◎ なぜ マリア?

◎ お告げのマリア

◎ マグニフィカトのマリア

◎ カナのマリア

◎ 十字架の下のマリア

◎ 神の母、聖マリア

◎ キリスト者一致とマリア

◎ イスラームとマリア

◎ マリアと教会の秘義



MARIA

■ キリスト者一致とマリア

  
キリスト教、と一口に言ってもいろいろな教会・教派があることはみなさんもご存知でしょう。
悲しいことですが、これらの各教会・教派の間では何世紀にもわたって争いと対立が続いてきました。そのなかでもとくにカトリックとプロテスタント諸教派との分裂は、激しい神学論争と政治的衝突(戦争も含みます)を生じたこともあって、癒しがたいものとされてきました。

しかし20世紀に入ると状況が一変します。
同じキリストを信じるもの同士が互いに争っているのはおかしいのではないか、という認識が次第に強く持たれ始め、和解と一致を探る動きが出てきます。
その中で諸教会・教派は感情的に非難しあうことをやめ、過去の論争を神学的対話によって解決したり、信仰や社会の問題に協力して取り組んだり、また個人や地域レベルでも共に祈り、学び、行動することで、お互いの理解と友情を深めてきました。
こうした、キリスト者の和解と一致を目標とする努力を総称して「エキュメニズム」と言いますが、
いまやこれはカトリック教会を始めほぼすべての主要なキリスト教会・教派にとって最優先課題のひとつとなっています。

そんなエキュメニズムの時代に、マリアはキリスト教徒たちの中でどのような位置を占めているのでしょうか。
よく言われるように、カトリックと東方正教ではマリア崇敬の伝統が強く、マリア信心は一般信者の日常生活にも深く浸透しています。
これに対しプロテスタント諸教派はマリアを特別に尊敬したり、マリアに祈ったりすることはせず、そうした崇敬は聖書に基づかないとして批判的な態度をとっています。
実際、マリアを聖書から読み取れる人物像に限定して考えるプロテスタントと、それだけでなく、天の元后、罪人のとりなしをしてくださる方として崇敬するカトリックや東方正教との間の相違は、神学的にとても根深いものであり(ここでは専門的な話は割愛しますが)、一般に考えられているほど、そう簡単に乗り越えられるものではありません。

しかし希望の光がないわけではありません。
昔からの感情的な中傷合戦をこえた今、カトリックとプロテスタントの間でもマリアに関して共有できる点がいくつかあるということが気づかれるようになりました。
たとえば、歴史的研究から、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちの多くは、神の母に対して特別な愛情と尊敬の気持ちを持っていたことがわかりました。
それはカトリックの聖母崇敬とは違ったものですが、少なくともプロテスタントにも独自の聖母崇敬がありうることを示すものとして注目されています。
また「聖書のなかのマリア」に関しては、カトリックとプロテスタント双方の聖書学者による共同研究がなされ、かなりの程度の聖書解釈上の合意が達成されています。
さらに女性の尊厳の尊重と回復に重点を置く神学者たちからは、教派の違いを乗り越えて、マリアを自律的な女性の模範、女性解放のシンボル的存在としてとらえなおす試みもなされています。

例を挙げればきりがありませんが、キリスト者一致のためにも、マリアに関する共通の理解は欠かせません。神学レベルの難問の解決は神学者に任せるしかないかもしれませんが、私たちもマリアを崇敬する者として、キリスト者一致という観点から、他のキリスト者とともにマリアについて黙想し、学び、分かち合うことができれば、それもまたマリアを通してキリストにお仕えするひとつの方法ではないでしょうか。
 <K.S.> 
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