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◎ カナのマリア

◎ 十字架の下のマリア

◎ 神の母、聖マリア

◎ キリスト者一致とマリア

◎ イスラームとマリア

◎ マリアと教会の秘義



MARIA

■ 十字架の下のマリア

  
   Stabat Mater dolorosa, juxta Crucem lacrimosa.
   悲しみの聖母は、涙ながらに十字架の下にたたずんでおられた

十字架の下にたたずむマリアは、お告げのマリアに並んで数多くの音楽家や画家に取り上げられている。この悲しみの聖母は、ヨハネ福音書の受難物語を締めくくる場面で描かれているマリアの姿だ。
ヨハネ福音書19章25節から27節までと、29節から30節を読んでみよう。

*イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

*そこには酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、・・・イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、・・・息を引き取られた。(新共同訳聖書)

読者の皆さん。憶えておられますか。カナの婚宴でのイエスとマリアの会話を。ぶどう酒がなくなりましたよというマリアにたいするそっけないイエスの返事。母親を「婦人よ」と呼びかけ、「わたしの時はまだ来ていないのです」と言うイエスの言葉。しかし、息子に絶大な信頼を寄せるマリアは、奇跡を呼ぶ。
そして、この出来事は人びとを信仰に導く七つの奇跡の最初のものとなった。

さて、十字架上のイエスの会話はどうであったのだろうか。繰り返すまでもない。
イエスは母親を「婦人よ」と呼びかけ、愛する弟子を自分の身代わりに差し出す。
そして、用意されたぶどう酒を口に含み、「成し遂げられた」と息を引き取った。

ここにはヨハネ福音書の大切なシンボリズムが見出される。
「婦人よ」という呼びかけは、イエスのマリアにたいする肉親の情を超えた関係をさしている。
そして、救いのみ業の「時」は満ち、新しい生命を象徴するかのように
イエスは「ぶどう酒」を口に含んで、すべては「成し遂げられた」と息を引き取る。

イエスとマリアの会話は個人的な母親と息子のレベルを超えている。
人間的に考えれば、息子がもだえ苦しみながら死を迎えるのを、冷静に見つめておられる母親はいない。父親でもそうである。
だから、ここでのマリアは信仰の人であり、キリストと共に人類を新しい生命にみちびく勇敢な「婦人」として描かれているのだ。

死に行くイエスとその母マリア。また、その母マリアを引き取る愛弟子。
この場面を甘い親子の孝愛のしるしと受け取ることも出来よう。
しかし、わたしたちは、ここにそれ以上のものを見る。
弟子たちが逃げ去った後にもイエスに従うマリアの信仰。この堅固な信仰があったればこそ、イエスは自分の弟子を「子」として与え、弟子はマリアを「母」として受け入れる。
つまりマリアはその強固な信仰の故にわたしたちを神に導く教会の象徴であり、そのマリアを受け入れる弟子は信徒の象徴である。
だとすれば、すべてキリストを信じる者はマリアの「子」であり、マリアは新しい生命を育むわたしたちの「母親」である。

そして、この十字架の下にたたずむマリアこそは、最も忠実なイエスの弟子であったのだ。
 <朝山宗路> 
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