■2008年 マリアニスト家族の集い ご報告

毎年、両創立者の帰天日、アデル・トランケレオン(1月10日)とシャミナード神父(1月22日)の間の日曜日に実施されるマリアニスト家族の集いが、20日(日)暁星学園の聖堂と食堂を会場に行われました。


10:30 マリア会地区長、清水一男師主式によるミサ。この中で、両創立者が大切にしていた洗礼の更新、マリアへの奉献(8名の方々が新たに奉献されました。)、マリアへの奉献の更新…を通して、一同マリアニストとしての意識を新たにすることができました。


ミサ後には、家族の3つの枝:マリア会、汚れなきマリア修道会、信徒マリアニストから、それぞれ1名ずつ、各自がマリアニストとなった召命のきっかけやその後の歩み、現在の心境などを飾らず、手短に、家族ならではの打ち明け話をしてくださいました。感心したり、笑ったり、お話を伺いながら神さまのユーモアの一端に触れることができました。
(下記「マリア会修道士による召命の話」参照)


その後は会場を移し、地下食堂での会食・懇親会。家族が皆親しくなれるようにと配慮されたくじ引きによる座席決め、初めての方々との出会い、バイキング形式の食事…、皆のお腹がいっぱいになった頃、チャリティー・ミニ・バザーの開店、汚れなきマリア修道会の若い志願者たちによる歌のプレゼント、マリア会のブラザーによる詩吟、信徒マリアニストによる韓国巡礼のご案内…。あっという間に14:30の終わりの時を迎え、感謝と喜びにうちに一年後の再会を約しながら散会しました。


マリアニスト家族の集いミサ


マリアへの奉献


会食・懇親会
●マリア会修道士による召命の話

召し出された

1925年、アメリカのピッツバーグで、八人兄弟の四番目、次男として生まれました。三才まで、生きるか死ぬか病気で、弱い赤ん坊のために母は、その子の生まれた年に列聖したばかりの幼きイエスの聖テレサに熱心に祈りました。(ご存じの様に、聖テレサは「宣教師の保護聖人」として知られています。)そのお陰様で、重病が治って、子供が元気になりました。

六才の誕生日の一ケ月前に、「シートンの丘慈善修道女会」のシスターたちが教えていた St.James の小教区付属小学校に入学しましたが、その一年生の時の一つの出来事は「召し出しの始め」として覚えています。ある日曜日、帰国休養中の宣教師の神父様がミサの説教の中でご自分の宣教活動について、面白くお話をして、子供たち一人一人にご絵を配りました。そのご絵は、聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸するところでした。背景には富士山、そして、聖人が、十字架を手に、小舟から降りるシーンでした。私はそのご絵を持ち帰って長く大事にしました。その時から、小さい子供の心に、いつかその遠い国に行って宣教師になるかなあとの考えが残りました。

小学校の五年生の時に、もう一つの「前兆」がありました。国語(勿論英語でした)の「読本」の中に日本を場面する物語がありました。覚えているのは、その物語の主人公「太郎」は海辺の村の石工で、差し絵の背景は、やっぱり富士山。五年生の地理の勉強で、「日本」と言う国は「中国」と同じく、遠い「地球の反対側」の東洋にあるとしか分かりませんでした。

六年生の時に、またもう一つの「前兆」がありました。これも「読本の一つの物語でした。題名は The Tinker of Bordeaux、つまり「ボルドーの鋳掛屋」〜フランス革命の迫害の中、ボルドーでの隠れた信者たちの為に働いたシャミナード神父様の物語でした。

小学校の卒業の年が来ました。 (「八四制」の教育制度)高等学校の入学試験で、これからの道を決めることになりました。一番上の姉は、もう既に「シートンの丘慈善修道女会」の修練者、兄と二番目の姉は公立高等学校に通っていましたが、両親は私が神父になるかも知れないと考えて、経済的に難しいけれども、カトリック学校に入った方がいいと決めました。私達は、神様の為に働いているのは、教会でミサを捧げて、告解(今の「ゆるしの秘蹟」)で罪をゆるす神父様と学校で教えるシスターそれしか分かりませんでした。

当時、ピッツバーグに二つの男子カトリック高等学校がありました。その一つは、「Central Catholic High School」、キリスト教学校修士会(ラ・サール会)の歴史の長い有名な学校で、もう一つは丁度一年前に設立されたばかり「North Side Catholic High School」で、マリア会の学校。教区の決まりで、競争を避けるために、Central Catholic 校は市の南部地区、North Catholic 校は北部地区から生徒を募集することになりました。

家は、南部地区よりも更に南の「南岡地区」にあったので、もちろん CentralCatholic に受験しましたが、成績発表を待っている間に父は彼自身の生まれ育ちの北部地区の学校に私が行った方がいいと思い立って North Catholic の校長先生 Brother Fred Hartwich に面会を求めて、例外入学校を頼みました。それで、North Catholic にも受験しました。合格して、9月から、毎日朝早く市電で Washington山のトンネルを通って、二つの川を渡って、Troy丘を昇って、North Catholic High School に通いました。

高等学校の一年生の担任の先生は Brother James Kline。毎日の宗教の授業も Brother James が受け持っていました。マリア会の学校でしたので、二学期の始めの1月に、ホームルームの時間も宗教の時間も利用して、すべてのクラスに「シャミナード・デー」の準備が始まりました。Brother James がシャミナード神父様とマリア会の創立について、そして世界中の「マリア様を助けて、神様の仕事をしている」マリア会の宣教師についての話を熱心で面白く話しました。「シャミナード・デー」の全校プログラムの後で、帰る前のホームルームで、Brother James は「マリア会について、興味があれば持ち帰って下さい」と言って、二・三枚のプリントを配りました。私はそれを貰って持ち帰りました。

家に入った時、母がアイロン台の前に立って洗濯したものにアイロンをかけるところでした。「お母さん、これを見て下さい。僕はこのマリア会に入っていいですか?」といきなり言いました。「今忙しいから、そこに置いて」と母は答えた。その晩御飯の時に母は「そのプリントをお父さんに見せて」と育ったので、家族全体の話題になりました。そのところから、私は隣州の Ohio にあるマリア会の志願院に行く準備が始まりました。ピッツバーグから初めて離れたのはその1941年の8月、汽車に乗って Dayton へ行きました。Mount Saint John Normal Schoolで志願者の生活をしながら、高等学校の二年生でした。 16才の誕生日の2ケ月前でした。

その1941年12月7日の歴史的大事件は多くの人の人生を替えました。しかし、志願者の私達の場合はそれ程の影響はありませんでした。ただ、授業時間が増やして、夏休みを短くして、四年間かかるはずの勉強を三年で終わるように、私達のクラスは、予定より一年早目に修練院へ行きました。修練院に入った間も無く、18才の誕生日に徴兵に応じることになりましたが、アメリカでは、修練者は(神学生と同様に)登録だけで免除されました。私の兄と弟は軍隊に入りました。

1944年8月20日に初誓願を立てて、学生修道者になって、大学の勉強は Dayton 大学でした。その後、2年間 Baltimore そして New York で小学校を、 5年間 Cleveland の Cathedral Latin School で高等学校を教えました。その間、夜間講座や夏休みを利用して、Western Reserve 大学院で修士の学位を取りました。

しかし、神の呼びかけは一回切りのものではありません。1953年3月でしたが、「修練者の時に、お前は『行けと言われたら、どこでも行きす』と言ったが、今でもその意志がありますか ?」と、管区長様からの手紙を貰いました。その後、管区長様と手紙の遣り取りあげくの果て、日本へ派遣されて、私の28才の誕生日の二日後、あの雪の冠を頂いている富士山を船の甲板から見ました。
益浦仁弥  
(注:原文のまま。益浦仁弥 修道士は、日本に帰化したアメリカ人です。)
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