◎ なぜ マリア?

◎ お告げのマリア

◎ マグニフィカトのマリア

◎ カナのマリア

◎ 十字架の下のマリア

◎ 神の母、聖マリア

◎ キリスト者一致とマリア

◎ イスラームとマリア

◎ マリアと教会の秘義



MARIA

■ イスラームとマリア

  
イスラームはいうまでもなく、7世紀に預言者ムハンマドがアッラーの啓示を受け、その教えを説きはじめたことから始まったとされる世界宗教です。
現在北アフリカ、中東、南アジア、東南アジアなどを中心に約13億人の信者を抱える、キリスト教につぐ世界第2位の宗教であり、その人口は移民等により北アメリカや西ヨーロッパでも急増しています。

日本も含め、いわゆる西側社会ではイスラームの知識が不足していることもあってこの宗教に対する偏見には根強いものがありますが、2001年9月11日のアメリカにおけるテロとそれに続く世界情勢の変化はそのイメージ悪化に拍車をかけることになってしまいました。
連日メディアで報じられるイスラーム原理主義運動や「聖戦」を主張するテロ組織の活動はいままでになく大きな関心を集め、「過激で好戦的なイスラーム」という誤ったイメージを定着させ、助長するのに一役買っています。


しかしキリスト教と同様、イスラームにもいろいろな立場があり、そうした極端な一面だけを取り上げるのはきわめて不当です。私たちはメディアによって作られるイメージに流されるのではなく、むしろこういうときにこそ真の対話、相互理解が必要だということを認識しなければならないでしょう。

そのささやかな一環として、私たちはここでイスラームにおけるマリア理解について考察してみましょう。

イスラームとマリア、とは奇妙な組み合わせだと思われるかもしれません。
ところが驚くべきことに、アッラーの啓示を書き取ったものとされるイスラームの聖典クルアーン(コーラン)には、イエスの母マリアの名前が34回も出てきます(これは新約聖書よりも多い)。
しかもマリアはクルアーンの中で個人名で登場する唯一の女性です(他の女性たちは「妻」「姉」「女」などと表現されているだけです)。
さらに、クルアーンは114のスーラ(章)から成り立っていますが、その第19スーラは「マルヤム(マリア)」と題され、天使のお告げからイエス誕生までの経緯が記されています。
また第3スーラではマリア自身の誕生のいきさつなどについて短い記述があります(これらの部分は福音書がベースになっているようですが、新約に見られないようなエピソードもあり、それはイスラームの教義に合致させるための書き換えだけでなく、おそらく新約に採用されなかったキリスト教の資料(外伝など)からとられていると思われます)。

しかしなぜイエスやマリアがクルアーンにでてくるのでしょうか?
イスラームはイエスやマリアを否定しないのでしょうか?
実はイスラームのキリスト教理解というのは、我々のイスラーム理解に比べてはるかに好意的なのです。キリスト教徒が、ユダヤ教を受け入れないまでも、キリスト誕生以前に同じ神が語りかけた「旧約の民」として認めているように、ムスリム(イスラム教徒)も、ユダヤ・キリスト教を受け入れはしませんが、同じアッラーが語りかけた「啓典(聖書)の民」として敬意を払い、自分たちとの歴史的・宗教的連続性を見てとっています。その文脈において、イエスは神の子としてではありませんが偉大な預言者として敬われており、イスラームにおいても高い地位を占めているのです。

興味深いのは、そのイエスの母に対して、イスラームではプロテスタントにさえ見られないような、深い尊敬の念が示されているということです。イーサー(イエス)に関する記述にはマルヤム(マリア)への言及が数多く見られ、彼女はその息子とともに非常に高く賞賛されています。
「そのとき天使は言った、『マルヤムよ、神はお前を選び、清め、すべての女性のうえに挙げてくださった。マルヤムよ、主に従順であれ、ひれ伏して神を拝むがよい』」(第3スーラ、37-38/42-43節)
「処女を護りとおした女(マリア)、我々(アッラー)は彼女に息を吹き込み、彼女とその息子をすべてのものに対するしるしとしたのである」(第21スーラ、91節)
「我々はマルヤムとその息子をしるしとし、避難所として谷間と泉のある丘を与えた」(第23スーラ、52/50節) (*注)

一部には、マリアへの言及が頻繁になされるのはイエスの神性を否定するためだ、と言う説もあります(たしかにクルアーンは「神の子」という表現を避け、「マルヤムの子」という表現に終始しています)。
しかしイスラームにおいてマリアが占める高い位置はそれだけでは説明がつきません。
マルヤムは聖典において神に従順な信仰者として描かれており、伝統的にも信仰者、あるいは女性の模範として考えられてきているからです(一昔前になりますが、シーア派のイランでは女の子を教育するときに「そんなことをしてはいけません、ヘズラート・マルヤム(マリア様)だったらそんなことなさらないでしょうに!」と叱るのだ、という話をあるカトリック神学者が伝えています)。
イスラーム的女性の模範としてそのマルヤムと肩を並べられるのは、ムハンマドの最愛の妻アイェシャか、娘ファティマくらいだという学者もいます。

もちろんこれらの興味深い事実をあまり拡大解釈してはいけません。
キリスト教はなんといってもキリスト中心の宗教であり、その点についての違いが超えられなければ、神学的な宗教対話は進まないでしょう。
しかし教義だけが対話ではありません。日常の感覚として、我々はもっとイスラームに対して開かれた態度をもっていてもいいのではないでしょうか。
実際、イスラームおけるマリアの意外なほど高い地位というのは、実は我々がこの宗教についていかに無知であるかを示しているのかもしれません。
我々は他宗教について知ったかぶりをしないで、もっと謙遜になって学ぶべきでしょう。そしてそれはこのイスラーム世界との緊張が高まっている今日、今までにもまして必要なことではないでしょうか。 <K.S.>

注: ここでのクルアーンの日本語訳は既存の訳に頼らず、英訳から訳出しました。
ちなみに聖典としてのクルアーンは翻訳が禁じられており、訳文は意味を把握するための参考以上のものではありません。

追記: イスラームの教義や歴史についての解説本はいくらか出ていますが、ムスリムたちの素顔が見えるような本はあまりありません。その中にあって「イスラームの日常世界」(岩波新書・片倉もとこ著)は実際のムスリムたちがどのような暮らしをしているのか、どんなことを考えているのかといったことがとてもわかりやすく、楽しく書かれています。興味のある方にはお勧めします。
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