マリアニストの聖人たち
Marianist Saints

  
福者ヤコブ・ガップの生涯 BLESSED JAKOB GAPP
ナチズムに立ち向かったカトリック信仰の証
 ■福者自身がゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)で
  その生き様を語る。
これは、福者ヤコブ・ガップ師の生き様の要約です。
詳細はすべて、1943年1月25日と27日に、ヤコブ師がゲシュタポによって受けさせられた尋問調書からの抜粋です。

彼は、1897年7月26日、オーストリアのWattens(チロル)で生まれました。彼が生まれた翌日は聖ヤコブの祝日だったのでヤコブの名前がつけられたのです。
《私は、マルチン・ガップとその妻ワッシュ・アントニアの七番目子どもで末子です。》
彼は故郷の村の小学校を卒業した後、Hallの中学校で学びました。1915年5月24日、イタリアはオーストリアとハンガリーの同盟軍に宣戦を布告しました。
《1915年、私はオーストリア軍に志願しました。》
それで彼は、イタリアの前線に送られ、負傷しましたが、その勇気が称えられ、叙勲されました。戦争の末期、彼は捕虜になりました。
《1918年11月6日、Trentの近くで捕まった私は、1919年8月14日まで、イタリアで捕虜生活を送り、祖国に戻されました。》
この捕虜生活の間、彼は非常に苦しみました。
《1937年、私は生徒たちに、どのようにして私が捕虜になり、チェコスロバキア人に監視され、彼らからどんなにひどい仕打ちを受けたかを話しました。しかし、だからといって、彼らを憎む気持ちにはなれなかった、と生徒たちに言ったものです。》
戦争と捕虜生活の間、彼はある種の社会主義的理想主義の影響を受けて、信仰の危機に陥りました。

1920年8月13日、彼は北オーストリアにあるGreisinghofのマリア会の修練院に入りました。
《私が最初にしたことは、黙想会に参加することでした。善意だけを武器にして、注意深く講話に耳を傾けました。神は私に報いてくださいました。 神への深い痛悔の念と堅固で誠実な信仰心をくださったのです。》
彼について、修練長は次のように述べています。「私たちのところにいるあの社会主義者のガップは素晴らしい若者です」。
1921年9月27日、彼は初誓願を宣立しました。
《1920年から1921年にかけて、そして、その後の数年間は、私の生涯にとって最も幸せなひとときでした。カトリックの信仰が私の中で、ますます深まっていきました。》
1925年8月27日、彼は、パリ近郊のアントニーで、ヨーロッパのマリア二ストたちと共に終生誓願を宣立しました。
1925年から1930年まで、彼はスイスのフリブールにあるマリアニスト国際神学校で過ごしましたが、それは、この町のカトリック大学で神学の勉強をするためでした。
《1925年、28歳でマリアニスト国際神学校に来た時、私は、“自分の信仰を他の人に話すときは確信をもって話そう”と心に強く思いました。その結果、私はこの決心を忠実に果たしたと言えると思います。》
1930年4月5日、彼はフリブールのカテドラルで司祭に叙階されました。
1930年から1937年まで、彼はオーストリアの幾つかのマリアニストの学校で教育司祭としての職務を果たしていきます。彼は、国家社会主義的思想がどんなものなのかを知ろうとしてその思想に注目します。彼はこの時代のことを語りながら尋問者に次のように答えています。
《私は国家社会主義のことを知ろうとしてそれに関する書物を何冊も読みはじめました。この運動のことを是非とも知りたかったのです。そして、アルフレッド・ローゼンベルグの「20世紀の神話」を読んだ時、私は、国家社会主義とカトリックの信仰とは相容れないものである、という確固たる確信にたどり着きました。》
それゆえ、彼は、ナチスの誤りに関するピオ11世の回勅を喜びをもって受け入れました。
《国家社会主義の誤りについてカトリック信者に知らせるのは私の義務だと確信しました。》
同じ頃、彼は困窮者、特に、失業中の労働者のために社会的に非常に有益な仕事をしていました。

1938年3月13日、ヒットラーはオーストリアを第三ドイツ帝国に併合しました。<我々は力に屈服した。神がオーストリアを守ってくださいますように!>と、首相が、最後の演説の中で言いました。ガップ師は機会がある度に教皇の回勅を知らせました。
《私は生徒たちに、カトリック信者はたとえ一人でも国家社会主義を受け入れてはならない、とよく言ったものです。》
それから数ヶ月後、すべてのカトリック校が徴発されました。司祭や教育修道者たちは自分たちに出来そうな仕事を探すのに苦労しました。Reutte(チロル)で助祭、そしてカテキスタとなったガップ師を、ゲシュタポのスパイたちは、付け狙い始めました。ゲシュタポが生徒たちに質問をすると、彼らは、「ユダヤ人たちは善良で、彼らを愛さなければならない、とガップ神父様は僕たちに言いました」と答えました。
Innsbruckの司教に視学官が通知したことは、「ガップ氏はカテキスタになる許可が下りていない」ということでした。

1938年11月11日、ガップ師は、故郷Wattensで説教をしました。ナチスは、この時代、カトリック信者が教皇様を助けるのを妨げようとしていました。
《バチカンの贅沢さについての運動が繰り広げられていたので、私は、ナチスの集会のためにMunichに建てられた建造物がそれほどひどくもないことを指摘しました。そして、ローゼンベルグの「20世紀の神話」は嘘偽りに満ちているので、それを読むキリスト者は正気の沙汰ではない、ということも付け加えました。》

1939年1月22日、ガップ師はオーストリアをうまく抜け出し、ボルドーにある、マリアニストのマドレーヌ共同体に行きました。スパイたちはガップ師がどこにいるか知っていました。
《1939年、マドレーヌでの復活の主日のミサの説教で、私は、カトリック信者がナチスから迫害されている、と公言しました。そして、信仰において兄弟であり、今迫害されているドイツ人たちのために祈るようミサの出席者にお願いました。》
フランス滞在許可の有効期限が切れたので、彼はスペインに行きました。5月23日、サンセバスチャンに到着。スペインはちょうど市民戦争が終わったばかりでした。ガップ師はスペイン語の習得に励みました。彼は幾つかの学校で教えることになるでしょう。彼は、教会に対するナチスの迫害について熱心に知らせました。しかし、スペイン人はこの種の悪魔の働きを見分けるのに慣れていないということと、この種のニュースは何も入ってきていないということに気がつきました。
《カトリックであるスペイン人が、ナチスに盲目的に従う可能性があるということが、私にはとてもやりきれなく思えました。》
1941年9月、彼は、バレンシアの柱の聖母学園に派遣されました。マリアニスト共同体の中で彼は唯一の司祭でした。クラスを受け持つだけでなく、修道者たちの聴罪司祭でもありました。彼はドイツ居留区のために時々ミサを行いました。しかし、スパイたちは、彼を見逃しはしませんでした。
《1942年の復活祭のあとの最初の日曜日に、私はマリア修道女会の聖テレジア教会でお説教をしました。私はとりわけ、教会は、初期から19世紀半ばまで、数多くの神話に打ち勝ってきましたから、20世紀の神話にも打ち勝つでしょう、と言いました。》
ガップ師は、ナチスの迫害を暴いているCalahorraの司教の、勇気ある司牧書簡を知らせようとしました。
《私はこの書簡の写しをメンデルソン氏や同僚、そして、両親がそれを読めるように何人かの生徒たちに個人的にあげました。》
1942年の初夏に、ベルリンから逃げてきたという自称ユダヤ人のマルティン・メンデルソン何某という人が、カトリックの教えを教えてほしいとガップ師に、頼みました。
《このメンデルソン氏は、自分と自分の家族にカトリックの信仰を教えてほしいと私に頼みました。私は仕事が忙しかったので最初は断りましたが、彼が本当に回心を望んでいると確信して、最終的には彼の頼みを引き受けました。》
間もなく、このメンデルソン氏にもう一人の回心者が加わることになります。ガップ師は、リアニストの兄弟たちが、彼らの態度は全くよくないとして反対意見を出したにもかかわらず、彼らを受け入れました。授業をするのが大変だったので、ガップ師は次ぎの新年度からトルトサ教区の小教会を一つ受け持つことを承諾していました。ガップ師がこの仕事につく前に、かの《友人たち》が彼を、スペインの北部地方へのドライブに誘いました。北部スペインには師の友達がいましたから。1942年11月5日、彼らはサンセバスチャンに向かいました。
そこには、あたかも偶然であるかのように、一人のチロル人がいて、彼らに、Hendayeを一巡りしたらどうかと勧めました。そこはドイツの占領下にある場所です。ガップ師は、かの《友達たち》がゲシュタポの配下であることにやっと気づいたのですが時すでに遅しでした。彼はすぐさま逮捕され、ベルリンに送られました。
彼はベルリンのいろいろな収容所で9ヶ月過ごしました。1月25日から27日にかけて、彼はゲシュタポの役人たちから尋問されました。彼が署名したこの尋問の調書は、勇敢な信仰告白の書です。み心の祭日だった7月2日、人民法廷は、裏切りのかどで彼に死刑を言い渡しました。1943年8月13日、処刑されました。

●司祭としての私の義務

ヤコブ・ガップ師は、自分が社会国家主義に反対するのは信仰による考察に基づいてのことだと断言しています。下記の証言は、ベルリンでの尋問調査書の抜粋です。

オーストリアがドイツに併合されたあと、私は、心のなかで密かに、社会国家主義を拒否することが出来たでしょう。多くの司祭たちはそうしていました。しかし、私は、率直に言って、カトリックの司祭の義務は、真実を教えるだけでなく、誤りに対しては闘うことである、と確信していました。

初代教会の時代に顕著だった出来事を仔細に調べみて、信仰を防御することは信徒だけでなく司祭(特に司祭ですが)の義務であるということがわかりました。そして教会の権利、つまるところ、神の権利を防御することは、たとえ命が危険にさらされようと実行に値する行為であるということがわかりました。

ドイツだけでなくフランス、あるいはスペインにおいても、私が司祭としての義務を果たす中で、私は、社会国家主義に対する私の気持ちを、いささかも隠すことはしませんでした。そればかりでなく、私は、司祭としての私の固有の義務は、社会国家主義が信仰を危険視しているということを信徒たちに警告することである、と確信していました。私がフランスやスペインでとった姿勢がドイツを損なうことであると気づいていたとしても、私にとって最も大切なのはカトリックの信仰である、と答えます。それゆえ、ナチスの思想の伝播を妨げるためにいかなる努力も惜しまなかったのです。カトリックの司祭として、社会国家主義と対立することは避けられません。

― 《あなたは、真のカトリック司祭が皆、社会国家主義に公に抵抗しなければならないと思いますか。》
― そのことこそ、今日の司祭の義務に対する私の意見です。かといって、私は、自分の意見を皆に押し付けるつもりはありません。私が確信していることは、信徒や司祭が、《この世》といかなる妥協もすることなくカトリックの真理を証言することが必要だということです。もし、私が、それをしなかったなら、私は自分を赦すことが出来なかったでしょう。そして、自分を臆病者、裏切り者、偽善者と見做すでしょう。
― カトリックの信仰ゆえにドイツを傷つけてしまったことは残念ですが、正直なところ、それ以外の行動はとれなかったでしょう。私の信仰はこの世にあるいかなるものよりも価値があります。

彼は数ヶ月前に弟のヨゼフに次のように書き送っています(1942年5月4日)。
《今日の司祭の召命は、素晴らしい説教をすることにあるのではなく、神への愛、キリストへの愛、カトリックの信条への愛、祖国への愛のために苦しむことであり、死ぬことにあります。》

●最後の証言

死刑執行の何時間か前に、ヤコブ・ガップ師は、手紙を二通書いています。一通は彼の家族宛、もう一通は、マリア会の総長宛です。家族宛の手紙は発送されましたが、総長宛の手紙は発送されませんでした。その手紙は訴訟記録保管所に保管されていました。これら二通の手紙は、彼の人生の最後を物語る素晴しい証しとなっています。

私は最愛の主のもとに行きます。

1943年8月13日 ベルリン プロテンセにて
いとこたちへ、そして、セペルや他の皆さんへ
 皆さんがこの手紙を手にする頃、私はすでにあちらの世界に行っていることでしょう。セペルとアンナがまだWattensにいるかどう定かではないので、皆さんにこの手紙を書くことにしました。そうすればこの手紙が宛先不明になることはないでしょう。
 私は去年の11月9日に、フランスの領土で逮捕されてベルリンに送られ、御心の祭日である7月2日に死刑を宣告されました。今日、それが執行されます。今夜7時、私は、熱烈に愛した救い主のもとに行きます。私のために悲しまないでください。全体的に見れば、私は幸せでした。もちろん、つらい時期が長かったのですが、死の準備をよくすることができました。神への愛のために勇気を持ち、忍耐してください。いずれ天国でまたお会いできるでしょう。親戚や知人の皆さん、私は暇乞いをします。
 天国で皆さんのことを思い出しましょう。逮捕されて、今に至るまでの辛い期間、私は皆さんのために祈りましたが、天国に行っても祈り続けましょう。すでに死者となっている愛する人たちにみなさんからよろしく、と伝えましょう。心のうちではいろいろ闘いがありましたが、この日が、私の人生において一番美しい日であると考えられるようになりました。
 私が子どもだった頃から皆さんが私のためにしてくれたことに対して主が報いてくださいますように。セペル、私はどんなにおまえのことを思ったことか。悲しまないで。すべては過ぎ去り、天国だけ残ります。私たちはまた会えるでしょう。だから、別離などというものはありません。家族のみんなに私の死を知らせてください。私は、祖国の裏切り者という裁きを受けました。私の知人たちによろしく言ってください。皆さんは、私がどの人たちのことを言っているかよくわかりますよね。愛する母がすでに待っています。まもなく彼女と一緒になれるでしょう。なんという喜び。最後にもう一度、みなさんに私からよろしく、と伝えてください。みなさんのために祈ります。我が祖国のためにも祈ります。
イエス、マリア、ヨゼフのうちに。
ジャガル 

誓願を更新し、私を神に捧げます。

フランソワ・ヨゼフ ジュン神父様
ニベル(ベルギー)
1943年8月13日 ベルリンにて

親愛なる総長閣下
 亡くなる前にあなたにお別れの挨拶をしなければ、と思いました。7月2日、御心の祭日に、裏切りのかどで死刑を宣告されました。今夜7時に死刑が執行されます。
昨年の11月9日以来の捕虜生活の中で、私は、自分の人生を十分に振り返りました。あなたと知り合ってからあなたがわたしにしてくださったすべてのことに心から感謝いたします。私は、いつも自分のことをマリア会のメンバーだと思っています。私は誓願を更新し、天の御母のみ手を通して私を神に捧げます。
 あなたにご心配をおかけしたかも知れない私をお許しください。私は何ヶ月かとても辛い時期を過ごしました。しかし、今は全く幸せです。思うに、辛い時期が私を浄めたのかも知れないと思います。
 修道的兄弟たちによろしくお伝えくださいますように。すでにあちらの世界にいる人たちによろしく伝えましょう。天国以外はすべて過ぎ去ります。

 私は、1920年8月13日に修練期を始めました。人生において一番すばらしい時期でした。今日(1943年8月13日)、幸いなる永遠の命が始まることを希望しています。
 さようなら。私のために祈ってください。私もあなたのために祈ります。またお会いできるでしょう。
イエス・マリア・ヨセフのうちに感謝して。
ヤコブ 
 

■迫害者たちの証言

●ゲシュタポの最高司令官であるヒットラーが、特に目立った尋問があったら自分に知らせるように命じたことがあります。この命令に忠実なロスはヤコブ・ガップの尋問書をヒットラーに回しました。それらを注意深く呼んだ彼は、感嘆の声を上げました。「もしガップのような男がドイツに100万人いたら、ドイツは強く、そして、戦争に負けないだろう。もちろん、社会国家主義の人間としてだが」。
  
●1897年、7月26日生まれのヤコブ・ガップ師に関して、ドイツの検察庁の総監から検事総長に。
ガップの恥ずべき、不名誉な行為を鑑みて、特赦を申し立てることなどどんな場合にもあてはまりません。そして、立派な埋葬のために遺骸を家族に引き渡すことにさえ反対です。安全の見地から見て、遺骸を留めておくべき重大な事柄があります。ガップ自身が、かつて教えているときに表明したことですが、それは、彼のカトリックの信仰です。彼はその信仰によって祖国を裏切るよう行動したのです。そして、宗教的な理由を自分の行動の根拠としたのです。宗教に深く結ばれた人々の中では、ガップは殉教者と見なされるでしょう。そして彼の葬儀は、いわゆる、信仰のために自分の祖国を裏切り、処刑されたという、沈黙の証しの機会をとなることでしょう。
命令によって  Neuhaus
  
●1943年8月13日 《今夜7時、私は、たえず熱烈に愛した主の御許に旅立ちます・・・》これは、死刑に定められたマリアニスト司祭・ヤコブ・ガップが、1943年8月13日にベルリンのPlotzenseeの監獄で書いたものです。人民法廷は祖国に対する裏切り行為として彼に死刑を言い渡しました。彼の罪は一体何ですか?彼は、社会国家主義とカトリックの信仰が相容れないものであることを主張し、人々に説きました。そして、ここに死刑執行の報告があります。《受刑者は落ち着き、穏やかでした。そして、抵抗することなく、断頭台に身を置きました。》

■1996年11月24日
43年後の1995年11月24日、ヨハネ・パウロ二世は、バチカンの大聖堂で、ヤコブ・ガップ師を、信仰の殉教者と宣言しました。
列聖調査に関する列聖省の綿密な調査の後、1996年4月6日の勅令に次のことが書かれていました。
《教皇聖下は次のように宣言なさいました。マリア会の司祭である主の僕ヤコブ・ガップ師は真の迫害を耐え忍びました。何故なら、1943年に、ナチスの、信仰への憎しみのために死刑に処されたからです。》
完   
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