マリアニストの聖人たち
Marianist Saints


1995年10月1日に列福されたマリアニストの殉教者たち

証人 カルロス エラーナ / へスス ヒタ / フィデル フイディオ
1936年から39年にかけてスペインで起きた内戦のときに殉教し、
1995年に列福された3人の兄弟たちについてお伝えします。

■神の招きの証人

たとえ私たちがその声に耳を傾けないことのほうが多くても、神はいつも呼びかけておられます。神は一人一人をその人の名前で呼ばれ、その人の道、その人固有の召命を示されます。

たとえ私たちの生きる道がそれぞれ違っていても、私たちは皆、神との親しさの中に入り、神の傍らで生きるよう招かれています。

神は、ある人たちが、洗礼の賜物を徹底的に生きる証人となるために全てを捨てるよう、そして、自分のためには何もとっておかない生活形態に入るようお望みになります。この呼びかけは、人間の目には不可解なと思わせられる道をたどらせることがあります。

フィデルはVitoriaのマリアニストたちを知っていました。Vitoriaにはマリアニストの奉献生活を望む若者たちのための修学院があったのです。1年後、彼は、ピレネー地方のフランス語圏の町Pontacqに行きます。そこにはVitoriaと同じような目的の家があって、そこで修道生活を始める準備を続けました。
フィデル フイディオ
Fidel Fuidio


へスス ヒタ
Jesús Hita
へススは異なった道を歩みました。Calahorraにはマリアニストたちがいませんでした。しかし、彼には、マリアニストたちを知っている司祭のおじさんがいました。それで、小神学校で2年間過ごした後、Escoriazaにある《マリアニスト養成の家》に入りました。

カルロス エラーナ
Carlos Eraña
カルロスもEscoriazaのマリアニストたちに出会いました。Escoriazaは彼の父方の在の隣に位置しています。彼にはマリア会のアスピラントの友だちが何人かいました。それで、友だちの後に続いたのです。

冒険が始まった時、彼らはまだ子どもでした。何にも変わったところのない、普通の子どもたちでした。そして、彼らは自分の限界を乗り越えるべく闘わなければなりませんでした。

へススには神経性の吃音があり、並外れた楽天家のフィデルはPontacqでフランス語と格闘しなければならず、カルロスはスペイン語を学ばなければならないことと、背が低いことからくる気の弱さに打ち勝たなければなりませんでした。

3人とも自分たちがやれる範囲で困難に立ち向かいました。失望することもありましたが、情熱によって克服していきました。そして、時が至って、最終的な決断をしました。彼らは、至聖なる三位の栄光のため、マリアの誉れのため、そして他者によりよく奉仕するためにマリア会において終生誓願を立てる決心を固めました。

■質朴で、貧しいスペインそしてキリスト教国であるスペインの証人

カルロス、フィデル、へススは、様変わりして行くスペインの中で生きました。つまり、様々な社会的変化に揺さぶられたスペイン、おずおずと近代化を目指したスペインの中で。

それは、マリア・クリスティーナが摂政をしていた時代のこと、残っていた植民地を失った時代のことでした。そして、君主制の復興、次いで第二共和制の到来の頃のことでした。

フィデル フイディオは、1880年、Alava 地方のYecoraで生まれ、Vitoriaで幼年時代を過ごしました。

カルロス エラナは、1884年、Guipuzcoa地方のArechavaletaの近くのAozarazaで生まれました。

へスス ヒタは、20世紀が目覚めようとしていた1900年にCalahorraで生まれました。

3人とも、たいしたものは何もない、慎ましい家族のなかで生活しました。彼らは、家庭を築き上げるためにはどんな努力も惜しまない両親を見て育ちました。そして、家庭の中で、それぞれが果たすべき仕事を持っていました。何故なら、生活が苦しかったからです。又彼らは、子どもの頃から、家庭で、収穫の主に祈るように、そして、主に感謝するよう教わりました。それは聞き入れられました。

カルロスは、家族が用いているバスク語で祈りを教わりました。フィデルとへススはスペイン語で祈りを教わりました。つまり、カルロスは“Gure Aita”、フィデルとへススは”Padre Nuestro”です。

彼らは、寛大であること、分かち合うこと、自分のためには何もとって置かない事、全部他者にあげること、も家庭で学びました。

■聖母マリアへの愛

マリアニスト(マリアの者)たちはその名が示すとおり、マリア会を作りました。イエスの母マリアはベツレヘムの洞窟で、イエスを腕に抱きました。後に、カルワリオの丘で、その同じ腕の中にイエスの亡骸を抱きました。そのアリアの周りに、いまだに恐れを抱いている弟子たちが集まりました。次いでマリアは、これらの弟子たちが、イエスの名を、全世界に告げ知らせに行くのを見ました。
キリスト者たちは、イエスの名を、良い種として世界のあらゆるところに蒔きました。

カルロスはAranzazuの聖母マリアのみ名を、へススはValvaneraの聖母マリアのみ名を、そしてフィデルは雪の聖母マリアのみ名を呼ぶことを覚えました。
彼らは、マリアニストの父であるギョーム・ヨゼフ シャミナード神父が、スペインのサラゴサの“柱の聖母”の下で、どのようにしてマリア会創立のインスピレーションを受けたかということと、彼が、教会、そしてキリスト者一人ひとりの生活におけるマリアの役割について一生強調し続けたということを何度も何度も聞きました。
彼らは、生涯を通じて、そして特に困難な時に、しばしば、マリアのご保護を仰ぎ、彼女のみ手に自らを委ねました。

カルロスはロザリオを持っていたので、マドリッドで逮捕されました。へススはMontesaの隠れ家で、避難した人たちや隠れ家の女主人と一緒にロザリオを唱えていました。フィデルは、人民戦線政府の牢獄となっている居心地の悪い屋根裏部屋の中で、共に拘束されている人たちとロザリオを唱えました。

■教育誓願の証し

彼らは三人とも教育者でした。彼らは教育課程に進み、それぞれのミッションに従って資格を獲得しました。

カルロスは小学校の教員免許によって、Escoriaza、OrataのVillafranca、そして、Suancesで先生をしました。後日、彼はCiudad RealとTetouanで校長に、そして、最終的にマドリッド学園で小学校の校長になりました。校長としてCiudad Realに戻った彼は、“La Popular”と呼ばれる学校を任されました。そこは最も貧しい人たちを受け入れる学校で、彼は皆の尊敬を得ました。

フィデルは、数年間JerezとCadixで過ごしましたが、それ以外はマドリッドの若者たちのために献身しました。Ciudad Realに赴任したのは1933年でした。歴史、特に、先史学の博士、生来楽天で大胆な人、そしてスポーツマンであった彼は聴講者を魅了しました。そして、教えることだけでなく、研究のためにも時間を割き、理論と実践を併せ持つことに幸せを見つけていました。それゆえ、生徒たちを考古学の鉱床に導き、古代の硬貨を探しては教え、それらを分類させました。

へススも歴史の専門家でした。教員免許はサラゴサで取りました。彼は、Suances、Escoriaza、Vitoria、Ciudad Real、Jerezで働き、1933年からマドリッドで働きました。彼は、仕事の能力もさることながら、自分が現在やっていることに全身を打ち込むという性格をもっていました。そして、フィデルのように脚光を浴びることはありませんでしたが、疲れを知らぬ闘士として生涯生き抜きました。 三人にとって教育活動は善を行う王道でしたし、人々の役に立っていることを三人なりに感じていました。彼らはその思いに鼓舞され、名声やお金には目もくれませんでした。

■骨肉相食む抗争の証人

1936年7月、超えがたい国境が一挙に立ちはだかり、スペインが二つに分断されまし。一種の狂気が支配したこの古い大地で、友だちが敵同士となり、兄弟が互いにいがみあって、武器を作るために鋤を捨てました。人々は、自分の望みではなく、忌まわしい偶然によって、ある人はこちらの党派に、他の人はあちらの党派に、と組み入れられてしまいました。この内戦の日々、もはや憐れみというものはなく、「奴だ、奴を捕まえろ!」、と敵をあちこちと探し回っては告発しました。

この時期、フィデルは、ヘルニアの手術をしたばかりで、Ciudad Realにいました。学年度が終わり、町は静けさを取り戻し、他の諸都市で起きている動乱とは無縁のように見えました。学校が徴発されていたので、彼は危険のない下宿に移りました。カルロスも同じことを考えていました。彼は、Manchaの首都にたくさんの友だちがいました。人々は彼を知っており、彼のことが大好きでした。しかし、彼を受け入れるために家の戸が開かれることはありませんでした。

へススは、Ciudad Realに行き、6月に授業を受けなかった生徒たちのために夏の補習を行いました。彼にとっても、町は死を招く罠と化していました。

三人は、時と場所は違っていましたが、同じ運命のもとに置かれ、処刑されました。カルロスは9月 8日、Alarcosの隠修修道院の近くで、へススは9月25日、Carrionで、フィデルは10月18日、同じくCarrionで。

彼らは、何故自分たちが迫害されるのかもわからず、数日間待機させられた後、死と向き合わされました。そして、若き日に、最後までつき従っていくと決心したその主のみ跡に従っているのだと確信しつつ、彼らより先に旅立っていった人々と同じ様に、自分たちを迫害する人々を許しながら死んでいきました。

■和解の証人

この世は平和に生きることを教えてくれません。戦争はだんだん激しくなり、人々に耐え難い苦痛をもたらしました。戦争は癒しがたい傷跡をいたるところに残し、傷がふさがっていると思われている所でも憎しみや無理解が生じました。

このような抗争の理由はいくらでも見つけるができます。しかし、様々な理由の根幹にあるのは利己主義です。

教会は、対立しあう者たちは列聖しませんが、最後まで忠実だった者は列聖します。

教会は列聖しても、誰も罪に定めません。何故なら、戦争の張本人たちは、しばしば単なる死刑執行人にしか過ぎなく、本当に罪に定めなければならないのは、仲間内で殺し合いをさせる憎しみであることを知っているからです。憎しみは犠牲者を生みます。

カルロス、フィデル、へススは和解の証人であり、平和の生き方の証人です。又、この平和に至るために努力をしなければならないことの証人、許しだけがこの平和を得られる、ということの証人です。

■それで、今は?

私たちの中の多くの者にとって、1936年から1939年までスペインを荒廃させた内戦は、歴史書の中の一つのエピソードに過ぎません。

ある人たちにとっては、それは、分裂の痛みとなって記憶に残っている、辛かった子ども時代の劇的な思い出ですが、すでに過去の思い出です。

そして、その他、自分の意志とは関わりなく事件の中心人物となった人たちにとっては、恐怖の4年間が消しがたい出来事として記憶の中に染みついています。

今、私たちは、二つのスペインという神話を永久に踏み越えた、歴史の新しい段階にいます。

許しの証人だった人たちが、未来への指標として私たちの中に留まっています。

彼らに、他者を許しながら死んでいくことができたのだから、私たちも、他者を許しながら生きることができます。

私たちは、その歴史を忘れることは出来ませんが、より人間的な未来を建設することができるのだということを、その歴史から学ぶことができます。

完   
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