◎ なぜ マリア?

◎ お告げのマリア

◎ マグニフィカトのマリア

◎ カナのマリア

◎ 十字架の下のマリア

◎ 神の母、聖マリア

◎ キリスト者一致とマリア

◎ イスラームとマリア

◎ マリアと教会の秘義



MARIA

■ マグニフィカトのマリア

  
マリアについて、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか。
マリアはおとなしい、従順な女性であった、というのが最も一般的なイメージのようです。
それは教会の公式の教えではないにしても、聖画や聖像などのもの静かで柔和なマリアによく表されています。

ところが、女性が社会に進出し始め、その尊厳と権利が認められるようになってきた今日、伝統的なマリアのイメージに違和感を覚える女性たち(そして男性たち)も増えてきました(と教皇パウロ6世はすでに1970年代に指摘しています)。
たとえば、社会で活躍する女性たちの中には、現代風に言えば 「専業主婦」であったマリアと自分を重ね合わせることに、多少の難しさを覚える人たちもいるようです。
それでなくても、「ひたすら静かでおとなしく、従順な女性」というイメージは、そのような生き方が必ずしも奨励されない現代にあって、マリアと私たちの間に隔たりを感じさせてしまうこともあります。

しかしマリアのイメージというのは、実は時代や文化によって変化してきています。
これは教会の教えが変化してきたというより(もちろんそれもありますが)、むしろ人びとが心の中で思い描くマリアのイメージが、その時代や社会の影響を受けて変わってきているということです。

さらに教皇は「教会がマリアを模範とするのは、別にマリアとまったく同じような日常生活を送ったり、ましていまどき存在しないような当時の社会的文化的背景までまねするためではない」とも言っています。むしろ、教会が模範とするのは、マリアが完全にそして責任を持って神の意志を受け入れたその仕方(生き方)である、と言うのです。

現代の神学者たちはしたがって、マリアは実はもっと自発的で活発な女性であった、と考えることも、聖書と教会の教義の範囲内で十分に可能だと考えています。実際、そのように考えたほうが、マリアの真の姿により近づくことができるという主張も、現在では多くの賛同を得ています。

「マリアの自発性」が最もよく現れているのはフィアットですが、ここではその陰に隠れがちなマグニフィカトに目を向けてみましょう。
マグニフィカトは「マリアの歌」とも呼ばれるもので、妊娠した後のマリアが天使のお告げによって、いとこのエリザベトを訪問した折に歌われたものです。

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 (ルカ 1:47-55)


「身分の低い、主のはしため」などという表現から、「マリアの謙遜」というテーマにのみ集中しがちなこの歌の解釈ですが、実はここでは当時の女性の発言としては驚くべきことが述べられています。
「主は・・・思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし・・・富める者を空腹のまま追い返され」るというくだりです。
これは神の支配・正義の到来が、この世の不正・権力を覆すという過激な宣言です(そして実際に、そのような神の正義の性格は、イエスの生涯を通して明らかにされていきます)。
しかもマリアはこれを、貧しい者を「憐れむ」ような立場からではなく、むしろ自ら貧しい者として述べています。ここに私たちは、貧しい階層の出身であるマリアの、ひたすらおとなしくもの言わぬというより、むしろ社会の不正を前に毅然とした態度で生きる強さを読み取ることができるでしょう。実際、聖書学者の中には、ここに不正を糾弾した旧約の預言者たちとマリアとの連続性を見て取る人もいるほどです。

この歌はさらに、マリアの「信仰告白」(ヨハネ・パウロ2世)でもあります。
それは、マリアが思いついたことをただ自由に述べているのではなく、この歌が旧約聖書のさまざまな箇所から取られていることからもわかります。
この信仰告白は、マリア個人のものというより、神の民イスラエル、とくに貧しく、へりくだった者たちの信仰を代表する性格のものです。
一部の学者はしたがって、ルカ福音書がここでマリアに「神の民の代表」とでも言うべき役割を与えている、と述べています。それは当時の女性観からすれば例外的なことですが、しかし確かにマリアはその役割にふさわしかったと言えます。
なぜなら、全イスラエルが待ち続けた神の約束の成就、神の支配の到来、それは文字通り、この女性の胎内で始まったからです(人類にとっての新しい時代が、ひとりの女性の胎内で始まった、ということは女性たちにとってどれほど大きな励ましでしょうか!)。
それゆえマリアはここで、約束されていた新しい時代の到来、それを待ち続けていたイスラエル全体をあたかも代表するかのように、神の忠実さを賛美し、それに対する民の信頼を歌っています。
それは女性も、男性とともに神の民のなかで重要な位置を占めている、ということの雄弁なあかしだと言えます。

それゆえ教皇パウロ6世は、マリアは決して現代の女性からも遠い存在ではない、と教えています。
「現代の女性はまた、ナザレのマリアが神の意志に完全に献身していながら、しかし決して臆病でひたすら従順に徹する女性などではななかった(中略)ということを喜びと驚きをもって発見するでしょう。
それどころか、彼女は、神が謙遜な者、虐げられている者を高く上げられ、この世の支配者たちをその特権から追い払う(ルカ1:51-53参照)と宣言することをためらわない女性なのです。
さらに現代の女性は、『貧しく謙虚な者たちのなかで卓越している』マリアのなかに、貧困や苦しみ、脱出の旅や異郷の生活(マタイ2:13-23)を自ら経験した強い女性の姿を認めるでしょう」

このように、私たちも一般のイメージにとらわれることなく、新しい時代にあってもしっかりと聖書と伝統に向き合えば、実はマリア御自身は常に新鮮な力を私たちに与えてくださることに気づくでしょう。
そしてその凛とした生き方は、ときに肩を落とし、伏し目がちになってしまう私たちにとって、大きな慰めであるとともに、力強い励ましとなるのではないでしょうか。

追記 参照した公文書はパウロ6世「マリアーリス・クルトゥス」とヨハネ・パウロ2世「救い主の母」です。前者の引用は和訳が手元になかったため、英語版からの私訳です。
 <K.S.> 
▲TOP