◎ なぜ マリア?

◎ お告げのマリア

◎ マグニフィカトのマリア

◎ カナのマリア

◎ 十字架の下のマリア

◎ 神の母、聖マリア

◎ キリスト者一致とマリア

◎ イスラームとマリア

◎ マリアと教会の秘義



MARIA

■ カナのマリア

  
ナザレの村で静かに母親と暮らしていたイエスが、そろそろ母親の膝元を離れて宣教に出ようと準備をしていた頃 、カナに住む友人から結婚の披露宴に招かれた。
イエスは母親マリアと共に出席したが、饗宴の真っ最中にぶどう酒 が足りなくなった。
人の窮乏を察することに敏感なマリアは、早速息子イエスにそっと耳打ちした。
「ぶどう酒がな くなりましたヨ。」
結婚の披露宴でぶどう酒がなくなることは新郎にとって大変不名誉なことなのだ。
ところが、息子イエスの返事はそっけないものだった。
「婦人よ。わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
(新共同訳聖書ヨハネ2:4)。
しかし息子イエスに絶大な信頼を寄せていたマリアは、何の躊躇もなく召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(ヨハネ2:5)と言って、さっさと宴会の席に戻ってしまった。

イエスは、その家に置いてあった石の水がめ六つに水をいっぱい入れさせ、その水を汲んで世話役に持って行くように言った。するとどうだろう。水は前よりも美味しいぶどう酒に変わっていた。

これは、ヨハネ福音書の最初に出てくる物語である。困った人を助けるイエスの最初の奇跡だ。
だが、この物語を読んでいてふと気付くことがある。それは、先ずイエスが母親を「お母さん」と呼ぶ代わりに「婦人よ」と呼びかけていることだ。だからなんとなくイエスの返事がそっけなく感じ取られる。
しかも、「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」というくだりも
白々しく感じる。しかし、ここでイエスは、自分が神の子であることを人びとに宣べ伝える時はまだ来ていないのですよと言いたかったのだろう。でも、マリアの一言でその扉は開かれた。
イエスは、この時を境にしておっぴらに人びとを救う仕事に乗り出したのだった。

それにしても、イエスが「婦人よ」と呼びかけるのはなぜだろうか。
これを理解するためにはイエスの言う「わたしの時」という言葉と関連付けて考える必要があるようだ。先ず、このイエスとマリアの会話は、実は親子の会話ではなく、メシア・イエスとその協力者マリアの会話なのだ。
イエスの「時」は宣教の時であり救いの時である。それは十字架と栄光を表す「時」でもある。
十字架上のイエスは、その救いの時に、マリアに「婦人よ」と呼びかける(ヨハネ19:26)。
母親マリアは「婦人」としてこのイエスの救いの事業に参加し協力するのである。
だから、マリアは人びとに言う。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」

宣教の人マリア。
マリアは福音宣教の先頭に立って人びとに呼びかけている。イエスに従いなさい、と。
このような背景があるから、フランス大革命でキリスト教が壊滅状態に陥ったとき、その窮状を救おうとした宣教師福者シャミナードは、この婦人マリアの言葉をマリアニストのモットーとしたのだった。
マリアニストは宣教者の集団である。
 <朝山宗路> 
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