しているに過ぎない。皆さんは、すでにこれらについてはご存じのはずだ。会憲が規定するのは、<1>これから創立しようとしている修道会は普通誓願を立てる修道会であること。したがって、この誓願を宣立することによって修道女たちは特別な形でキリストの浄配になること。<2>修道ソダリストとしての修道女たちは、当然、より大いなる理由をもって、一般のソダリストが召されていると同じく宣教師であるべきこと。<3>マリアが修道女たちの保護者であり、修道女はマリアの娘になること。以上の三点である。自分は長いあいだ皆さんといっしょに居ることはできない。また、皆さんの側近くに住んでいるわけでもないのだから、安定性を確保するためには会憲を完成させ、教会の承認を得ておく必要がある(8)、とシャミナード神父は述べている。

しかしながら規則は別である、とシャミナード神父は続ける。規則は実際に使ってみて、初めてその適・不適を認識することができるものだ。だから、当面は暫定的なもので十分である。概して云えば、新しい修道会は厳しい苦行を強調するものではなく、倫理徳を実践するものであり、使徒職によって霊的生活の進歩に障害を来すことのないように予防措置をとっておく必要がある。自分が到着するなりすぐに修道会を創立するほど自分はせっかちな人間ではない、とも述べている。

しかし、これらの点を自分に相談してくれたことをアデルに感謝し、もしアデルがこの点にかんして熟慮してくれれば、きっといま自分が述べたのと同じ考えに到達すると思う。ラリボー神父やローモン神父にしても同様だ、と述べている。

師は、また、他のいろいろなソダリティのグループ、とりわけ、青年男子のソダリティを発足させることを期待していた。そして師は、公開集会用のプログラムをアデルに送っている。公開集会を開く許可はすでに司教から得ており、アジャン教区のあちこちで開催されていたのだ(9)。

事実、ローモン神父もラリボー神父も、各地の主任司祭の協力を得て、いろいろなグループ作りに精を出していた(10)。たとえば、タイエ神父(FR. TAILLE)はアジャン教区の教区長代理であったが、今では第三部会のアジャン分会に積極的に参加しており、定期的に会員と集会をもっていた(11)。

1月もそろそろ終わりに近づいたころ、アデルとシャルルはディシェ氏への委任状に署名することになった。アジャンの家を借りる時の代理人になってもらうためであった(12)。1月24日、シャトーにおいて、公証人の手で書類が作成され、公証人の証人のもとに書類に署名した。25日、この書類は登記のためネラックに送られ(13)、そこから、できるだけ早くアジャンへ送られることになっていた(14)。ちょうどこの時、アデルはシャミナード神父から1月23日付けの手紙を受けとった(15)。

この手紙の中でシャミナード神父は、アデルに、かの女が先に送った志願者についての種々の情報にたいして感謝の意を表し、創立当初は年かさの婦人を受け入れることに賛成するが、将来は受け入れることに反対である、と述べている。また、すべてが神の聖旨のままに行われるように、全員が、毎日「聖霊来たりたまえ」と「アベマリステッラ」(AVE MARIS STELLA)の祈りを唱えるように、と要望している。

師は、また、かねてから懸案の川上地方への旅行の詳細を手配してくれるように、とも依頼している。師は召使を連れずに一人で旅をするが、一名のソダリストが同行する、と伝えている。二人は旅程のちょうど中間地点に当たるマルマンド(MARMANDE)まで馬車で行き、その翌日、アデルが手配する所へ馬の背にのって出かけることになっていた。

師は、アソシアシオンと男子青年のソダリティのために為すべき事のほかに、自分がしようと考えていたことについても知らせてきた。

アデルは両親から反対されていない人たちをともなって新しい修道院へ移り住み、暫定的なプログラムに従って生活することになった。そして、その他の人たちは、可能であれば数日遅れでアジャンに来て、共同体と共に宿泊するか、さもなければ他の場所に宿泊することになった。

シャミナード神父は、自分が到着すれば、まずかの女たちと創立の準備に必要な話をするつもりだと述べ、また、準備の整った人は新しい共同体を形成するように。そして、これは自分が出発する前に実行に移しておいてほしい、とも述べている。そしてアデルには、悪魔が予期しない困難を起こして邪魔をするかも知れないが、み主は「ご自分の栄光とおん母の栄光のために行われる仕事は完成し給う」(16)だろう、と述べている。

師は、また、ベロックにも手紙を書いた(17)。アデルはその手紙の一部を写してロロットに送っている(18)。師はその手紙の中でディシェレットにたいして四旬節を創立の準備のために有効に利用するようにと勧めている。それは、この季節に人は死に、復活することになるからだ、と云っている。また師は続けて、ご復活後の40日間は、イエスがそうなされたように、仕事を完成する時期である。できるだけ頻繁に多くの人と会い、手紙を書き、励まし、支え、いずれ全員は救霊の仕事に参加することになるのだということ、また、使徒的精神をもって救霊の事業に参加し、宣教師の熱意をこころに燃やしながら救霊の事業に参加することになるのだ、ということを思い起こさせてあげてほしい、とベロックに述べている。

2月上旬、アデルはロロットに手紙を書いてシャミナード神父の到着が間近に迫っていることを知らせると同時に、師がコンドムに一週間ばかり滞在してソダリティの設立に協力する意向をもっていることをも伝えている。師はそのためにジャクピ司教から許可をもらっていた。師は、コンドムでは、コンパンニョ家かカステックス神父の家に宿泊することになっていた。アジャンでは神学校に泊まることになった(19)。

しかしながら、またもやシャミナード神父は出発を延期せざるをえない状況におちいってしまった。そのため、旅行は復活祭以降に延期された。そこでシャミナード神父は、ラリボー神父とローモン神父が先に検討することができるように、規則書を送ることにした。

ところでその間、司教はアデルたちに、早く行動を開始するようにと催促してきた。ローマやパリから許可をとる必要があれば、それが何であれ、取り寄せてあげる、とも約束した。何はともあれ、先ず設立することを司教は望んだのである。設立の時期は5月に設定された(20)。

それから間もなく、アデルの友人マダム・パシャンは、二ヶ月ほどの病気の後に帰天した。アデルはアガタに訃報を知らせている。パシャンはかの女たちが形成している「天使月間」(THE ANGELIC MONTH)と呼ばれる祈りのグループの一員であったからである。この祈りのグループは天使の九つの聖歌隊にちなんで九人のメンバーで構成されていたが、パシャンの死によって欠員が出たため、それを補充する人を探すように、とアガタに依頼している(21)。

アデルは、また、この同じ手紙の中で、近日中にアガタに会えること(22)の喜びを伝え、また、それまでの間、四旬節を自分たちの志願期間として用いるように(23)と、呼びかけている。そして、この期間中は倫理徳の修得に励み、とりわけ自分たちの奉献に欠かすことのできない我欲の放棄に努めるべきだ、とも述べている。

2月2日、ディシェ氏はアデルとシャルルの代理人として、アジャン市が所有する「避難所」を市から賃貸する契約書に署名した(24)。1816年1月1日にさかのぼって、むこう6ケ年を期限としたこの賃貸契約には種々の条件が付加されていた。その諸条件の中で、特に規定されていたことは、この敷地内に住む他の居住者と井戸水を共用すること、また、建造物の階下の手洗いは賃貸者が自己費用で造作すること、の二箇条であった。賃貸料は年間500フラン。前金制で1月1日と7月1日に支払うことができるようになっていた。支払いを確実にするため、アデルとシャルルは、森林と葡萄畑と耕地を含むネラック近辺の不動産を抵当に入れた。

この賃貸契約によると、以前「避難所」として使われていた土地と建物の全体を賃貸するのではなく、その一部のみであった。シャミナード神父は、もし他の部分が空き家になれば、そこも貸してもらえるのか、と質問している。師は、また、この物件の見取図と詳しい説明をおくるように依頼している。それは、新しい修道会の目的に合わせて、この施設をどのように利用するかの計画を練り上げるためであった(25)。

師は、また、各メンバーが持ち込む家具類は共同体の共有に資すべきだと述べているが、そのために問題が起こらないように、賢明に行動するように、とも述べている(26)。

アデルは新しい修道会の長には成りたくなかった。かの女はこの願いを再三シャミナード神父に表明しており、師が指導しているソダリティの中から適任者を選んで派遣してほしい、と依頼していた(27)。しかし、シャミナード神父は、アデルのこの願いにたいして、ボルドーから新しい修道会の会長になれるような人物を差し向ける意向のないことを伝えた。しかし、自分が到着する前にマドモアゼル・ド・ラムルース(MLLE DE LAMUOUROUS)を派遣して、創立の準備を手伝わせよう、と云ってきた。

シャミナード神父の言葉によれば、この女性は経験豊かで、かつ、如才のない人物であった。そして、かの女が必要な準備をすべて調えてくれるだろうから、自分は新しい修道会の霊的な側面の指導に専念するつもりだ、と師は伝えている。マドモアゼル・ド・ラムルースはそれほど身体が丈夫な方ではなかった。しかし、この旅行に支障を来すことはない、と考えられた(28)。

3月までに、事態は急速に進展した。おん孕りのマリアの名をいただくことになったこの新しい修道会は(29)、すでにアジャンの人たちの注目のまとになっていた(30)。地域の人びとはこの修道会の創立に好意を寄せ、とりわけ貧しい人たちの教育に無償で従事してくれることを知り、大いに歓迎した。二人の知人が自分の家にスペースをつくり、仕事場として提供した。アソシエイツを含む大勢の関係者は、毎日そこに出入りして、聖堂のリネンや祭服の準備をした。聖堂と修道院に、ギフトが送られてきた(31)。ベロック夫人は準備の仕事の総監督として、「首まで」どっぷりと仕事に浸かっていた(32)。

4月、ベロックがアデルに送った長文の手紙はおもしろい。この手紙には、建物と聖堂の歴史が1753年にさかのぼって詳しく記されている(33)。また、かの女は候補者に関する情報をも記し、両親の許可と反対、受け取った持参金と家具の記録を書き記している。

アデルを含む数人は、すでにベッドと荷物をアジャンに運び込んでいた。ベロックはそれらの品物を新しい家に運び込み、整理に専念した。ベロックは、また、フランソワーズ・アルノデル(FRANCOISE ARNAUDEL)が高齢であるにもかかわらず受け入れられたことをタイエ神父がたいへん喜んでいる、とアデルに伝え、また、それ以上に、フランソワーズ自身が喜んでいる、と伝えている(34)。

トランケレオンを去る準備にあたって、アデルとシャルルは私的な契約を交わした。4月17日のことである(35)。この契約は、男爵から相続したアデルの持ち分についてであった。アデルは自分の取り分として60、000フランの資本金を受け取り、これを上限に、超過した物はすべてシャルルに譲ることにした。これにたいして、シャルルはアデルに年間2200フラン(資本金の約5%から経費を差し引いたもの)を支払い、その上に、伯母から残された12、000フランの資本金にたいする利子として年間600フラン(36)を、すなわち、合計で2800フランを四半期毎に前金で支払うことになった。

それから間もなく、アデルはコンドムに出かけ、伯母とロロットならびに新しく入った二人のアソシエイツに最後の別れを告げた(37)。アデルはまたカステックス神父に会い、師がシャミナード神父と会うことになっている会議の計画を練り、男子青年部の設置にかんする種々の業務について打ち合せをした(38)。コンドムでのアデルの喜びは大きかった。しかし、その喜びも夢のように過ぎ去ってしまった(39)。

ド・ラムルースからの手紙を受け取ったが、この手紙では、かの女がいつアジャンに到着するのか、まだ最終的に決められていなかった(40)。

ロロットの健康はあまりかんばしくなく、その上、かの女が家を出ることに両親がためらいを見せていた。そのため、かの女の参加が創立に間に合うかどうかは疑わしくなった。アデルは、かの女とコンパニョが、少なくともアジャンに来て創立の黙想に参加してくれるように希望した(41)。

5月22日、トランケレオンに帰ったアデルは、ロロットに宛てて、非常に熱意にあふれた手紙を書いている。トランケレオンから出す手紙はこれが最後になり、次の手紙からは汚れなきおん孕りの修道院から出されることになる(42) 。

やっとすべての細事が整い、すべての計画がうまく噛み合うようになった。マドモアゼル・ド・ラムルースは、5月25日、土曜日の午後、アジャンに到着することになった。5月22日、昇天祭の前日には、22才のクレマンティン・ヤナッシュと、以前修道女で58才になるジャンヌ・リオン(44N75)の二人がプーシュからシャトーに到着した。この二人は、シャトーで、モンパザ(MONTPAZAT)から来るマリ・トレイユ(45)と合流した。

かの女たちは、翌日、昇天祭に、フガロールの小さな教会に集まった。かの女たちがこの教会に集まるのは、これが最後となった。

アデルはドゥッセ神父にお別れの祝福を所望した。神父は目に涙をため、声を震わせながら、アデルに祝福を与えた(46)。長年のあいだ、アデルは小教区民のよき手本となり、かれらを支えてきたのだった。神父も教区民も、かの女の出発を惜しんだ。

金曜日はシャトーで過ごし、友人や親族、アソシエイツ、貧しい人たちに別れを告げた。

翌日、土曜日、5月25日。アデルと三人の仲間は、午前4時、静かにシャトーを出た。ここからガロンヌまでの8キロは、徒歩で進んだ。そこから一行はフェリーに乗って川を渡り、ポール・セント・マリからアジャンまでの約25キロの道を馬車で進んだ。

一行は午前9時にアジャンに到着し(47N76)、「避難所」で馬車を降りた(48)。「避難所」は旧アジャン市内の南東の角に位置していた。ここで一行はスール・フランソワーズ・アルノデル(SOEUR FRANCOISE ARNAUDEL)とスール・マルタ(SOEUR MARTHE)に出迎えられた(49N76,77)。アデルはかの女たちを抱擁し、その場で自分の財布をスール・フランソワーズに手渡した(50)。もちろん、ベロックもその場に居合わせた。そして、アガタと他の多くのアソシエイツも、その地の友人たちとともにアデルの一行を出迎えた。ノートルダムから来たデュクルノ師がその場にいたことは疑うべくもなく、また、おそらく、デユブラナもそこに居たに相違ない。

一行は、この日のためにベロックとその友人たちが準備し装飾してくれた聖堂に進み、そこで感謝の賛美歌を歌った。

しばらくすると、ド・ラムルースが到着した。かの女はミゼリコルドから「そっと抜け出してきた」のだった。かの女がそっと抜け出して来たのには理由があった。それは、1813年、かの女がパリに出かけた時、長期にわたって留守をしたために、かの女が面倒をみていた「少女たち」(51N78)が、ラムルースの留守を極端に嫌うようになったからである。結局、ラムルースが抜け出した後、かの女の留守の釈明をする役目はシャミナード神父に残された(52)。

夕刻、ド・ラムルースを先頭にして司教を訪問した。ジャコピ司教は丁重にかの女たちを迎え入れ、喜びのうちに祝福を与えた(53)。かくして「マリアの娘の修道会」は、アジャンにうぶ声を上げたのである。西暦250年以来キリスト教の町であったアジャンにおいて、女性の修道会が創立されたのは、これが初めてであった(54)。

宿願をはたしたアデルは、こうしてマリアのおん孕りの名を頂いた修道院(56)に「落ち着くことができた」(55)のである。

午前中にアジャンに到着し、夕刻に司教を訪問するまでのあいだ、アデルは過去数週間にベロックが進めてくれていた仕事を、その目で確かめることができた。中でも特に聖堂には力が注がれていた。

この聖堂は、少なくとも1798年に「避難所」が閉鎖されて以来、一度も礼拝のために使用されたことはなかったと思われる。今では新しい絵画が掲げられ、ベロックの表現によれば、「チャーミング」な聖櫃が安置されていた。聖体拝領台の手摺りもあたらしくなり、祭壇の上の天蓋も美しく手が加えられていた。ひょっとして、所有者であるアジャン市が、聖堂全体の内装に協力してくれたのかも知れない。

告白室も新しくなり、いろいろな祭服や装飾品が、多くはアソシエイツたちのカーテンやハンカチ、ドレスやスカートからリフォームされて作られていた。アデルの伯母サン・ジュリアンからの美しいギフトもあった(57)。

台所、食堂、寝室などにも家具が取り揃えられていた。この家具は、ほとんどが修道院に来た人たちの持物であった。また、契約書の通り、洗面所関係は新しく造作されていた(58)。アデルを含む数人の婦人は、自分たちのベッドを送ってきた(59)。しかし、今では、それらは全て共同の使用物とみなされた(60)。

シャミナード神父の言葉の通り、高価な家具類はできるだけ身分の低い人たちに供され、安価なものが身分の高い婦人に与えられた。それは、修道共同体は、清貧と離脱を実践する場であったからである。事実、持ち込まれた家具の中で、修道清貧に全くそぐわないものも含まれていた。このような家具は、取り替えることができる時期がくるまで暫定的に使用し、その後は、黙想に来る人たちの宿舎で使用することにした。

なにはともあれ、当初は、新しい修道女が持参した所持品はいっさいこれを破棄する事なく、かの女たちが終身誓願を宣立するまで保管しておくことになった。その時までは、その家具にたいする所有権は、各自に保留された。そして、使用権のみが共同体に渡された(61)。

おん孕りの修道院の建物は広々としていた。庭園も広かった。市との契約内容によると(62)、この修道共同体は庭園全体を使用することができることになっていたが、建物の使用には制約があった。

建造物は比較的新しいもので、1753年に、旧来の建造物に似せて新しく建築されたものであった。この建物が教会や修道院に用いられたのは、アジャンの歴史において、かなり古い時代にさかのぼり、少なくとも1120年に創立された軍団修道会、神殿騎士団(ORDER OF KNIGHTS TEMPLAR)、の時代にまでさかのぼる(63)。

アジャンに駐屯していた騎士団の教会は、セント・キッテリ(SAINTE-QUITTERIE)に奉献されたもので、敷地の東部に位置していた。これは、ちょうど北と南の境界線の中間に当たるところで、東に向いて建てられており、敷地と市の境界線となっている市の堀を見おろした所にあった。堀はさらに南へ延び、やがて西に向かって右折し、屋敷内の広い庭園を横切っていた。

この教会の北側には回廊があり、ここに井戸があった。そして、細い道がここからのび、テンプル道路につながっていた。このテンプル道路の東の端で、神殿騎士団の敷地の北東側の隅にあたる場所には、市の門があった。これは、のちにセント・キッテリと呼ばれるようになった。北から南にかけて、この敷地の幅を測ると約137メートルあった。

1312年、神殿騎士団は弾圧され、その敷地はモルタ騎士団(KNIGHTS OF MALTA)(イェルザレムの聖ヨハネ慈善修道会)の手に渡った。1601年、このセント・キッテリ教会は騎士団から苦行兄弟会(CONFRATERNITY OF PENITENTS)に賃貸され、苦行兄弟会は、1633年までここで集会を催していた。1633年、この敷地は放置され、所有権は騎士団修道会に保有されたまま、百年以上もそのままの状態で残された(64)。

1753年、ジルベール・ド・シャバンヌ司教(GILBERT DE CHABANNES)が、更生した娼婦たちのホームを設立しようと考え、騎士団からこの敷地を手にいれた。しかし、当時の建造物は保全状態が悪く、取り壊さざるをえなかった。新しい聖堂と建造物は、古い建物と同じ場所に建てられた。この新しい共同体は、最初は自発的に更生する人たちの共同体であったが、やがてそれは警察による拘置所として用いられるようになり、「避難所」(HOUSE OF REFUGE)と呼ばれるにいたったのである。 

この「避難所」は1798年に閉鎖され、敷地は押収され、拘置されていた人たちは他の場所に移送された。そののち、この建物はいろいろな用途に使用された。1805年から1807年までの間は、短期間ではあったが、学校として用いられた。そして、その後、市はこれを個人住宅として賃貸した(65)。

いま、アデルとその修道女が住まうことになった建物は、このような歴史を持っていたのだった。幾世紀もの古い井戸はいまだに使用されており、他の居住人と共用することになった。聖堂のちょうど東側にある堀も、そのまま残っていた。しかし、いまでは嵐のときの排水溝として用いられ、残念ながら下水同様になっていた(66)。

いまでは堀の対岸には住宅が建てられており、敷地内への入口につながる道路は井戸の東から西に移動されていた。これらの違いを除けば、数世紀前とあまりちがわない状態であったといえる(67N79)。

アジャン市そのものも、長い歴史にどっぷりと浸かった町であった。もちろんアデルはしばしばこの町を訪れ、ディシェ家を訪問した。だからアデルはこの町のことをよく知っており、特に教会については、その歴史をよく知っていた。

ディシェ家はコロネル・ラクエ通り(RUE DES COLONELS LACUE)にあった(68)。これはノートルダム・デュ・ブルグ教会(NOTRE DAME DU BOURG)とドミニコ会の<ジャコバン>のノートルダム教会の中間地点にあった。このジャコバンのノートルダム教会には、デュクルノ神父がいた。

ノートルダム・デュ・ブルグ教会は、今では路面よりも2メートルあまり低くなっているが、最初サラセン人によって破壊され、その後ノルマン人によって破壊された教会の上に再建された13世紀の教会の跡地に建てられたものである。建築された当時、この教会は市塀の外側に位置しており、その共同墓地はアジャン市の「名門家族」の墓として用いられていた。1809年、この共同墓地は12世紀の美しいセント・フォア(SAINTE-FOY)教会に移された。この教会はアジャン市の北西の角にあり、「避難所」の真北10キロ足らずの地点にある(69N80)。

ドミニコ会のノートルダム教会は1249年に遡る(70)。この教会堂が最初に建てられたときは、13世紀にドミニコ会が完成させた建築様式(71)にしたがって建築されため、この聖堂には二つのネーブ(身廊)があったと考えられている。この教会堂は町の一番高い所にあり、ガロンヌ川から約8メートルの高見に位置している(72)。

ディシェ家が住んでいる同じ道路には、以前カルメル会の修道院であり、今では学校として使用されている建物がある。この修道院の聖堂は、いまでも中庭に建っている(73)。

町の北塀にある元のアウグスチノ会修道院からさほど遠くない場所にサン・ヒレール教会(SAINT-HILAIRE)がある。革命以前この教会はフランシスコ会のコルドリエ派に属していた。今では、その共同墓地とともに小教区の教会になっている(74N81)。このサン・ヒレール教会は、ローマ時代のビーナスの神殿の上に建てられたものである(75)。そして、現存している建築物の一部は11世紀にさかのぼる(76)。

アジャン市の早期の殉教者サン・カプレ(SAINT-CAPRAIS)の教会は、今では司教座聖堂になっている。そもそもこの教会は、6世紀、サン・デュルシッド司教(BISHOP ST. DULCIDE)によって殉教者の遺体を安置するために献堂された司教区直管の聖堂であった(77)。853年にノルマン人によって破壊され、のちに再建されたが、再度破壊された。現存する建造物は12世紀のものであり、1561年にはユグノー教徒に占領され、1791年から1796年までは倉庫として使用された(78N82)。

アジャン市を出て約8キロ南へ行き、東へ行ったところに、ノートルダム・デュ・ボナンコントル(NOTRE DAME DU BON-ENCONTRE)とよばれる有名な巡礼地がある。アデルはいくつかの手紙の中で、この巡礼地について触れている(79)。

アジャン市北塀の外側で、アウグスチノ会の元修道院の向こう側には、120メートルにおよぶ絶壁があり、アジャン市を見下ろしている。この絶壁には幾つかの横穴がある。迫害時代には数多くのキリスト教徒がここに身を潜め、平和な時代には世捨人の隠遁の場所となった。例えば18世紀の初期、7人の隠遁者が司教の指導のもとにこの横穴で生活をしていた。かれらの弟子たち(一般に呼ばれるような修道会は形成していなかった)はフランス大革命で離散した(80)。また、初期の殉教者が迫害を受けたのも、この場所であった。セント・バンサン、セント・カプレ、セント・フォアなどはそのときの殉教者であるが、この人たちは、すべて3世紀半ばの聖人である(81)。

ガロンヌ川を見おろすこの同じ高原こそは、アジャンの発祥の地である。それはヨーロッパの先史時代にさかのぼる。ローマ時代以前にはニティオブリゲス(NITIOBRIGES)族がこの地に住み着いていた(82)。プトレマイオスにその記述があり、ジュリアス・シーザーの「コメンタリーズ」にも記録されている(83)。

この先住民たちは小さな部族で、この部族の首長、つまり部族の王は、原始的な町を形成していた。ローマ人はこの町をアギンヌム(AGINNUM)と呼んだ。紀元前52年、シーザーの率いる軍隊がベルチンゲトリックス(VERTINGETORIX)を征服してこの地方のゴール人を「鎮圧」すると、アジャンの先住民たちは、いつ氾濫するとも知れないガロンヌ川の沿岸に、平坦な土地をもとめて移住した(84)。

こうしてかれらが移り住んだ場所は、頻繁な洪水に見舞われ、けっして住みよい場所とは言えなかったが(85)、やがて軍事的に重要な拠点になり、通商の拠点ともなった。それは、この町が(今日でもそうだが)ボルドー、ツールーズ、カホール(CAHORS)、レクツール(LECTOURE)、ビルヌーブ(VILLENEUVE)に通じる街道筋に面していたからである(86)。

アギンヌムの町にキリスト教がもたらされたのは、かなり早い時期であった。すでに3世紀には、東方から来る商人たちによって、キリスト教集落が形成されていた(87)。西暦250年、ゴール人を改心させるために選ばれた7人の司教の一人セント・マーシャル(SAINT-MARTIAL)がアギンヌムで説教をした後、サンテチエンヌ教会を建立した(88)。これより後の数世紀間、フランク人(FRANKS)、バンダル人(VANDALS)、スーバイ人(SUEVI)、アラナイ人(ALANI)、ビジゴート人(VISIGOTHS)の侵入を受けたが、聖ステファノ城(CASTRUM SANCTI STEPHANI)を中心にこの小さな町は繁栄を続け、アキテーヌ地方ではボルドーに次いで重要な町に成長した(89)。

8世紀のサラセン人と、9世紀のノルマン人は、それまでの侵入者たちによる破壊に輪を掛けてこの町を破壊したため、西暦1000年以前のアジャンの歴史は、今日では数フィートの地下に埋もれている(90)。

16世紀の宗教戦争の時代、この町はユグノー派によってほとんど壊滅状態に追いこまれた(91)。しかし、過去においてそうであったように、この時も市民は町の再興をはかり、再び繁栄をもたらした。しかし、この町に危害を加えたのは蛮族や好戦的な異教徒ばかりではなかった。ガロンヌ川が、かなりの損壊を加えている。

ほとんど毎年のように起こる洪水は、町の低地をなめ尽くした。もっとも被害の大きかったのは1453年の洪水である。このときの水量は平均水域を10メートル以上も超えて上昇し(川幅を計算に入れると膨大な水量になる)、町全体を水中に沈めてしまった。(ドミニコ会の)ノートルダム・デ・ジャコバン教会さえも4メートルを超える渦巻く水の中に沈められてしまったのである(92N83)。

中世のアジャン市は、四方どの辺をとってみても、僅か10キロ足らずの小さな町でしかなかった。市のほぼ中心部にあたる場所に、サンテチエンヌ・カテドラル(古くはローマ人の城<カストルム>)があり、市の周辺は塀で囲まれていた。この塀には6つの門があり、15の塔がついていた。アデルの時代には、「避難所」の南東角のすぐ外側に、昔からの塔の一つが残っていた(93)。アデルは、この有名な「大時計の塔」(TOUR DE LA GRANDE HORLOGE)の前をしばしば通ったにちがいない。これは、15世紀の大時計が取り付けられた12世紀の塀の遺跡である(94N84)。

十字軍の時代が終わると、市の塀は幾度かにわたって延長され、特に13世紀には、市塀の外側に建てられていた修道院(CONVENTS)や大修道院(MONASTERIES)を取り囲むように、市塀を建てなおした(95)。フランス大革命までには、市塀の内側に20の大修道院(MONASTERY)と男女の修道院(CONVENT)が建てられていたのである(96)。しかし、革命後にも残ったのは、そのうちの僅か二つで、その一つは病人の世話をしていた愛徳会のシスターの修道院であり、もう一つは、孤児院を経営していた聖ヨゼフ会のシスターの修道院であった(97)。

アデルが一生を捧げたのは、このような町であった。

アデルがこの町を出たのは4回だけで、それは、成長を続ける修道会の新しい修道院を準備するためであった。そしてかの女がトランケレオンを訪問したのは、わずか1回だけである。実際、かの女がその他の目的で修道院の外に出たのは一度だけしかなかった。なぜなら、アデルとその仲間たちは、初期の考えとは裏腹に、修道院の囲壁の規則を受け入れることになり、その規則を喜んで受け入れたからである(98N85)。

アデルとその仲間たちは経験豊かなド・ラムルースの指導のもとに修道院の共同生活を始めた(99)。しかしシャミナード神父とジャコピ司教は、この新しい修道会の本性について異なる意見を主張し合うことになった。

ジャクピとアデルは、どちらかと云えば、愛徳会のシスターをモデルにした修道会を頭に描いていた。病人の訪問や看護、大人や子供の宗教教育、貧者の援助、とりわけ、ソダリティの開設と支援に主力を注ぐ修道女会で、深い霊的生活を行うと共に、真の「修道」生活を営みながらも、教区と、その教区民が必要とするところには、何であれ、いつでも手を貸す用意のある修道女を考えていたのである。事実、マリアの娘の修道会(INSTITUTE OF THE DAUGHTERS OF MARY)の最初の会則の原稿をみれば、この修道会の修道女たちは「囲壁の精神」を遵守するが、囲壁そのものを身に課するものではないと明記されている(100N86)。

トランケレオンで慈善事業の経験を持つアデルは、貧しい人たちや孤児、無学な人、病人などに強い関心を抱いていた。アデルはこのような人たちを助ける熱望に燃えていたのである。しかし、このアデルは、同時にまた、修道誓願によって完全に自己を神にささげたいとも思っていた(101)。アデルがシャミナード神父から教えられて熱狂的に受け入れたマリアの「宣教師」としての「修道ソダリスト」の人間像は、そのようなものであったのだ。そして、教区の必要性を熟知していたジャクピ司教は、かの女と同じような考えをもってこの新しい修道会を見ていたのである(102)。司教も修道者としての生活様式には賛意を表していた。しかし、囲壁には反対であり、したがって、誓願は(一年間の)有期誓願でなければならなかった。この新しい修道会のシスターたちは、教区の人びとの必要性に応じて自由に歩き回れる人たちであらねばならない(103)。当時の教会法による呼び方を用いるならば、この種の人たちは献心的なキリスト者によって形成される「敬けんな集合体」(PIOUS INSTITUTE)と云うことになる(104N87)。

これに対して、シャミナード神父は、活動よりも教会の伝統に基づいた「真の修道生活」に重きをおいた。当時の多数の教会法学者や司教たちと同じように、シャミナード神父にとって、教会法で言われている意味での「修道生活」というのは伝統的な「荘厳誓願」を意味していた。この荘厳誓願は、その違反行為を教会法上でも民法上でも無効にするものであり、それゆえに、この荘厳誓願のためには、教会と国家の両方から承認を得なければならなかった(105)。

この荘厳誓願は、アンシャン・レジームにおいても当時の教会法においても(変更は加えられていなかった)、修道女に「囲壁」すなわち教皇座の規定する蟄居を義務付けるものであった(106)。シャミナード神父とジャクピ司教が折り合えなかったのは、正にこの点にあった。シャミナード神父は終身誓願をもつ修道生活を考えており、師にとって、真の修道生活はこれ以外にはなかった。もちろん師は、革命以後、教会も国家もこのような「修道生活」をフランスにおいて認めていないことを熟知していた。しかし、同時に、師は、これは一時的なものであり、教会と国家の関係が改善されれば、またもとのすがたに戻るだろうと考えていたのである(107)。

シャミナード神父は、自分の意見を支持してもらうためにボルドーのダビオ大司教に協力をもとめたが失敗に終わった。大司教は、この論争に巻き込まれるのを避けたのである。大司教は、近年において教会が修道誓願の永続性と「荘厳性」(本来的に免除されることのないもの)が原因でいろいろな問題に直面したこと、また、教会と国家の関係がいまだに不安定な状態にあること、をシャミナード神父に指摘したのみであった。(当時、ナポレオンのコンコルダに代わって、復古王朝と教会との間で新しいコンコルダの交渉が続けられていた)(108)。

かくしてアデルは、二人のあいだで板挟みになってしまった(109)。アデルも最初は囲壁を生涯守り通すことになるとは考えていなかった。しかし、シャミナード神父と師の修道生活にかんする考え方に信頼のこころを寄せたアデルは、同時にまた完全な形で「キリストの浄配」になろうとする燃えるような願望によって、アデルは徐々にシャミナード神父の考えかたに近づいていったのである。しかし、その一方、自己の世界を軽んじようとするアデルの真摯な熱意と、司教の譲らぬ主張は、かの女をこれと正反対の方向へ引っ張ったのである。

アデルが「避難所」へ来てから間もなくのこと、ジャコピ司教は、自分とシャミナード神父との意見の相違について説明し、自分の意見に従うようにアデルを説得した。司教の考えによれば囲壁の義務はなく、従って、更新可能な有期誓願を立てることになる。

アデルはシャミナード神父にこの決定を手紙で知らせ、自分が大切にしている「宣教師としての召命」を守るためにはこの道しかないであろうと書き記している。

これにたいしてシャミナード神父は、直ちに返事を書き、自分の立場は絶対に譲れるものではないと記している。この手紙でシャミナード神父は、他のすべてを差し置いて、直接問題点に迫っている。アデルが心を余すことなくみ主の奉仕に捧げ、イエス・キリストの浄配になろうとする望みは正しいものである。しかし、もし、終身誓願のかわりに一年の有期誓願を選ぶならば、それは正しくない、と師は主張した。

「あなたとあなたの仲間たちが中途半端な修道者になろうとしていたとは、わたしの思いもよらないことでした。実際、聖霊があなたがたの心の中に与えて下さったたまものは、これとはまったく違うものです」、とシャミナード神父は記している(110)。

師は、また、修道誓願を、その永続性と不解消性の面からみて、結婚と比較している。しかしまた、その結婚は修道誓願宣立によって全うされる現実と比べれば、薄い陰に過ぎない、とも述べている。

シャミナード神父はこのように記したのち、自分がそちらに出向いたときに、この点について、もっと詳しく説明したい、とも述べている。

師はすでにパスポートを入手したので、修道生活を(しかし、中途半端な修道者ではなく)を志望している青年に付き添われて出発する(111)と述べたのち、アデルの気持ちを傷つけたのではないかと詫びの言葉をいれ、かの女にイエス・キリストへの愛があれば、見識のある人がもつ論理的な結論を、かの女も明白に理解することができるように助けて下さるにちがいない、とも述べている。

この手紙が書かれたのは聖霊降臨祭の前夜であった。師はこの日のミサでアデル(ならびにド・ラムルース)のために祈ることを約束している(112)。

翌日曜日、6月8日、三位一体の祝日にシャミナード神父はアジャンに到着した。師は、修道女になろうとしている人たち一人ひとりと面談し、ド・ラムルースによる今までの努力を補う形で一般的な講話を行い、続いて、準備ができた人たちを対象に誓願の宣立を受理する考えでいた。

シスターたちは、新しい修道服の製作に精を出しており(113N88)、もうすぐ全部が仕上がるところだった。

シャミナード神父はシスターたちから温かく迎えられ ー こうしてアデルは初めてシャミナード神父と対面したのだった(114N60)。

シャミナード神父は、神学校に宿をとった。

師は、友人であり弁護士であるダビド・モニエ氏が書き下ろした500条にわたる会憲、いわゆるアンスティチュ(INSTITUT)を持参していた(115)。むさぼるように聞き入る共同体に、シャミナード神父は毎日講話をして、このアンスティチュを説明したのであった(116)。

準備の黙想会の日取りと、着衣式ならびに誓願宣立の日程が決められた。師は、蟄居をふくめた自分の考えに基づいて計画を進めた。

ある志願者は蟄居の生活を受け入れるよりは、身を退く方がよいと考えた(117N89)。しかし、アデルと数名の仲間は、シャミナード神父とジャクピ司教の話合いが、やがて折り合うだろうことを期待して、踏みとどまることにした。

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