◎ 目 次
◎ 訳者のことば
◎ 著者まえがき
◎ 第1章
◎ 第2章
◎ 第3章
◎ 第4章
◎ 第5章
◎ 第6章
◎ 第7章
◎ 第8章
◎ 第9章
◎ 第10章
◎ 第11章
◎ 第12章
◎ 第13章
◎ 第14章
◎ 第15章
◎ 第16章
◎ 第17章
◎ 第18章
◎ 第19章
◎ 第20章
◎ 第21章
◎ 第22章
◎ 第23章
◎ 第24章
◎ 第25章



汚れなきマリア修道会の創立者 アデル・ドゥ・トランケレオンの生涯

ジョゼフ・ステファネリ著/朝山宗路訳 
  第1章 1808年6月

トランケレオン アデル 19才の誕生日


つい今しがたまで忙しく働かせていた刺繍の手を休め、満足げにマダム・パシャンに微笑みかけたアデルは、友だちにあうために身づくろいを始めた。

かれらはいつもこの時間にやって来る。パンがまだ暖かく料理が冷めない早朝である。しかし、毎日来るわけではない。確かにかれらはアデルの友だちであるが、貧しく自分の手で家計をこなすことのできない人たち、毎日の生計をたてることのできない人たちである。しかし、ことこれに関しては、アデルとても例外ではなかった。いつもかれらの世話に時間を費やしていたからである。

アデルは母親から多くのことを学んだ。しかし、中でも貧しい人たち、助けを必要とする人たち、教育を受けたことのない人たちへの配慮は、アデルがもっとも早期に学んだことの一つであった。だから、かれらが来ると、仕事を中断したり、祈りを途中でやめなければならないことがあっても、アデルは喜んでかれらを迎え入れたのである。アデルはそうすることをこころから喜んでいた。

アデルの友人の一人であり、こころを許して旅を共にすることのできたマダム・パシャンも、かれらが来るとアデルを呼ぶことになんの躊躇もなかった。

二人は急いで台所に降りて行った。シャトーの一階から階下の台所に通じる螺旋状の階段を、アデルは身軽に、こころ晴れやかに降りて行く。その姿の中にアデルのひととなりが反映されているようだ。

いまでは19才のアデル。人好きのする元気なおとめである。背丈はおよそ150センチをこえる程度であろうか。細身で精気に満ちあふれ、この地方特有の透き通るような黒い瞳をしている。子供の頃はふくれ面をしていたのかも知れない。少しすぼめた口元は、いまでは若い大人としての満ち足りたこころをあらわしているかに見える。

子供の頃のアデルは必要以上に短気を起こしたものである。しかし、それも今ではすっかり過去のことになってしまった。もの静かで、親切で、思慮深いアデルは、以前よりもずっと自分を抑えることができるようになっている。

それでも、いまだに性急なアデルは、考えや言葉や行動を抑えることに苦労することが多い。6年前のことである。母親のすすめと自分からのたっての望みによって、弟の家庭教師をしていたデュクルノ氏に生活の規則を書いてもらった(当時アデルは13才であった)。その時、氏はアデルのあふれんばかりの活発さを和らげるように勧めたものだった。

それ以来、アデルはこの点に特に力を注いできたが、その激しい性格を統御する努力はこののちも長く続けねばならないの。そして、その努力は死の最後の瞬間まで続けられるのだ。

たしかにアデルの陽気さは、後日悔やむことになるような言動を誘発する原因となっていた。しかしその反面、アデルをそれ程までに人好きのする人物にしていたのも、この陽気さあってのことだった。人びとはアデルといっしょに居ることを喜び、アデルにこころを引き付けられていたのである。いつも気さくで、こだわりのないアデルは、社会的にも経済的にも異なる階級の垣根を超えて、周囲の人びととつき合うことができた。

二人が降りて行った台所は地下にある。階段を降りて台所を斜めに横切るとドアがあり、そこを開けると戸外に通じる階段があった。この扉はシャトーを正面に見て、建物の右側についている。施しを受けようとしてやって来る貧しい人たちは、ここでアデルを待っていた。

男の人もいる。しかし大半は女性である。ある人は小さな子供の手をつなぎ、ある人は赤ん坊を胸に抱いていた。この人たちはシャトーの正門からちょうど一マイルほど下ったところにあるフガロール村の人たちだった。中にはシャトーの近辺から来ている人たちもいた。またその他に、広いバッツ家の領地内に住む人たちもいた。領地内に住む人たちはそれほど貧乏ではなく、アデルにとっては顔見知りの人たちである。アデルの父親ド・バッツ・ド・トランケレオン男爵は、ド・バッツ家の分家トランケレオンの長子であり、この領土を支配するトランケレオン城の領主なのである。

領地内に住む人でアデルが顔を見知らぬ者はほとんどいなかった。それと云うのも、アデルは領地内の労働者やその家族の生活を助けるために、母親に連れだって、定期的に見舞っていたからである。この人たちがシャトーを訪れるのは、なにか緊急な用事がある時とか、家庭の祝い事や、何か特別のできごとのために特に準備されたご馳走を受け取りに来るときなどである。

アデルは、集まって来るこれらすべての人たちに何か少しずつ与えながら、挨拶や思いやりの言葉をかけた。家に残してきた家族たちの安否を尋ねたり、かれらの健康や子供たちの宗教教育について尋ねたりもした。また、苦しんでいる人たちには希望と励ましの言葉をかけた。

施しを受けた後もまだしばらく帰ろうとしない人たちには、言葉少なに宗教の話を聞かせたり、公教要理を教えてやった。また、かれらのこころを啓発するような聖人物語を聞かせることもあった。

物質的な人助けは大切なことである。経済的に困窮している時代には、ことさらにそうである。しかしここに来る人たちは、だれしも、アデルが単にそれだけを配慮しようとしているのではないことを知っていた。アデルは、自分が知り、愛している神を、かれらにも知らせ、愛させようとしていたのである。

アデルが憶えているかぎり、貧しい人たちはすでに久しい以前からここを訪れていた。それは追放時代以前からのことである。

アデルの生まれたその年は、だれの記憶にも残る厳しい冬に見舞われ、恐るべき飢饉を引き起こした(1)。あちこちで一揆が起こり、田舎では追いはぎや強盗が横行した(2)。

アデルがまだ6才か7才の頃、すでにアデルの母親は、この幼いアデルに種々の慈善事業を手伝わせ、人びとに愛と思いやりの手を差し伸べることの大切さを教えていた。恵まれた人が恵まれない人を助けるのは当然の義務である。母親はこのことをアデルのこころに深く刻みつけたのである。

すべての人は神の愛によって救われた神の子である。だから、すべての人はキリストの慈愛を継承し、キリストのこの世における癒しのみ業を続けねばならない。母親はアデルに、絶えずこう言い聞かせていたのである。

幼い頃のアデルには、なぜ世の中がそれほどまでに困窮し、多くの人びとが飢えと寒さに苦しみ、互いに憎しみ合っているのかを理解することはできなかった。しかし、成長した今ともなれば、まだ完全とはいわないまでも、少なくとも自分が生まれたその年に端を発したフランス革命がなぜ起きたのかを、幾分かでも理解することができたはずである。

革命はアデルとその家族の生活に劇的な変化をもたらした。そして、その結果はアデルの世界にも及んだ(父親の友人は「悪結果をもたらした」と述べている)。

ナポレオンは、今ではフランスのみならず、ヨ−ロッパのほとんど全域を掌握する皇帝となっている。しかし、アデルの世界はパリでもなければナポレオンの世界でもなかった。ましてや教会の高度な政策の世界でもなければ、教皇とナポレオンのいがみ合いの世界でもなく、ガリア主義者と教皇権至上主義者(ウルトラモンテイン)の争い、地方政治とその論争の世界でもなかった。

アデルがこれらのことを知らなかったわけではない。父親や、父親を尋ねてくる訪問客が、しばしばそのような事を話し合っていたからである。父親の親友ディシェ氏は、そのような訪問客の一人であった。

氏は、県(デパルトマン)の首都アジャン市の出身で(3N4)刑事法廷の高官を勤めていたために、地方政治の実態に明るかった。氏はすでに革命以前からトランケレオンの人たちとつき合っており、今ではしばしばここを訪ねて来る。

しかし、アデルの家族は追放された国王に従軍した名誉ある家系に属し、熱心な王制派であったため、政治に関与することは避けていた。追放の地から帰国したのちの男爵は、領地と財産の再建に専念した。大革命とその余波によって大きな打撃を受けていたからである。

アデルの弟シャルルが勉学のためにパリにのぼったのも、ほんの最近の出来事である。弟から送られてくる手紙や、パリに弟を訪問する父親の話から、家族たちはある程度まで社会の動きを知ることができた。

敬虔で熱心なカトリック信徒であった年若いおとめアデルは、当時のフランスの教会に影響をおよぼしていたさまざまな神学や霊生の風潮からまったく免れていたわけではない。事実、アデルは告白の秘跡と聖体の秘跡について、小教区の主任司祭がとる厳格主義と、霊的指導者がとる均衡のとれた立場との間で、苦慮することが一度ならずあった。

すでに子供の頃から、追放の地スペインにあって、アデルはこのような考えの相違に遭遇し、こころを痛めたことがある。キリスト者としての生活を実践しようとするアデルにとって、こうした不便さを幾度か経験しながらも、アデルのこころに養われつつあった深い信仰心と神の愛にたいする信頼は、かの女に内的な平安を与え、霊的生活の確かな円熟さを育て上げていった。しかし、それから数カ月して、このアデルの霊的円熟さは試練を受けることになる。

ところで、そのような世の中の動きはさて置いて、いましばらくの間、アデルの世界はフランス南西部の田園生活の中に置かれていた。

6月10日。アデルは第19回目の誕生日と授洗の記念日を迎えた。わずか19才とは云え、アデルの存在は、すでにこの田園生活の中で欠かすことのできないものに育っていた。

地理的にも経済的にも、また、社会的にも宗教的にも、アデルの世界の中心は25部屋をもつ、美しく印象的なシャト−の中にあった(4)。このシャト−は1771年、アデルの祖父によって建てられた。その年代は、アデルが貧しい人たちに会う場所の上にある二階の冠石に刻まれている。それはちょうど祖父が死ぬ8年前で、アデルの誕生から数えて18年前にあたる。

当時建築されていた大きな家のほとんどがそうであったように、このシャト−も木造ではなく石造であった(5)。石は山から切り出され、形を整えられて、ぴったりと重なり合うように注意深く積み重ねられている。こうして出来上がった建造物は、石が掘り出された元の岸壁と同じように堅牢なものとなっている。

シャト−のほど近くにある小さな教会堂の傍らには、祖先が眠る墓地がある(6)。中でもアデルがよく知っている父方の祖母と大伯父は、ここに葬られていた。

北に面して建てられたこのシャトーの一階は、地上より2.5メ−トルほど高くなっている。戸外から室内に入るためには湾曲した二重石の階段を昇らなければならない。その階段は中央建物の前面をはしる小石を敷き詰めたテラスに通じている。建物の幅は、中央の建物とその両袖を合わせると、およそ40メートルにおよぶ。

中央部の建物は一階建で、その内部は伝統的なサロンで占められている。このサロンは幅約9メートル、奥行きはシャトーの奥行きと同じである。従って、正面玄関から入ると、そのまま裏庭まで通り抜けることができる(7)。サロンの両側には、いくつかのドアがあり、隣接した部屋に通じている。右側の一番奥のドアを開けると、そこには家庭用の小聖堂があった。アデルが母親と祈りをささげたのはこの聖堂であり、宿泊客の司祭がいるときなど、家族が召使たちと一緒にミサにあずかったのもこの聖堂であった。

この小さな聖堂には祭壇の他にいくつかの聖像が安置されており、数台のひざまずき台が置いてあった。光は後ろの壁の窓から差し込んでくる。この窓は庭に面していた。

中央建物の両袖は伝統的な建築様式にのっとり、二階建てになっている(8)。その屋根はルイ14世の建築家の名にちなんで付けられた(10)二重勾配のマンサード方式である(9)。この両袖の建物には家族部屋や客間があり、寝室、化粧室、食堂、図書室などがあった。召使の部屋や仕事部屋、リネン置場や納戸もここにあった。

部屋の中は冬は寒く、がらんとしていて、なごむことがなかった。暖炉に火があるときも、暖かさよりは煙を出すことの方がおおかった(11)。壁に掛けられた絵画やタペストリ(つづれ織りの壁掛け用の絵)は、凍てつく寒さからある程度まで部屋を守る役目を果しているが、暖房の主な手段はなんといっても厚着をすることだった。しかし、夏ともなれば、これらの部屋も、天井が高く、心地よく涼しかった。外から吹き込む新鮮なそよ風を包み込んでくれるからだ。

アデルはこのシャトーの内部をよく知っていた。家族部屋だけでなく召使の部屋も知っていた。なんの躊躇もなく召使たちをその部屋に訪問し、かれらと共に時を過ごしていたからである。

アデルがもっとも好んで出入りしたのは台所である。そこには牛の半身を串焼きにすることができるほどの大きな竈(かまど)が据えられていた。竈の焚き口は、ゆうに3メートルを超え、大きな丸太を同時に数本くべることができる。焼き串はいくつかのギアとロープでうまくコントロールされており、反動を利用しながら26分かけてゆっくりと一回転するようになっている。そのあいだに料理人たちは他の仕事をこなして行く。すでに竈の前の床石も、調理台の周囲の床石も、たくさんの人に踏み込まれてすりへっていた。

パンを焼いたり肉を焼くコックたち。その料理を手伝うヘルパーたち。かれらの中には裸足の者もいれば、靴を履いている者もいた。

台所にどっしりと構えている竈の上には物干し竿があり、洗濯した衣類や予期せぬ雨に濡れた衣服を乾かすことができるようになっていた。この他にもフックとラックがついていて、この大きな台所で使う柄の長い道具を掛けることができるようになっていた。

竈の右側にはオーブンがならんでいる。できあがった料理を暖めておく薪ストーブも一台ある。よく見受けられるような納戸があり、その中には乾燥果実(これはこの地方の特産品である)を中心に、野菜、ジャム、塩づけの肉やソーセージなどが貯蔵されている。

収穫した穀物やぶどう酒などのように広いスペースを必要とするものは、それぞれ別棟の背の低い建物の中に保管されている。これらの倉庫はシャトーとともに、花や芝生に覆われた前庭を抱きかかえるように建ち並んでいる。

このシャトーは田園にあり、サン・シルの小教区に属している。アデルが洗礼を受けたのは、このフガロール村の小さなサン・シル教会堂であった。

1200人の人口を擁するフガロール(12)は、ガロンヌ川流域の南端にあり、川から約6.5キロ離れている。人口99、000人の(13)フランス第三の都市ボルドーの港からは、約100キロ川上に位置している。

ガロンヌ川流域はフランスの果物の宝庫であり、美味しい果物、とりわけプルーンや、やわらかい野菜を産出することで有名である。南東から北西に走るこの川の両岸には耕地が広がり、森林や牧場、葡萄畑や広々とした原野が、シャトーの周囲を取り囲むように散らばっている。

この流域に点在する小さな町は農産物の交易の場となっており、この地方では手に入らない産品やサービスを供給してくれる。フガロールはそのような町の「典型的」なものの一つであった。ガロンヌ川を越えた対岸には(人口3、000人の町)ポール・セント・マリがあり、(これもさほど大きくない)南の町ラバルダックとの中間にフガロールは位置していた。そして、これらの町は、自然の地形に沿って曲がりくねる道路によって互いに結ばれていた。

ラバルダックは、街道沿いに僅かばかりの家と商店があるだけの小さな町で、数マイル先から見える教会堂の尖塔は、まるでこの小さな町全体を支配しているようだ。

ガロンヌ川は大きくて美しい。しかし、それはしばしば氾濫し、特に春先になると荒れ狂う。その源流は中央ピレネの北斜面の高みにあり、その斜面のほとんど全域を潤しながら本流に注ぎ込む。支流、とりわけタルン川とロット川は、フランス南中央部のほとんど全域を潤している。ボルドーに到着するころには、このガロンヌ川は大河となってジロンド川に流れ込み、最終的にはフランスの西岸にあるビスケイ湾に渦巻く水を注ぎ込む。

この辺りには橋がなく、川を渡るには、渡し船を利用するしかなかった。ポール・セント・マリは、そのような数少ない渡し場の一つである(15)。この町は、フガロールから北方8キロの東側に位置しており、人口12、500人を擁するアジャンの町(16)から25キロほど離れた川下にある。

アジャンでガロンヌ川に橋を掛けようとする試みは、過去すでに何回か繰り返されてきた。1154年、アキテーヌのエレオノールがヘンリー・プランタジュネットに嫁いだとき(17)、この地方は英国の支配下におかれた。1189年、獅子王リチャードは、アジャンから左岸に架橋したが、まもなく荒れ狂う氾濫によって押し流された(18)。それから二世紀の後、再び架橋が試みられたが、これも1453年の大氾濫によって失敗に終わっている(19)。

1808年の今、ナポレオンは再び架橋を決意し、工兵隊を送り、アジャンと西岸の小さな町ル・パッサージュをつなぐことになった。事実、この土木工事はそれから間もなく開始され(1811年)、アデルがディシェ家を訪問する時は、その進捗状況を目の当たりにすることができた。

工事はディシェ家から川上に向かって僅か800メートルほど離れた所で行われていた。アデルが他界する直前に完成したこの橋は、全長約250メートル。コンクリートと石で造られた11本の頑強なアーチが、激流の中でこの橋を支えていた(20N5)。

ガロンヌ川の小さな支流の一つバイーズ川は、トランケレオン家の領地の中を走っている(21)。曲がりくねったこの川は、ここに来るまでに、アデルがよく知っているいくつかの町を通って来る。まず最初に(人口7、100人の)コンドムを通り(22)、次に(人口6、300人の)ネラック(23)を経て、ラバルダックに到着する。それから男爵の領地トランケレオンを通過してコースを北西にとり、ポール・セント・マリの川下約8キロのところでガロンヌ川に注ぎ込む。

ほとんど毎年のように起こることだが(24)、ガロンヌ川が増水してバイーズ川の流れを遮ると、トランケレオン家の台所は水浸しになる。その水かさは、時には60センチを超えることもあった。事実、この流域は非常に平坦で、トランケレオンからガロンヌ川の対岸にあるポール・セント・マリを眺めると、その町の背後にある丘稜まで見渡せるほどである(25)。

シャトーは流域の高台にあり、バイーズ川が少しくらい氾濫しても、それほど大きな脅威にはならない。このバイーズ川にはギャループ川が注ぎ込んでいる。そして、このギャループ川はシャトーのほど近くにある自家用の水車を回している(26)。

シャトーとその領地にたいする責任は、当然のことながら男爵の双肩にかかっていた。近頃では父親が留守をすることは稀であるが、父親が在宅のときは、アデルはことのほか嬉しかった。アデルの男爵にたいする関係は、母親にたいするものと性質を異にするとはいえ、同じように美しく満ち足りたものだった。父親もアデルを愛し、常にこころに掛けていた。しかし、その軍人としての職業柄、一見他人の目には、そのように見えないこともあったようである(27)。

アデルは、男爵の最初の子供であった。アデルが選んだ人生の道は必ずしも男爵の期待に添うものではなかったし、その生き方に順応するのも決して容易なことではなかった。しかし、そうは云っても、娘をめで慈しむ父親のこころに変わりはなかった。

一般に貴族の父親がするように、何処かに所用で出かけた時などは、幼いアデルに人形を買い求め、また、大きくなれば今風のドレスやリネンを持ち帰るなど、どちらかといえば贅沢すぎるみやげものを買い与えたものだった。しかし、いまではそのようなものが必ずしもアデルの望みにかなうものではなく、アデルがほしがっているものは他にあることを知っていた。だからパリやアジャンやボルドーに出かけた時などは、アデルが世話をしている貧しい人たちや子供たちに必要なもの、アデルの祈祷所に必要なものを持ち帰るようになった。

シャルルがパリに行ってしまった今では、男爵と男爵夫人の手元には、アデルの他に両親を失った母方の姪のクララが暮らしている。学校が休みになるとアデルの妹デジレと、クララの姉エリザが帰省する。数年前にくらべれば随分小さな家族になってしまった。あのころは男爵の姉妹たちや弟に加えて、男爵の伯父も一緒に暮らしていた。その上、シャルルとデュクルノー氏も同居していた。しかし今でも、召使やマダム・パシャンを勘定に入れると、大きな所帯と云えるだろう。

パシャンは革命以前、修道女であった。しかし、反聖職者主義をとる政府によって修道院は男女の区別なく解散させられ、修道院は国家(La Nation)によって没収された。居場所を失ったパシャンは、トランケレオンを避難所として身を寄せたのである(28)。

アデルにとって、パシャンはこころの許せる親友であり、旅に出るときには、しばしばかの女を同伴した(29)。年若い貴婦人の一人旅は考えもおよばない時代のことである。しかし、そのような混乱した時代でありながらも、若い貴婦人たちは、不便な交通機関を利用しながら、わたしたちが想像する以上に頻繁な旅をしていたようである。

もちろん、当時の貴族たちが公的な交通機関を利用することは稀であった。日曜日ごとに教会へ行くトランケレオン家の人びとは、自家用の馬車を利用した。教会堂はシャトーの北方1キロ半ばかり離れたところにあり、その尖塔は樹木の上にそびえている。

アデルは、雨の日も、教会の行き帰りは好んで歩くようにしていた(30)。そうすることによって、歩く以外に方法を持たない若い女性や子供たち、労働者階級の若者たちや農夫たちと直接交わることができたからである。一緒に歩いている時やミサの後で立ち話をしている時など、アデルは上手に話題を霊的なことがらに向け、公教要理の説明などをするのだった。

社会階級を異にし、しばしば猜疑心を持っていがみ合う者同士でありながらも、いまでは、町の人びとは、アデルとこころを交わすことができるようになっている。実際、トランケレオン家の人びとは、だれかれの差別なく、一般の民衆から愛され、信頼されていた。だから、フランス大革命のときにしばしば起こった一揆や暴動のときに、トランケレオン家の人びととその財産を護ってくれたのは、フガロールの近辺に住むかれら一般の庶民たちであり、農夫や商人や召使たちであった。

もちろんアデルが馬車を利用しなかったわけではない。領地を一巡し、労働者を訪ね、食物や薬を届け、子供たちに衣類を与え、病人の看護を手伝い、かれらを家族同様に世話をする母親に同行するときなどは、馬車で回った。

母親は数多くの慈善事業を手掛けていた。しかし、どの程度まで手を広げていたのかは、家族さえも知らなかった。ただ分かっているのは、かの女の死に際して手元に残されていたのは僅か5フランの現金と当時かの女が使用していた衣服のみであったということである(31)。

アデルは、また、ほとんど毎年のように母親に同行して、母方の祖母を訪問していた。それは東へ約160キロ行ったのち、少し北へ上ったところにある人口約6、300人のフィジャックの町(32)への旅である。ここへ行くにはビルフランシュを経由して行くのだが、かなりの長旅である。でも、曲がりくねったロット川沿いに行くならば、更に時間がかかる。

1808年、今年もアデルは母親と共にフィジャックに赴いたが、この旅はアデルの生涯をまったく予期せぬ方向に変えてしまうことになった。

さて、このようにトランケレオンを、数週間あるいは数カ月ものあいだ、留守にするときは、川の船便を使ったり、乗合馬車を利用することが多かった。そして、おおやけの交通機関を使って旅をすることは、とくに子供たちにとっては一つの冒険でもあった。

当時の公的交通機関と云えば(33)、伝統的な乗合馬車のようなものであり、おそらく当時開発されていたディリジャンス(diligence)とよばれる乗合馬車であったと思われる。この乗合馬車は(34)車体が大きく、車内は小部屋に仕切られていて、15人から20人を収容することができるようになっていた。いずれの小部屋も、程度の差こそあれ、乗り心地の悪さには変わりはなかった。座席をとるには、15日から20日前に予約しておかなければならない。席をとるだけの余裕をもたない貧しい人たちは、荷物と一緒に屋根に乗る。もっとも、それも場所が空いていればのことであった。

普通、5頭から6頭の馬に曵かれたこの馬車は、平均時速5、6キロ程度のスピードで走った。歩くのとそれほど変わらない速度である。しかも、時にはもっと遅くなることもあった。一般に、道路の手入れが悪く、田舎道はほんの少しの雨でもぬかるみになったからである。

お天気の良いときでも、登り坂になれば、馬の体力を消耗させないために、乗客が車を降りて歩くことが多かった(35)。車掌であるコンデュクトゥール(conducteur)は、お船の船長さんのようなものだ。巧みな技術で馬と御者、乗客と荷物を完全に自分の管理のもとに置いていた(36)。

この他に、もっと高価ではあるがスピードの速い乗り物があった。それは、一人または二人乗りの駅伝馬車、シェーズ・ド・ポスト(chaise de poste)である。これは一頭曵きの二輪馬車であった(37)。

昼間シャトーから見おろすと、このような乗合馬車や駅伝馬車が近くの道を行き来するのが見えたにちがいない。しかし、このような公的交通機関は、歩行者に比べれば、ずっと数が少なかった。畑から畑に渡り歩く農夫たち、使い走りをする田舎商人の小間使い、週毎に荷車を曵いて市場に出かける農夫の女(38)、行軍する兵士たち(ナポレオン時代の戦争はフランスの若者たちの大半を徴兵した)、夏のそぞろ歩きやピクニックを楽しみながら近くの野原へ出かける貴族のおとめたち、教区を巡回する神父たち、かれらはみんな歩いていたのである。

しかし、一般に夜の道路は静まり返っていた(39)。かすめ捕ってきた獲物を抱えて走るこそ泥や密猟者(40)。一軒家や無防備な家に侵入する盗賊。そして、もっと悪いことには、人の住んでいる家や村の貯蔵庫を荒そうと画策して回る泥棒の群。動くものはかれらだけであった。後はなに一つ動くものはない。しんと静まり返っている。毎年行われる森林の間引き(course)で、泥棒や悪党は隠れ家を失い、新しいアジトを探さざるを得ない状態に追い込まれていた(41)にもかかわらず、このような乱世においては、いつも、どこか、人びとの住む周辺に、かれらは徘徊していたのだ(42)。

アデルが旅をした場所と云えば、どちらかといえば近距離の場所であり、アジャンとかコンドム、ロンピアン、プーシュ、エギィヨン、ラガリッグ、サンタヴィなど、いずれもトランケレオンを中心にして半径40キロメートル内の町々であった。しかし、当時の40キロは片道5、6時間を意味していた。

これらの(比較的)近い町や、もっと遠く離れた町には、アデルの友人が住んでいた。この人たちは、アソシアシオン(Association)のメンバーであった。このアソシアシオンは、またの名をプティット・ソシエテ(小さな会Petite Societe)と云い、今ではアデルの生活の中で最も重要な位置を占めている。

このグループは、1804年、アデルを含む三人のメンバーによって始められた。今では少なくとも60人の若い女性が会員となっている。そのメンバーは主にフランスの南西部に住む貴族や中産階級の人たちで、広範な地域に点在していた。

時折アデルは会員たちを訪問し、会員たちもアデルを訪問した。しかしほとんどの場合、連絡の手段として手紙が用いられていた。そのため、文通はアデルの生活の重要な日課となった。普段は祈りを終えた早朝か、シャトーが寝静まった夜更けに手紙を書くことにしていた。しかし、アデルの一日は長く、厳しいものであった。朝の6時か7時に始まり、夜の11時ごろに終わる。夜の11時ともなれば、疲れきったアデルは、手紙を書きながら眠りに落ちることもあった。そのようなときは、結局、書きかけた手紙を次の日に持ち越すことになった(43)。

アデルが書く手紙には、まだ会ったことのない見知らぬ人に宛てたものもあり、また、親しい友人に宛てたものもあった。親しい友人たちとは、手紙を通して自分の理想や希望を分かち合っていた。

このような友人の中で、アデルがもっとも親しくしていたのはディシェ家の二人姉妹アガタとジャンヌである。ジャンヌは今ではベロック夫人になっている。この二人にたいしては、お互いが訪問していない限り、週に一度は必ず手紙を交わすことにしていた。

この二人は、アデルがこころから敬愛する親しい友人であった。両家の家族は、多くの点で互いに共通する興味をもっていた。ディシェ家が住んでいるアジャンは、直線距離にしてわずか24キロしか離れていなかったが、実際に、そこまで行くとなれば、優に30キロを超す道のりであった。アジャンには、ガロンヌ川を渡る橋がなかったからである。

トランケレオンからアジャンに行くには、先ず北にあるポール・セント・マリまで行き、そこでガロンヌ川を渡って、更に川上に向かって24キロ行かなければならない。アメリ・ド・リサンもアジャンに住んでいた。アメリの家族とは古くから家族ぐるみのお付き合いをしていた。スペインとポルトガルへ追放されていた間は、二人の友情も途絶えがちであったが、ここで二人は再会し、変わらぬ友情を確かめ合うことができたのである。

コンドムではアデルの伯母たちが少女のための寄宿舎学校を経営していた。エリザとデジレは、この学校に寄宿している。そのほか、アデルの親友ロロット・ド・ラシャペルとコンパニョ家の姉妹たちもコンドムに住んでいた。

後日、アデルはメラニ・フィガロールとも知合いになるが、このメラニは、今は、まだ12才でしかない。熱意とエネルギーにあふれたメラニは、やがてアソシアシオンのメンバーの中でもっとも積極的な人物の一人となる。

メラニの家族はいつも何処かに移動し、一つの場所に定着することはなかった。しかしメラニは、どこにいても必ず連絡をとることを忘れなかった。また、家族が一時的に落ち着くと、その落ち着いた先で、アソシアシオンの新しいメンバーを熱心に勧誘するのだった。

これらの友人の他に、コンドムには、裕福で、活動性に富み、才能豊かな美しいクレマンティン・ヤナッシュが住んでいた。かの女の「回心」とアソシアシオンへの入会は、家族と知人に衝撃を与えたが、同時に感激的なできごとでもあった。

さらにコンドムにはド・ポミエ家の姉妹ロザリと、もう一人のアデルがいた。この二人は、このグループの人たちによって募集された最初のメンバーである。

これら全ての人たちと、その他数多くの人たちが、今後のアデルの生涯に大きな位置を占めることになる。そして、かれらはお互いに異なる人生の道を歩みながら、いずれ変わらぬ友情を守り続けることになるのだ。

▲TOP