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第87号 2007年9月15日発行

■井の中の蛙・・・・  マリア会司祭 末吉克久
  

今春から、小ヶ倉教会にマリア会の共同体が誕生し、その一員として生活を始めました。

現在、朝5時45分から信徒の方々と「朝の祈り」を共唱し、続いて「感謝の祭儀」を行います。初めは会員だけの「朝の祈り」でしたが、ある時から信徒の方々も参加するようになりました。

7月末には高田師は入院中、そして山崎士が地区会議・黙想会に参加のため留守となりました。
その折、教会の鍵を開け、祈りのうちに信徒の方々の集まるのを待ち、信徒の方々と共にする「朝の祈り」。独りぼっちじゃない、教会は共同体なんだということを強く意識しました。

また、8月15日は、朝8時、病院のICUに入っている人への「病者の塗油の秘跡」から始まりました。病人は意識はありません。ご家庭の方々が祈り、見守る中、秘跡を行いました。

10時のミサには、入院中の高田師から「共にミサを捧げることはできませんが、病院で心を共にしています」とのメッセージを頂いていました。
また、出席者の中には、「聖体拝領の行列に加われませんので、自席で拝領させてください」という方もいました。

毎日欠かさず参加される‘お告げのマリア会’のシスター達の姿が見えません。「聖母被昇天」の祭日、人それぞれに様々な状況下で迎えます。
病床にあって共に集うことのできない人、重症の病人の側を離れることのできない人、仕事の関係で共に集うことのできない人、歩行が困難でも善意の人々の助けを得て共に集うことのできた人、里帰りのチャンスを得て共に集うことのできた人、教会共同体には、本当に様々な人間模様があります。頭では、そのことは分かっていました。現実を目の当たりにして、ホメリアの言葉が微妙に揺れ動きます。

小ヶ倉教会は、新しい住宅街“ダイアランド”のほぼ中央にあります。街路は整備され、それぞれの住宅も庭木や花壇、鉢植えが様々に工夫され、散歩する人の目を楽しませてくれます。
真夏は、さすがに快適とは言えませんが、夏前までは、せっせと歩き回りました。ある人に言わせると、「散策ではなく徘徊」とのことですが・・・。
その折、ほとんど忘れかけていた、出会う人との挨拶のチャンスに恵まれました。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」、たったそれだけのことですが、私たちは地域社会に生きている、生かされているのだということを思い出させてくれます。

このような日々の中で、修道共同体の中で埋没させてしまっていた何かが変わるかも?と期待しています。
そして、マリア会の『生活の規則』第2巻1−2の「私たちは、マリアの家族として働くキリスト者と交わるとき、自らが修道者であるということを一層深く理解する」との言葉を反芻しています。
小ヶ倉教会の信徒の皆さんとの出会いの中から、信徒マリアニストの誕生と、そして、修道マリアニストの再生を夢見て・・・。



■マリアへの奉献(4)  マリア会司祭 冨来正博
  

洗礼における奉献

キリストの奉献を考えるとき、父なる神と兄弟である人類に対するキリストの愛の大きさに心を動かされます。旧約のいけにえとキリストのただ一度の奉献のちがいは、この愛にあると思います。いまキリスト教の奉献についての考察をすすめていますが、すべての奉献が愛に根拠を置いていることに注意を払いましょう。実は私たちが行う奉献は、このキリストの奉献に参与することだからです。

イエスはニコデモとの対話の中で、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、」「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章3,5節)と仰せになって、洗礼を暗示なさいました。
洗礼によって私たちの罪は許され、清いものとされますが、それはキリストと一つになって新しい人として生まれるからです。
聖パウロはキリストと一つになることを次のように述べています。

「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6章3-5節)。

洗礼は古い人の死を意味します。古代の教会においては、洗礼式で受洗者は水の中に沈められていました。これは古い人の死を象徴するものでした。古い人が死ななければ新しい人に生まれ変わることはできません。


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