◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第10章 1812年−1814年 

医師ベロックの死 / 男爵の病気
ローモン神父によるソダリティの入会式
修道生活への芽生え



アデルは、「第三部会」の部会長の役目を勤めることはアソシエイツへの奉仕であると考えるとともに、また、自分自身では手が届かない人たちに熱意と愛を届けるための手段であるとも考えていた。例えばコンドムでは、自分の知人たちとは異なるサークルに友好関係をもつ人びとを会員に募り、その人たちを通じて自分の知らない人や、余り親しくない人たちにも、キリスト者としての生活のあり方を広めて行こうと考えたのである(1)。

自分が直接会ったことのないアソシエイツにたいしても、アデルは常にこころを配っていた(2)。そして、今まで手紙の上でしか知らなかった人に初めて出会ったときは、温かく愛を込めて迎え入れた。アデルにとって、それは大きな喜びの瞬間であた。だから、かの女の目も顔も、そしてかの女の存在全体が、興奮と陽気に照り輝いた。まるで長いあいだ会えなかった旧友に再会したかのように、アデルは、あたたかく、愛情を込めて、その人を抱擁したのである(3)。

スレットがマルマンド(MARMANDE)の町を旅行した。この町は人口およそ7000人で(4)、ガロンヌ川の沿岸にあり、アジャンとボルドーの中間に位置していた。スレットがこの町を訪れたとき、アデルはかの女がこの旅行から使徒事業の成果を上げるだろうと思っていた(5)。しかし、スレットにたいしては、賢明に動くように、そして、あまり焦らないように、と警告している。急げば失敗することを知っていたからである(6)。

アデルの報告によると、フィジャックとコンドムで新しいアソシエイツが入会した。コンドムで入った新しいメンバーの中には、伯父フランソワの娘で、自分のいとこにあたるキャロリン・ド・バッツ(CAROLINE DE BATZ)がふくまれていた(7N63)。

ゆっくりと、しかし、着実に行われるシャミナード神父の指導が効を奏して、アデルはアソシエイツを配慮し、その霊魂の幸福を望むことが、シャミナード神父の云う「マリアの使命」への参与である、と考えるようになってきた。

すでにアデルは、「神のより大いなる栄光のために」という聖イグナチオの言葉をモットーにして生きていた(8)。そして、アソシエイツにも、あらゆる手段を尽くして神の栄光を求めるように、と励ましていた。とりわけアデルは、喜びと静寂と愛をもって生きることによって、宗教生活を人びとに好まれるものにしなければならないと考えていた(9)。また、マリアの模範を常に念頭におき、自分もマリアのように「母性的な」熱意を持ちたいと考え、自己を忘れ、己を他者のために、そして、他者の幸福のために、与えねばならないと考えるようになった(10)。こうして、アデルの親切、アデルのまごころ、アデルの思いやりは、人びとをかの女のもとに引き寄せ、神のもとに招き寄せるようになったのである(11)。

アデルはまだ年若く、大方のアソシエイツよりも年下であった。しかしかの女は、いつの間にか自分が第三部会の「メール」(母親)の役割の中にはまり込んで行くのを感じ取っていた。もっとも、このメールの肩書そのものは、ボルドーのマドモアゼル・ラムルースに限られていた。

アソシエイツはメールの役割を果たすアデルにたいして、それ相応の態度で接するようになった。かの女たちはアデルを尊敬し、賞賛し、愛した。多くの会員にとって、アデルは腹心の友、信頼のできる友であり、希望であり、恐れと疑いを解き放してくれる人であり、良心の問題をさえも打ち明けることのできる人であった(12)。

1812年4月19日、シャミナード神父は手短に書かれた手紙の中でアデルの努力を励まし、「恐れず賢明に」行動しなさい、と述べている(13)。そして、マドモアゼル・ラコンブを手本に掲げ、かの女は昨年の冬の初めから病気に冒されているが元気な人の二倍の仕事をしている、と述べている。そして、マドモアゼル・ラコンブの上に神の祝福がありますように、と付け加えている。

アデルはこの手紙をコンドムで受け取った。シャミナード神父の手紙の中には、ラコンブからの手紙も同封されていた。アデルはこの二つの手紙をアソシエイツに回覧するために、スレットに送った(14)。

1812年の夏のこと、ナポレオンはほぼヨーロッパ全域から80万の兵士を徴集し、大軍団グランド・アルメ(GRANDE ARMEE)を結成した。ロシア遠征のためであった(15)。ところがその間、ウエリントン公爵に率いられたイギリス軍が、スペイン人ゲリラの支援を受けて、ナポレオン軍をヨーロッパの反対側から攻めたてた。このスペイン人ゲリラ軍は、1809年以降、ナポレオンに対抗してできたのものである。

7月、反ナポレオン勢力はマドリッドを占拠した。こうしてナポレオンのスペイン戦役は失敗に終わり、12万人のフランス人兵士が捕虜として英国に連行されて、終わりを告げた(16)。

いまだにボルドーで監視下に置かれていたシャミナード神父は、アデルに手紙を書くときはその内容に注意を払い、また、その手紙が必ずかの女の手に渡るように配慮していた(17)。師はアデルへの手紙の中で、頻繁にアソシエイツと文通しているアデルの熱意を誉め、祈りの内に可能なかぎりアソシエイツを訪問し、アソシエイツがたがいに祈り合うよう励ますアデルの態度を賞賛した。

この手紙をみると、まだ一度も会ったことのないシャミナード神父とトランケレオン家との間に信頼関係が育ち始めていたことを窺い知ることができる(18N60)。

シャルルはパリでの5年間の勉学を終え、そろそろ帰省することになっていた。そして、この家の後継者にふさわしい結婚相手を探していた。アデルはこのことをシャミナード神父に知らせ、もし適当な相手をご存じであるならば紹介してほしい、そのご家庭に男爵が訪問する、という男爵夫人の依頼を伝えている。

この依頼を快く受け入れたシャミナード神父は、シャルルにかんするもう少し詳しい情報を知りたいと述べ、シャルルの年齢、背丈、性格、道徳観、健康などについて知らせるように、そうすれば、その情報に基づいて適切と思われる女性を紹介しよう、と約束している(19)。

夏も終わりに近づいたころ、男爵はパリへ行き、シャルルを家に連れて帰った(20)。家庭教師の使命を終えたデュクルノ氏はアジャンの神学校に入った。革命の勃発によって約25年間中断されていた待望の司祭叙階への準備であった(21)。

さて、トランケレオンのシャトーでは、コンドムから来た三人の男爵の姉妹を交えて、全家族が二人の帰省を待っていた。家族が最後にシャルルに会ったのは、5年前のことである。シャルルは今では20才の青年になっていた。家族が聖堂でロザリオをとなえていると、馬車が到着した。今までロザリオをとなえていた家族は全員立ち上がり、待ちにまった二人の到着を迎えに出た。そのとき、ひとり聖堂に残ったのは、男爵夫人であった。母親だけは、この嬉しい再会に他の人が誘いにくるまでは、聖堂に留まって祈っていたのである(22)。

やがて10月になった。アデルはアガタとディシェレットに再会する機会を待っていた(23)。ディシェレットは、今では、サンタビ(SAINT-AVIT)と呼ばれる小さな村に家を買って住んでいる(24N64)。この村は、ガロンヌ川の沿岸でポール・セント・マリを見おろす小高い丘の上にあった。フガロールへの距離はアジャンから行くよりも近い。しかしながら、ときどきやって来る悪天候は、トランケレオンへの訪問を阻み、お互いの訪問もままならなかった。

10月15日、叔母たちはコンドムへ帰った。アデルが一番心を寄せていた叔母サン・ジュリアンは、自分の聴罪司祭がコンドムの北西約50キロのカステルジャロへ転勤させられたことを知り非常に驚いた。わたしはこの喪失に当惑しています、とアデルに述べている(25)。

その数日前(もっとも、ニュースがアデルの手元に届いたのは、これよりずっと後のことであるが)、ナポレオンは戦いに敗れ、寒さに打ちひしがれてモスクワを退却した。12月、軍の退却が終了した時、さすがのグランド・アルメも僅か10万人の兵士を残すばかりになっていた(26)。過去10年を上回る長いあいだに幾多の戦いで人びとから賞賛された無敵将軍の名も、ついに地に落ちた。

この間、活発な性格を抑えようとするアデルの戦いは続けられていた。持ち前のそそっかしさや熱し易さ、無遠慮な話し癖、これらはたびたびアデルを苦しめた。アデルは同じような傾向をもつアガタに叫んでいる(27)。「今度限りは全力を尽くして自己を手の内におさめるように努力しようではありませんか!」。アジャンの人たちが尊敬する聖フランシスコ・ド・サールも、怒り易く、苛だたしく、落ち着きの無い性格の持ち主であった。しかし聖人は、慈悲と親切と温厚さの手本になった。聖人も自分たちと同じ骨肉をもった人間である。かれにできたことがどうして自分たちにできないことがあろうか。

自分が理想としている人間像に思いが至るとき、アデルはこのように、よく聖フランシスコを考えるのだった(28)。しかし、アデル自身、その激しく活気に満ちた性格との戦いを人生の最後の瞬間まで続けなければならないのである。

ナポレオンがロシアで立ち往生をしているとき、国内では反対派が動き始めていた。ラフォンはラファールの監獄からパリ市内の診療所に移されていたが、10月23日、マレ将軍に率いられた武力政変に荷担した。しかし、この奇襲が失敗に終わるや、ラフォンは逃亡に成功し(29)、偽名を使って地下に潜った(30)。

云うまでもなく、ラフォンのこの行動によって、またもやシャミナード神父とソダリストは嫌疑をかけられた。シャミナード神父と、友人の弁護士モニエ氏は、二人ながらに警察に連行され、尋問された。そしてソダリティの文書は、再び押収された。

連行された二人は証拠不十分で釈放されたが(31)、今やソダリストとそのディレクターたちは、それまで以上に賢明に、かつ、内密に行動しなければならなくなった。

10月の下旬、アデルはディシェレットとその子どもたちに会うために、悪天候を押してサンタビに出かけ、そこで数日間滞在した。おそらくその時、マダム・パシャンも同行したと考えられる。アデルは曲がりくねった細い田舎道を辿って、フガロールに出た。教会の前に着くと、馬車を降りて、み主と聖母マリアにこの旅行をささげた

悪天候が災いして、ガロンヌ川をはさんだポール・セント・マリの対岸地点に行くまでに、2時間もかかった。一行はポール・セント・マリでフェリーに乗り換え、注意深く川を渡った。ポール・セント・マリからサンタビまでの行程は、道が曲がりくねっている上に、ほとんどが上り坂であったために、さらに2時間を要した。泥道で馬の歩みが遅くなると、旅客は馬車を降りて、少しでも早く馬を進めるように協力しなければならなかった(32)。

サンタビは素晴らしいところだ、とアデルは思った。馬の背中に乗っているように、小高い尾根が低地の曲がりくねった川沿の渓谷にほぼ平行して進んでいる。小高いサンタビからは、周囲の田園風景が一望に見渡せた。北には曲がりくねった丘が走り、南には平野が広がっている。あちこちに見える一本立の樹木、果樹園、牧草地。これらが農家や貴族のやかた、ブルジョアの住む屋敷と混じり合って見える。空気は低地よりも新鮮に感じられる。この広大な景色はフガロールやトランケレオンでは見られないものであった。お天気のよい日にはフガロールからさらにその先まで見渡すことができる(33)。

ディシェレットの家に滞在しているあいだ、アデルはその近辺の人や友人など、数多くの人に会い、その聖なる生活に触れることができた。アデルは、このような素晴らしい人たちが、一日も早くアソシアシオンに入り、女子青年部や黙想の婦人部などで活躍してくれる日がくるのを待ち遠しく思った(34)。

諸聖人の祝日をこの地の人びとと共に過ごしたのち、11月4日、アデルとマダム・パシャンは、トランケレオンに帰った。パリから帰省して以来、病床に臥していた父親は、今では以前よりも悪くなった。父親のこの病気は、やがて潜行性の麻ひ症に進行し、ほとんど身体を動かすことができなくなってしまうのだ(35)。

それから一週間の後、アデルはアガタに手紙を書いた。しかし、その手紙の主題は父親の病気ではなかった。医師ベロックが病に倒れたというニュースであった。ある種の伝染病がこの地方に蔓延し、ベロック医師は、その手当に奔走していたのだった。

自分の健康よりも、伝染病におかされた貧しい人や囚人の治療に力を注いでいた医師ベロックは、自分がこの恐ろしい病に倒れてしまったのだ(36)。このニュースがトランケレオンに着いたころ、医師の容態は、もうほとんど手が着けられないほどに悪化していた(37)。三日後の11月14日、仕事に全身全霊を捧げ尽くしたベロック医師は、神のみ元へ帰って行った(38)。

このニュースを聞いたアデルは、直ちにアガタに宛ててお悔やみ状を書き、医師の死についてもっと詳しく知らせてくれるように依頼するとともに、ディシェレットの様子も聞いた。ディシェレットとは、たった十日前に別れたばかりであった。

未亡人となったディシェレットとその家族に弔意を表しながらも、アデルは自分の信仰の奥底に触れないまま通り過ぎることはできなかった。ベロック先生は、今はこの世をハッキリと見ておられるのだから、もうこの世に帰ることを望んでおられるはずはないと述べ、そのすぐあとで、これを自分自身に当てはめ、「わたしたちも準備をしておきましょう。遅そかれ早かれ、・・・わたしたちが最も予期していないときに、同じ道を通らなければならないのですから」と記している(40)。

アデルは、アガタに宛てた12月30日の手紙で、もう一度この同じ点に返り、来るべき年が最後の年になるかも知れないと述べている。そして、「昨年、気の毒なベロック先生は、今年がこの世で迎える最後の年になるとは、夢にも思っておられなかったでしょう。同じようなことがわたしたちにも起こり得ます。用意していましょう。その日も、その時間も、わたしたちには分からないのですから」(41)。

愛する夫を喪ったディシェレットは、どのような気持ちでいたのであろうか。それをわずかに暗示しているものとしては、かの女の日記にしるされた簡潔な一つの記述があるのみである。「1812年11月14日 ー み主から頂いたかけがえのない配偶者を喪いました。生贄と云うものは、わたしが考えでいた以上に苦しいものです。夫は35才でした。わたしは28才です」(42)。

年若い未亡人は、4人の子どもを抱えていた。一番年上の子はそろそろ7才に成るが、一番年下の子はまだ2才に成っていなかった。アデルは友の苦しみに、深く心をいめた。祈りを捧げ、弔意を表す以外は、今のところ何もすることができなかった。

アデルは、人を喪った悲しみを信仰による思いで和らげていた。また、かの女は教え子たちの世話に専念し(43)、アソシアシオンの仕事に精を出した。

フランスに厳しい飢饉が襲ってきた。そのため、この冬のあいだ(44)、ボルドーは今までとは違ったかたちで、アデルと男爵夫人の協力を求めてきた。ナポレオンとイギリスが交代で大陸を封鎖したため、近年の貿易と商業は大きな打撃を受け、ボルドーによってまかなわれていた背後の地方、すなわちフランスの南西部全般に、かつてない被害をおよぼしたのである。

港町ボルドーでは、ダビオ大司教(ARCHBISHOP D'AVIAU)とシャミナード神父が(46)、そして、トランケレオンでは、アデルと男爵夫人が、全力を挙げて人びとの苦しみを和らげるように努力した。アデルも男爵夫人も、資源が枯渇してくると、自分たちの生活を更に切り詰め、裕福な人たちから借財をした。アデルは、貧しい人たちへのいたわりの気持ちを与えて下さったことを神に感謝したが、このような人たちを助ける手段をも同時に与えて下さらなかった不甲斐なさを、み主に訴えた(47)。

ベロック氏の死後約2週間たって、やっとアデルはアジャンへ旅立つことができた(48)。ディシェ家とベロック家、とりわけディシェレットに、お悔やみを述べるための旅行だった。そして、ディシェレットのその後の身の振り方が決まるまで、二人は喜びと悲しみの入り交じる中で、生活をともにした。

未亡人となり、4人の小さな子どもを抱えたディシェレットは、アジャンの実家で家族とともに過ごすことになった。こうして、ディシェレットは、少しづつアソシアシオンの仕事に協力することになるのだった。実際、ディシェレットは、このころからだんだんとリーダーの役目をはたすようになり、やがてアジャンの分会の女子青年部ならびに既婚婦人の会員からメールと呼ばれるようになった(49)。こうしてかの女は、将来シャミナード神父の片腕となって働き、アジャン教区全域をカバーするソダリティの信徒グループを発展させる上で大きな貢献をすることになるのである(50)。

アデルはその手紙で政治的なできごとに直接触れることはなかった。しかし、1813年1月5日の手紙で真福八端(神の国の幸い)について語るとき、おそらくナポレオンのロシア遠征の大敗を想定していたであろうと思われる記述が残されている。それは次のようなものである。

「真のキリスト者は、最も偉大な征服者よりも賞賛に値する英雄です」(51)。

真福八端を生きる人とは素晴らしい倫理観に基づいた人生を送る人のことを云うが、このような徳性は神以外から来るものではない。弱さを持つわれわれ人間にとって、この教えを忠実に生きることは難しいことである。しかし、それは、その人にとって神の恩寵であり、神からの呼掛けである、と述べている。そして、わたしたちは、この教えに従って生きるのか、それとも福音を火の中に投げ捨てるのか、そのどちらかを選ばなければならないと述べている。

「日ごろのできごと」(52)が示しているように、死はいつ来るかわからない。アデルにこのように云わせたのは、おそらく戦火が自分たちのすぐ目の前にあるスペインの国境近くで交えられていたことと、その地に飢えが蔓延していたことによるものと思われる。もちろん、アデルに、このような考えを持たせたであろう他の出来事が、かの女のもっと身近にもあった。最近亡くなったベロック医師の死に次いで、アソシエイツの一人ユーフロジン(EUPHROSINE)が死に瀕していたのである(53)。

ユーフロジンを知る人は、異口同音にかの女の模範的な生活ぶりを認めている。アデルはユーフロジンの死を惜しんだ。しかしその反面、死は、ユーフロジン自身にとって、幸福なものであるに違いない、とも考えるのだった。

それから数週間の後、ユーフロジンは逝去した(54)。かの女はアソシエイツの中で三番目の死者であった。アデルは急いでかの女の訃報をアソシエイツに伝え、アジャンのマルロー神父に連絡して、かの女のためのミサを捧げてもらうように手配した。今やユーフロジンはこの世の空しさを知り、世から離脱する幸福を味わっている。アデルはこのようなユーフロジンを回顧して、この天国の幸福をこの世のいかなる幸福な状態とも交換したいとは思っていないだろう、と確信するのだった(55)。

アデルはこれらの事例に接するにつけ、時の流れの速さを、いやが上にも思い知らされるのだった。「毎日わたしたちは永遠に向かって前進しています。やがて青春は過ぎ去るでしょう。そうすれば、わたしたちになにが残るのでしょうか。青春時代に送ったつたない時間の使い方に、ただ悔いが残るだけです・・・。若さから生まれる最初の実りを、み主におささげいたしましょう(かの女はもう24才になろうとしていた)。神の栄光のためにすべてをささげ、全力を挙げて神の栄光を求めようではありませんか」(56)。

アデルは、また、アガタを励まして「わたしたちは小さな使徒に成らなければなりません。ですから、もっともっと熱心になりましょう。しかし、何にもまして先ず自分自身から始めましょう。なんと云っても手本以上に効果的な説教師はないのですから」(57)と述べている。

また、カーニバルの季節には、次のように記している。「いと清きマリアの家族を広めようではありませんか。マリアの旗印のもとに、そして、神聖なる主君の栄光のために、できるかぎり数多くの若いこころを集めましょう」(58)。

ちょうどそのころ、男爵の容態は悪化し始めていた(59)。それにともなって、男爵夫人が領地の管理につぎ込む時間が多くなり、アデルは少しづつ父親の看護に時間を割かねばならなくなった(60)。

男爵の病気は、先ず脚を麻ひさせた。そのため以前軍人であった男爵の姿勢は崩れた。そして、この麻ひは、やがて全身を冒すようになるのだ。しかし、この病気は内臓や意識を損なうことはなかった(61)。当然のことながら、アデルは長時間病める父親のそばで過ごし、父親の介護をしなければならなくなり、今まで以上に忍耐と、注意深さと、冷静さを必要とするようになった。アデルはこの時も、なお自分の激しく活発な性格と戦い続けていたようである。かの女はこの戦いに勝てるようにアガタに祈りを求めている。「たくさんの過ちの原因となり、毎日のように強くなって行くこの性格の激しさを鎮めることができますように」(62)。

また、ここでもかの女は聖フランシスコ・ド・サールの言葉を引き合いに出し、心が乱れているときは、舌が喋りださないように自分の舌と協定を結ばなければならないと述べている。しかし、たび重なる失敗に、アデルは嘆いている(63)。

さて、この間、シャルルのお嫁さん探しは順調に進んでいた。シャミナード神父の助けがあったのかどうかは明らかでない。5月になると婚約式と結婚式の準備のために家中が動きだした(64)。この期間、アデルは気を散らすことが多かった(65)。だから、かの女は、夏におこなうはずのロンピアンへの旅行を、もう、待ち遠しく思い始めていた(66)。

5月にはラリボー神父がトランケレオンを訪れたが、師の言葉と、師のみ主にたいするわき目もふらぬ追従の態度に、アデルは大いに啓発された。アデルは、やがてやって来る6月6日のペンテコステの祝日に、この世的な思い煩いと精神の放逸から解放される恩寵を神に祈った。

男爵の看病に加えて、シャルルの結婚式の準備を手伝いながらも、アデルはアソシエイツとの連絡や文通を怠ることはなかった。

2月にはアレクサンドリン・デュフォ(ALEXANDRINE DUFFAU)が、アガタに会いにアジャンへ行く道すがら、トランケレオンに立ち寄った。かの女は非常に熱心であったが、少し内気でもあった。アデルはアガタに手紙を書いて、このようなかの女に、こころの安らぎをあたえて上げてほしい、と述べている(67)。また、5月には、ポミエ姉妹がトランケレオンを訪れた(68)。

アデルは、また、アソシエイツの中に無関心な人がいることを気に留め(69)、アデルが個人的に知らない人をメンバーに加える場合には、いろいろと気を遣った(70)。

アデルはアガタへの手紙の中で、自分がアガタの友人エリザに関心を持っていることを何回か述べている(71)。また、すでに数週間前から重病にかかっているアメリ・ド・リサンの容態を知らせるようにとも頼んでいる。

アメリは、アデルの親友であり、アジャンの出身者であった。アメリの死は自分たちにとって大きな損失となるだろう。しかし、アメリ自身にとってはお恵みであると述べ、「み主のうちにこの世を去ることができる人は、本当に幸福だと思います」と述べている(72)。そして、全アソシエイツが一つのこころ、一つの魂に結ばれ、初代のキリスト者たちの手本にならって、すべてを神にささげることができるように、と祈っている(73)。

ちょうどその頃、シャミナード神父はアデルにボルドーへ来るように誘いかけた。ソダリティの人たちと会い、マドモアゼル・ド・ラムルースやマドモアゼル・ラコンブに会って、自分の目でボルドーにある二つの女子青年部会の現状を見てほしいと伝えてきた。シャミナード神父がこのように云ったのは、おそらくアデル自身が、そのような希望を持っていたからではないか思われる(74)。

シャミナード神父は、過去数年のあいだにボルドーのソダリティがどのように発展してきたかを、もっと具体的にアデルに分かってもらいたかったのであろう(75)。ボルドーでは数人の年若い女性が有期誓願を宣立し、本当の意味での「修道生活」を送っていること(76)、そしてこの人たちは俗服の下に特別な修道服をまとっている、と師は述べている。

マドモアゼル・ラコンブや、他のほとんどのオフィサーたちは、この「修道グループ」に属していた。しかし、ソダリティの一般の人たちは、このことを知らなかった。アデルやその友人たちのあいだでも、もしかして、このような生活態度に興味を持つ人がいるかも知れない。シャミナード神父は、そのようにも考えた(77)。

しかし、残念なことに、軍隊の不安定な動きと、シャトーの忙しさ、それに父親の看病などが重なって、アデルはボルドーを訪問することができなかった(78)。

さて、これとは反対に、もっと積極的に動きだしたことがあった。それは、「第三部会」をボルドーのソダリティに正式に受け入れようとするシャミナード神父の望みが、ついに実現することになったことだ。

今までこの望みを実現できなかったのは、シャミナード神父が多忙を極めていたからである。しかも、ソダリティにたいする弾圧は、いまだにつづいており、シャミナード神父自身も警察の監視のもとに置かれたままであった。だから今では、旅行をするだけの時間はできたとしても、そのような行動をとることは賢明なこととは思えなかった。ソダリストであるラリボー神父は病気がちで、ときにはミサをたてることさえできないほどであった(79)。そこでシャミナード神父は、自分の代わりに、ピエール・ローモン神父を(PIERRE LAUMONT) 代理人として送ることにした(80N56)。

ローモン神父は1758年6月9日、ロンピアンからさほど遠くないエグイヨン(AIGUILLON)で生まれた。かれは宣誓を拒否し、他の人びとと同じように、国外追放の憂目をみた。亡命中は、サラゴサに住んでいた。従って、同じ運命にあったシャミナード神父と同地で知り合ったのだろう(81)。コンコルダ以来、師はエグイヨンの郊外にあるセント・ラドゴンド(SAINTE-RADEGONDE)の小教区に配属されていた(82N66)。

ローモン神父はシャミナード神父の委託を受けて、アソシエイツの一人ひとりを、正式にソダリティに受け入れる仕事にとりかかった。このことにより、アソシエイツも、ソダリストが享受していた霊的特典を受けることができるようになった(83)。

今年で24才になるアデルは、7月になると、領地の全責任を負うことになり、いままで以上に忙しくなった。両親は、ルルドの南東約25キロ離れたバレージュ(BAREGES)へ湯治に行くことになった。男爵の病気がそれによって完治しないまでも、いくらかでも楽になるだろうと考えられたからである。また、男爵の容態があまりかんばしくなかったため、ディシェ氏もこの旅に同伴することになった(84)。

夫を喪って半年になるディシェレットは、アデルを助けにトランケレオンへやって来た(85)。アデルは、男爵夫人が不在のあいだ、「家族の母親」(MERE DE FAMILLE)としての責任を負うことになったのだ(86)。

さて、男爵夫婦が不在となり、ディシェレットがトランケレオンに来ているとき、ローモン神父がトランケレオンを訪れ、シャミナード神父の代理として最初にその権限を行使した。師はアデルを「汚れなきおん孕りのソダリティ」に正式に受け入れたのである。そして、アデルは、そのソダリティの第三部会の「主たるオフィサー」として認知された。ディシェレットも同じように正式に入会が許され、「おん孕りの分会」のオフィサーとして認められた(87)。

このときに用いられた奉献文は、全会員が年2回おおやけに奉献を更新するさいに用いる奉献文と同じものであった。この奉献文は、二つの部分から構成されている。

最初の部分は、ある意味で、マリアにかんする信経のようなもので、キリスト教の中で占めるマリアの位置、特典、マリアの完徳、そして、信徒にたいするマリアの役割について記述されている。

第二のパラグラフは、長い最初の部分を要約するものである。

第一の部分は次のようである。

「わたしはマリアの汚れなきおん孕りを信じ、これを公言します(当時、まだ、マリアの無原罪のおん孕りは教義として定められていなかった)。また、マリアは真にキリスト者の母であり、マリアの信心に真心から奉献する人に特別なご保護を下さることを信じ、マリアの慈しみがマリアの力に劣るものではないことを信じ、かつ、公言します」。

第二の部分では、ソダリストがマリアにたいする尊敬と従順と信頼と愛を約束し、マリアに栄光を帰するためにその身を捧げる、という意味の文章が記されていた(88)。

長いあいだ待ちこがれていたこの正式の入会式に、二人は心の底から喜びを感じとった。そして、この喜びを一日も早く他のアソシエイツにも分かちたいと願うのだった(89)。

アソシアシオンのためにローモン神父が活発に仕事をし始めると、アデルの仕事は今まで以上に忙しくなってきた。アデルは、ローモン神父の依頼を受けて、ソダリティにかんする種々の文書をコピーしなければならなくなったのである(90)。この膨大な仕事量を前にしたアデルは、いささか圧倒され、自分の無力さに気を落とすまじと、懸命に努力するのだった(91)。

1813年7月25日、アデルはアソシアシオン宛に「回章」を送った。この回章では、ローモン神父の新しい役割を説明し、かれがとりおこなう公式の入会式には、ふさわしいこころで臨むように。また、奉献する人に約束された贖宥をふさわしい心で受けられるように準備しておいてほしいと述べている。この贖宥は、告白と聖体の秘跡を受けて奉献をおこなう人にあたえられるものであった。また、自分たちは心臓を槍で刺し貫かれたマリアの娘なのだから、喜びとともに十字架をも受け入れなければならないとも教えている。

なおアデルはこの手紙の中で、この正式な入会式のためにローモン神父がアジャンを訪問することを伝え、当時病気をしていたアメリも、ぜひこの入会のチャンスを逃すことのないように、と気を配っている(92)。

7月の下旬、ディシェレットはローモン神父といっしょにアジャンに帰り、交代にアガタがトランケレオンに来た。アデルの両親はまだ帰郷していなかったため、二人はいつも以上に忙しい日々を送ることになった(93)。

8月12日(94)、二人は例年通りロンピアンへの巡礼を行った(95)。この巡礼で、二人はラリボー神父の指導のもとに黙想を行った。しかし、この巡礼は、普段とは一段と異なったものになった。そこに居合わせたアソシエイツと、アデルとアガタの生涯に、決定的な瞬間を与えたからである。

このとき、そこに居合わせた人たちは「大切な計画」に合意したのである。そして、こののち、アデルは手紙の中で幾度かハッキリとこのことについて言及しており、また、あるときは、それとなく包み隠すような表現でこれについて言及している(96)。

当時のフランスでは、修道生活はまだ認められていなかった。ナポレオンと教皇のいざこざは、将来に不安を残すばかりであった。しかし、数名のアソシエイツは、間違いなく修道生活を目指して動き始めていたのである。アデルは、もうカルメル会のことは考えていなかった。ローモン神父とラリボー神父に指導されたアデルと数人のアソシエイツは、ある種の修道生活を形成しようと真面目に考え始めたのである。かの女たちが想定したのは、祈りと孤独の生活に加えて、この世で一番無視されている世の中の落ちこぼれに手をさしのべる形式の修道生活であった(97)。

かの女たちは、この「大切な計画」のために祈り、語り、熟考した。そして、最終的には、シャミナード神父が直接、この計画に関与することになるのだ。

一行はトランケレオンに帰った。頭の中はラリボー神父からのアドバイスでいっぱいになり(98)、こころは行く先の不安を交えた喜びに膨らんでいた。この月の末までにアガタは家に帰らなければならない。このころのアガタは聴罪司祭の不在で、またこころを悩ましていた。アデルはラリボー神父に連絡をとるようにすすめた(99)。神父の手紙はかの女に大きな慰めをあたえるであろうと思えたからである。

さて、アガタが去ると、入れ替わりにディシェレットがシャトーへやってきた。両親はまだ湯治から帰ってきていなかった。アデルは自分を福音書にあるマルタに比べている(100)。

この夏、ナポレオンの配下にあるフランス軍は、たえずヨーロッパ各国の王朝と戦いをつづけてきた。しかし、ヨーロッパ大陸を統一しようとする皇帝の野望は空しく崩れさろうとしていた。8月、ナポレオン最後の勝利、ドレスデンの戦いが行われたが(101)、もはや、軍事ならびに政治の流れは、ナポレオンの思惑通りには動かなくなっていた。10月、ライプニッツの戦いで、10万人の戦死者を出し、20万人の兵士がチブスにかかった(102)。

9月、アデルの手紙に初めて「養子縁組」についての記述が見いだされる(103)。この養子縁組は、アソシアシオンがもっとも力を入れていた縁組の一つで、大きな期待がもたれていたものである。アデルはアガタに、オーガンジーの布地を送り、「小さなデュブラナ(DUBRANA)」のスルプリを作るように依頼し、この子の近況を知らせるようにとも述べている。

この子はシャルル・デュブラナといい、1797年、ネラックで生まれ、貧しい家の子どもとして育った。司祭に成ろうと思ったが衣服を買うお金がなく、もちろん教育費にもこと欠いた。アデルはこの子のことを、ネラック地方に住む親戚の口から聞いた。トランケレオン家は以前ネラックに領地をもっていたので、その地の人びとによく知られていたのだった。

デュブラナはアソシアシオンの養子になり、アソシエイツが集める会費の一部で生活をまかなった(104)。また、アデルは友人たちの協力を得て必要な洋服やベッドシーツや下着を補給した(105)。また、アソシエイツと協力して、この子のためにソックスを編んだり、染めてやったこともあった(106)。シャルルの古着が無いときは、新しいズボンを買って与えたこともあった(107)。かれのために古着を恵んでもらったこともある(108)。かれの寄宿するアジャンの病院に、宿泊代と食費を支払い、洗濯費も支払った(109)。支払いは金銭でしたり、品物でしたりした(110)。

アデルは豚を一匹売り、その代金をデュブラナに与えたこともある(111)。シャツを買うお金がないときは、何人かのアソシエイツの協力をえて、自分たちの手で作り上げた(112)。司祭用の衣服もかの女たちが調達した(113)。短すぎるスータンを手直しするために、テイラーを手配したこともあった(114)。かれがアジャンに住んでいたことから、アデルはしばしばアガタにかれの消息を聞いている(115)。

1813年9月18日、デュクルノが司祭に叙階され、アジャンのノートルダム・デ・ジャコバンの小教区に配属されたころ、デュブラナは神学校を始めた(116)。従って、アデルとディシェ家の人たちを友人として持つこの二人が、互いに知り合っていたであろうことはほぼ確実である。そして、おそらくデュクルノ師はデュブラナのアドバイザーともなり、保護者ともなったにちがいないと思われる。

9月8日、聖マリアの誕生の祝日に、ローモン神父はプーシュで「ご訪問の分会」の入会式を挙行した。後日、デュブラナはこの分会のアフィリエになっている(117)。

その翌週、9月13日の月曜日、ローモン神父は再びトランケレオンにかえり、水曜日の夜まで三日間そこに留まった。その間、アソシエイツのために三つの黙想をおこなった。一つはイエス・キリストの模倣についてであり、もう一つは頻繁な聖体拝領について、そして、最後の一つは祈りについてであった(118)。その後、ローモン神父は、エメ(AIMEE)の入会式をおこなった。エメは、もっと早くトランケレオンへ来ることになっていたが、悪天候のためこの日まで延期を与儀なくされていたのである(119)。

アジャンに帰ったアガタは、また、苦悩の時期を過ごすことになった(120)。このようなアガタにたいし、アデルは、聴罪司祭がいないときは、ラリボー神父に手紙を書くようにすすめた(121)。自分にあたえられた十字架を勇気をだして受け取るように、とさとし(122)、ローモン神父が云うように、毎日の糧として祈り求める「涙のパン」を(123)受け取るようにすすめている。そのようなことがあってから一ヶ月後に、アガタは、この苦悩から脱却し、平和と喜びを味わえるようになった。アデルは、これを喜んでいる(124)。

ディシェレットはアガタが留守にしているあいだ、ずっとトランケレオンに留まっていた。その間、かの女は新しく入会したエメといっしょにマダム・ギャリベール(MADAME GALIBERT)を訪問することになった。このマダム・ギャリベールはディシェ家の友人であった(125)。最初はアデルも同伴することになっていたが、忙しくて行けなかった。

だが、アデルが家に残ったのは良いことだった。二人が出かけている間に両親が湯治先から帰ってきたのである。それは9月15日のことであり、出かけてちょうど二ヶ月目のことであった。デジレが9月12日に初聖体を受けたので、男爵夫妻は、帰り道にコンドムに寄ったと思われる(126)。両親が帰宅し、デジレとエリザが帰省し、シャルルの結婚まで残すこと一ヶ月足らずになった。シャトーの中は多忙を極めた(127)。

毎年のように、休暇が始まると、コンドムの寄宿学校からデジレが一才年上のエリザとともに帰省する(128)。しかし、今年は休みが終わっても、エリザはもうコンドムには戻らない。かの女は学校を卒業したのである。これから、エリザは、毎日をシャトーで過ごすことになるのだ(129)。

少しづつ、エリザはアデルの使徒事業を習い、祈りの生活と慈善事業の手ほどきを受けた(130)。かの女は種々の活動でアデルを補佐し、最終的には、アデルがトランケレオンを去るとき、アデルの後継者としてその仕事を継承することになる(131)。

仕事に忙殺されたアデルは、サポートの必要性を感じ、アガタに祈りを求めた(132)。当時、アガタは、自分自身がまだ内心の葛藤と戦っている最中であったが、それでもかの女はアデルに必要なアドバイスを与えている(133)。

多くの欠点と散漫な精神、この世のものごとへの執着心。これらの弱さを身に感じながらも、アデルはもっと真の意味で、神おひとりといっしょに生きて行きたかった。この世にたいしては、まるで旅人のように接しようと努めていたアデルは、「なにごとにも執着しない旅行者のように、わたしはいつも天国をあえぎ求めます」と述べている(134)。ここには、かの女自身の亡命の思い出がこだましているとも考えられるが、同時にまた、かの女の修道生活への憧れが反映しているとも云えるだろう。

アデルはラリボー神父から非常に個人的な手紙を受け取っており、これだけはアガタにも見せようとはしなかった。この手紙の内容は明らかにされていない。しかし、アデルはこの手紙に大きなこころの安らぎを見いだしていた。それは、ちょうどアソシエイツの間で回覧される手紙にこころの慰めを見いだすのと同じようだ、と述べている(135)。

10月7日、シャルルは結婚した(136)。新婦はアデル・セレン・ベルナルディン・ド・セバン・ド・セグニャック(ADELE-SERENE-BERNARDINE DE SEVIN DE SEGOUGNAC) と云い、アジャン市長の一番年長の娘であった(137N67)。ディシェ家がド・セバン家を知っていたことは疑いない。だからトランケレオンの人たちが結婚式と披露宴のためにアジャンへ出かけた際、おそらくベロックもアジャンに帰ったと思われる。いずれにせよ10月の中旬には、すでにベロックはシャトーに居なかった(138)。

さて、数週間の騒がしい日々を過ごし、結婚式も終わり、やっと一息ついたアデルは、「少し頭を冷やす」ために、ロンピアンへ行きたいと考えるようになった。アデルはこれほどまでに放漫になった自分の姿をみて、ラリボー神父から厳しい叱責の言葉を受けるのではないかと考えた。そして、はかなく過ぎ去る現世の思いを断ち切る決意を新たにするのだった(139)。

10月11日、結婚の慌ただしさが終わったその直後、アデルはアガタに手紙を書き、リボンを買い求めてくれるように依頼している。そして、ボルドーのソダリティの女子青年部会が着けているような帯を二本つ作るので、買ったそのリボンに刺繍をしてくれるように、とも依頼している(140)。

このような帯のほかに、アソシエイツは十字架を首から下げていた(141)。これは、かの女たちがこの世を捨てたことを象徴するものであった(142)。そして、ボルドーの姉妹の習慣にならって、正午と夕方、その日の意向と決心を新たにしながら、この十字架を接吻した(143)。

アデルはローモン神父のために数多くの書類をコピーしていたが、その中に(144)ソダリティの規則書があった。アデルはそれをアガタに送り、その写しを作ってくれるように依頼している(145)。

アデルは社交的な儀礼をないがしろにしていたわけではなかった。トランケレオンに落ち着いたシャルルとその新妻をつれて(146)、伯父フランソアに挨拶をするため、ガジャン(GAJEAN)へ出向いている(147)。伯父フランソアの娘カロリンは、アソシアシオンのメンバーであった(148)。また、アデルは、伯父の息子の洗礼の代母でもあった(149)。アデルは伯父を訪問した際、伯母のショールを一枚持ち帰った。そして、それをアガタに送り、染めてくれるように依頼した(150)。

アデルはアソシアシオンのメンバーに絶えず気をつかっていた。数カ月まえ病気に苦しんでいたアメリ・ド・リサンは、今では病気から快復している。アデルの言葉によると、かの女は霊的生活において大きく成長した(151)。アデルは、アメリに宛てて次のような新年の挨拶を送っている。

「一瞬たりとも時間を無駄にしないようにいたしましょう。日常茶飯事を ふくめ、すべてを神のためにおこないましょう。み主はとても優しいお方 です。ですから、わたしたちが神さまのためにすることは、どれほど些細 なことでも認めて下さいます。ああ、わたしたちがお仕えしている神さま は、なんと慈悲深いお方でしょう。神さまに所属するということは、ほん とうに素晴らしいことです!多くを求め、与えるに乏しいこの世にくらべ 神さまは、なんと違っておられることでしょう・・・。 アメリさん。善良にして崇拝すべきみ主のあふれんばかりの愛を知るわたしたちは、愛で胸が一杯になります。み主は本当にわたしたちのこころの愛人であり魂の配偶者です!アメリさん、真の意味でイエスの愛人となり、忠実な配偶者になろうではありませんか。おいで下さい。そして、イエスにたいするわたしたちの愛を証しましょう。寛大なこころでわたしたちの悪い傾き乱れた欲望を生贅にしようではありませんか。み主がわたしたちを感情的な慰めのミルクから乳離れさせようとなさっても、 気を落としてはなりません。み主がわたしたちに肉をあたえて下さるのは、もうわたしたちを子どもあつかいせず、大人としてあつかって下さっていることの証拠なのです。親愛なるアメリさん。わたしのために祈って下さい。わたしは大変みじめな人間で、あなたさまから信頼していただくに足りない者なのです」(152)。

もう一人のアソシエイツ、マドモアゼル・モネが結婚した。今では、ラグノ夫人(MADAME LAGNEAUX) と呼ばれている。アデルは、今まで通り、かの女と文通を続けて行くことにした(153)。また、アデルはアソシエイツの一人でアガタのいとこであるスゴンド(SECONDE)について心配していた。かの女は病気で、聖体拝領も病床でせざるをえない状態にあった(154)。スゴンドの両親とその家族は、ディシェ家で生活をしていたが(155)、アデルはその家族全員がもっと率直になって、本人に、その病気の重さを知らせるべきだと考えていた。意識を失って何をしているのか分からなくなるまで終油の秘跡を引き延ばすのは、良くないと述べている(156)。

ボルドーからの訪問客がもたらしたニュースによって、ラコンブが不治の病にかかっていることが分かった。アデルはラコンブのために祈るように、また、妊娠しているアソシエイツ、デスコムのためにも祈るように、と述べている(157)。

アデルは、自分とアソシエイツ全員が頂いている大いなる神のみ恵みを、忘れることはなかった。おそらく神は、会員たちとアデルの上に(159)、大いなる計画をもっておられる(158)にちがいなかった。

最近では日曜日ごとに聖体拝領ができるようになったアデルは、大きな喜びに満たされていた。デュッセ神父はこの点にかんしてラリボー神父の立場に一歩譲ったのである(161)。しばしば聖体を拝領しながら人びとの模範になることができない人は、本当に他者のつまずきになる、とアデルは述べている(162)。

アデルは、繰り返し犯す自分の過ちについて、過敏とさえ思われるほどに、気を配っていた。しかし、それと同時に、自己愛のあらわれにすぎない失望におちいることのないように、そのような誘惑に打ち勝つだけの鋭さをも持ち合わせていた。そして、アガタにたいして、自分がより完全にみ主にお委ねできるように神に祈ってほしいと依頼している(163)。

アデルは、また、自分の性格が熱しやすく、かつ、激しいものであることを意識していた。「たくさんの過ちを犯す原因となり、他人に厳しく自己に甘い、この激しい性格に、あなたとわたしのどちらが先に打ち勝つことができるようになるでしょうか」(164)とアデルは述べている。また、「長いあいだの習慣を、その根底から矯正するには、大変な努力が必要です。わたしは怠け者で、なかなかそれだけの犠牲を払おうとしません」とも述べている(165)

12月8日、第三部会のすべての分会のメンバーは、ソダリストとしての奉献を初めて「おおやけに更新する」ことになった。アデルはこれに先立つ一週間まえに手紙を書き、この荘厳にして重要な機会を前に、十分なこころの準備をするように勧めている。

アデルはマリアを純潔と潔白のかがみとしてかかげ、また、回心を望み、真面目に努力する「善意の」罪人には憐れみ深い母親であるとも考えていた。そして、自分たちが身に着けている帯が象徴するように、こころの純潔を保ち、これを少しでも汚すようなものごとから遠ざかる勇気を持つようにと勧めている。そして、「一つの心一つの魂を形作り、それによって罪を憎み、罪に導くすべてのものから遠ざかり、絶えず神を賛美し、天国の配偶者であるみ主を愛し奉ることができるように」(167)、と結んでいる。

今年も終わりに近づいた。アデルはそれまでに受けたアドバイスを思い起こし、8月に立てた決心を思い出している(168)。また、アデルは、新年に際してラリボー神父に手紙を書いて、師から助言を仰ぐようにアガタにすすめ、また、二人しでリボー神父に手紙を書き、新しい一年のあいだに自分たちが模範として歩むことができるような聖人を推薦してもらおう(169)、と述べている。

アデルは自分の主欠点を矯正すべく決意し、イグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ド・サールの教えに準拠した糾明の方式を作り上げた。そして、そのあらましをアガタに書き送っている(170)。こうすれば、自分たち二人は、過ちやプライドに打ち勝ち、激しい性格を矯正することができるだろうと考えた(171)。

1月。フランス軍はヨーロッパ同盟軍によって包囲され、ナポレオンが守勢にまわったことはだれの目にも明らかになった。11月、勝ち誇ったウエリントンは、すでにピレネ山脈を越えてフランスに進軍し(172)、アデルにとっても、また、全てのアソシエイツにとっても、最悪のときが到来したかに見えた(173)。だから、ますます時間のあるうちに良いことをしておかねばならないと考えるようになったし、賢明なおとめたちのように、呼ばれたときにはいつでも準備ができているようにしておこう、とも考えるようになった(174)。

つづく二ヶ月間、軍事と政治は混乱を極めた。敵軍は間近に迫っているとか、敵軍はまだ遥か遠方だ、などと、たがいに矛盾した噂が飛び交い、人びとはなすすべを知らなかった(175)。そして、やがては、ガロンヌ川を越えることができなくなり、手紙を送ることさえもできなくなった(176)。

「戦いは、この世の中で最悪のペストです。少なくともこのような戦争が、少しは人びとに自己反省をする機会をあたえ、償いの業によって神の怒りを遠ざける一助となりますように。償いによってニニベの人たちは許しを得ました。わたしたちにもできない筈はありません」(177)、とアデルは記している。

この間、ボルドーでは、ソダリストの一人マドモアゼル・ラコンブが危篤状態におちいった。かの女は罪の償いの価値を身をもって示した人物である。ひと月のあいだ激しい苦痛に見舞われ(178)、介護の手がなければ寝返りを打つこともできなくなった。そのような激しい苦しみの中にありながらも、かの女はそれをソダリティの女子青年部のために捧げたのである。「生前のかの女は、罪の償いと謙遜を渇き求めていた」とシャミナード神父はラコンブについて語っている(179)。

この数週間、長引く病苦の中にあったラコンブは、「死ぬ前により多くの苦しみを捧げることができるように、死の時が日一日と延ばされることを心から」喜んでいた。

1月23日、ついにラコンブは魂を天にかえした。しかし、この知らせがシャミナード神父からアデルに送られて来たのは3月になってからのことである(180)。

近くで軍事行動がおこなわれつつあったにもかかわらず、アデルは2月の下旬、近辺に住んでいる友人たちを訪問した。そして、ビルヌーブ・ド・マルサンのポミエ姉妹を訪問し、そこで二日間とどまった。しかし、アデルは、世俗の精神に引き込まれやすい自分を責め、孤独の生活をおこなう方が自分の魂のためになると反省している。

アデルはアメリへの手紙の中で、「わたしたちはどれほどみ主に感謝しなければならないことでしょう。み主は、これ程しばしば、過ちの機会からわたしたちを守って下さいました。ですから、避けることのできる罪の機会から遠ざかるようにしましう」(181)、と記している。

1814年3月12日、ボルドー市はウエリントンに町を明け渡した。その後まもなく同盟王朝軍はパリを奪回し、ナポレオンのたぐいまれな運勢も、ついに終幕を迎えた(182)。4月11日、皇帝は退位し、22年間たえまなく近隣の王朝と戦火を交えつづけたフランスの戦争史に終止符が打たれた(183)。ブルボン王朝は復帰し、三色旗に代わって白旗がフランス全土にひるがえった。5月4日、ナポレオンはイタリアのリボルノ(LIVORNO)の南、ピオンビーノ(PIOMBINO)の沖合いにあるエルバ島(ELBA)に流された。その時のナポレオンは、まるで「フランスの皇帝」でもあるかのように、400人の従者を引き連れ、国家から200万フランの年金を取り付けていた。そして、さきに処刑された国王ルイ16世の弟で、今年59才になるコント・ド・プロバンスが王位を継承し、ルイ18世を名乗った(184)。

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